秘密施設の一室で、紡は再び「欲望の地図」のホログラムと向き合っていた。先の浄化で得た、世界全体の「凝り」を深く感知する力は、彼女の感覚を研ぎ澄まし、同時に新たな負担を強いていた。地図が示す無数の赤い点、人々の満たされない渇望の残滓が、常に彼女の意識の片隅で囁いているかのようだった。それは、目を閉じても、耳を塞いでも消えることのない、微かなざわめきとなって紡の心に影を落としていた。
神崎は、そんな紡の様子を静かに見守っていた。彼は、紡の精神状態が繊細な均衡の上にあることを理解しているようだった。
「あなたの『器』は、今、かつてないほど世界の『凝り』と深く接続されています。それは、同時に、その『凝り』が持つ負の側面を、より直接的に受け止めることにもなります。」
神崎の声は、警告めいていた。その瞳の奥には、紡のこの変化が、彼の予期せぬ領域へと踏み込み始めていることへの、かすかな警戒の色が浮かんでいた。
紡は、自分がどれほどこの能力に深く浸食されているのか、まだ完全には理解できていなかった。ただ、以前のように無邪気に藍と笑い合う時間が減り、人々の苦しみが、自分のことのように感じられることが増えていた。
まるで、世界中の悲鳴や不満が、直接自分の脳に流れ込んでいるかのようだった。頭の奥が常に重く、時折、耳鳴りのように人の声が聞こえる錯覚に囚われる。
「紡、顔色が悪いよ。無理しすぎじゃない?さっきからずっと、ぼーっとしてるし……」
藍が、心配そうに紡の肩に触れた。藍の目には、紡が浄化のたびに、精神的に消耗しているのがはっきりと映っていた。神崎に何度か紡の休息を促したが、神崎は常に「必要な過程だ」と答えるばかりだった。藍は、そんな神崎の言葉にも、どこか納得できない表情を浮かべることが増えていた。
その夜、紡は悪夢にうなされた。これまでの浄化で触れた、あらゆる人々の絶望、憎悪、そして満たされない渇望が、混沌とした映像となって紡の精神を蝕む。特に、匿名の誹謗中傷の「凝り」を浄化した際に感じた、「誰かに認められたい」という歪んだ叫びが、紡自身の「空っぽな承認欲求」と共鳴し、苦しめた。夢の中で、紡は、まるで他者の感情の沼に沈んでいくかのようだった。深い、底なしの暗闇の中で、無数の手が紡を掴み、引きずり込もうとする。
目が覚めると、紡の全身には冷や汗がびっしょりだった。心臓が激しく脈打ち、呼吸が乱れている。
「紡!大丈夫!?」
物音に気づいた藍が、すぐに駆け寄ってきた。紡の隣に座り、震える体をそっと抱きしめた。その温かさが、唯一の現実の光のように紡を包み込む。
「苦しいね、紡……私、どうしたらいいんだろう……」
藍の声もまた震えていた。紡の苦しみを間近で見ることしかできない無力感に苛まれていた。
「藍……私……私って、誰なんだろう……」
浄化のたびに、自分が何を取り込み、何を手放しているのか、その境界線が曖昧になっていくような感覚だった。他者の感情と自身の感情の区別がつきにくくなっている。まるで、自分の存在が、透明な水のように揺らぎ始めているかのようだった。
翌朝、神崎は紡の前に、透明なガラスでできた円筒状の装置を置いた。内部には、微かに光を放つ液体が満たされている。
「これは、『精神安定装置』です。あなたの『器』が世界の『凝り』と深く接続されることで、精神的な負荷が増大しています。この装置は、一時的にその負荷を軽減し、意識を安定させる効果があります。」
神崎は、無表情に説明した。
紡は、その装置に少し警戒心を抱いた。
このまま精神が不安定な状態が続くのは、次の浄化にも影響を及ぼすだろう。何より、これ以上、自分という存在が曖昧になるのは耐えられなかった。神崎の指示に従い、装置に手を触れた。冷たいガラスの感触と共に、液体から発する微かな光が、紡の身体を包み込む。すると、ざわついていた心と頭が、ゆっくりと落ち着いていくのが感じられた。悪夢の残滓も、少しずつ薄れていく。
(これで、少しは……)
一時的な安堵が紡を包んだ。
「この装置は、一時的なものです。根本的な解決には、あなたが自身の『器』の力を完全に制御し、受け入れた感情の『核』を、完全に『昇華』させる必要があります。」
神崎の言葉は、紡にさらなる成長を促していた。僅かながら、この装置がもたらすであろう長期的な影響への示唆が含まれているかのようだった。
浄化のたびに、紡は他者の「渇望」を吸収し、それを「浄化」することで自身の「空っぽ」を満たしていく感覚を得ていた。それは一時的なものだった。紡の内側に残された「渇望」の「核」は、まだ満たされきらず、次の浄化を求めるかのように疼いている。
藍は、装置に触れて落ち着いた紡の顔を見て、少しだけ安堵の表情を浮かべた。神崎が紡に強いるこの過酷な役割に対する、拭い去れない不安があった。
「こんな機械に頼って、本当に大丈夫なのかな……紡の身体が、これ以上ボロボロになったら……」
藍は、誰にも聞こえない声で呟いた。この状況で紡のそばにいられる唯一の人間として、自分に何ができるのか、必死に考えていた。
その日の午後、神崎は紡に次の『病理』の場所を示した。
それは、ある閉鎖的なコミュニティで発生している、異常なまでの『盲信』と『排他性』が作り出した『凝り』だった。地図上では、そのコミュニティを表す光の点が、異様に輝き、周囲の光を吸い取るかのように黒く染まっていた。
「今回の『凝り』は、特定の信仰や思想に固執するあまり、外部を徹底的に排除し、内部で異常な同調圧力が生み出されたものです。他者を『異物』として捉え、排除しようとする感情が根底にあります。その『凝り』の中心にいるのは、カリスマ的な指導者です。」
神崎は説明した。
紡は、地図上のその「凝り」を見つめた。自身の「空っぽな承認欲求」が、かつて他者から受け入れてもらいたいと渇望し、そのために「同調」しようとしていた過去を思い出させる。今、目の前にあるのは、同調の果てに生まれた「排他性」という名の歪みだった。
(これも、私と同じ「承認」を求めた結果……?でも、こんなにも、誰かを拒絶するなんて……)
紡の心に、複雑な感情が渦巻いた。自分の「空っぽ」は、光を受け入れる「器」であると同時に、世界に広がる闇を映し出す「鏡」でもあるのだと、改めて悟った。その鏡が映し出すのは、他者の歪みだけでなく、自分自身の内側に潜む、まだ見ぬ影なのではないかという、かすかな不安が芽生えた。
夜が深まり、秘密施設の中は、静寂に包まれる。
紡の「器」は、新たな「凝り」の浄化へ向かう。その先に待ち受けるのは、自己の存在と世界の歪みが深く絡み合う、見えない試練の道だった。
(つづく)