秘密施設を出発した紡、藍、神崎の三人を乗せた車両は、数時間をかけて地方の山間部に位置する、閉鎖的なコミュニティへと向かっていた。鬱蒼とした木々に囲まれたその場所は、外界から隔絶された、まるで時間が止まったかのような異様な雰囲気を纏っていた。地図上で強く輝き、周囲の光を吸い取るかのように黒く染まっていた「凝り」の中心地だ。
「このコミュニティは、『清浄の園』と自称しています。彼らは、現代社会のあらゆる『穢れ』から身を守ると称し、独自の教義と指導者を中心にした生活を送っています。」
車両がコミュニティの入り口を示す古びた門をくぐりながら、神崎が説明した。僅かながら、この場所が持つ特殊性への警戒が滲んでいた。
「その実態は、指導者への盲信と、外部への異常なまでの排他性によって成り立っています。思想に賛同しない者は『異端』として追放され、内部では絶対的な同調圧力が生み出されている。」
紡は、窓の外を眺めた。
簡素ながらも手入れの行き届いた家々が並び、住民たちは皆、同じデザインの質素な衣服を身につけ、一様に穏やかな表情で作業をしていた。一見すると平和な光景だが、紡の「器」は、その中に潜む異常なまでの『凝り』を明確に感知していた。それは、強い意志によって感情を抑圧し、統一された表面の下に隠された、個々の不安、不満、そして外部への憎悪の層だった。
(これも、誰かに認められたくて、同調しようとした結果……)
紡の心臓が、痛むように脈打った。かつて、自分もそうだった。他者に受け入れられるために、自分の「空っぽ」を隠し、周囲に合わせようとした。このコミュニティは、その先、同調の果てに「排他」を選んだのだ。
「特に注意すべきは、彼らの指導者です。『救世主』と崇められ、コミュニティ全体の『凝り』の中心にいる人物です。」
神崎は、一枚の写真を手にしながら注意点を紡に伝えた。
そこに写っていたのは、穏やかな笑みを浮かべ、慈愛に満ちた眼差しで信者たちを見下ろす、初老の男だった。その顔からは、およそ「悪」の匂いは感じられない。
「彼は、人々の『渇望』を巧みに利用し、自身のカリスマを確立しました。彼の教義は、一見すると救いの言葉に満ちています。その奥には、彼自身の『承認欲求』を極限まで満たそうとする歪みが潜んでいます。」
紡は、その写真の男と目が合ったような錯覚を覚えた。彼の眼差しには、確かに慈愛がある。その慈愛は、見る者の心を縛りつけ、依存させるような、ねっとりとした性質を秘めているように感じられた。
紡の「器」が、その人物から発せられる、巨大で複雑な『凝り』の渦を感知する。それは、これまで浄化したどの『凝り』とも異なっていた。単なる負の感情の塊ではない。人々の「救われたい」という純粋な渇望と、指導者の歪んだ「承認欲求」が複雑に絡み合い、増幅されたものだった。
コミュニティの中心にある、最も大きな集会所へと向かう。そこでは、数十人の信者たちが、指導者の言葉に耳を傾けていた。指導者の声は、まるで催眠術のように心地よく、紡の心に直接響いてくるかのようだった。その言葉の一つ一つが、信者たちの心の奥底にある不安や孤独を癒し、満たそうとしているように聞こえる。
(違う……これは……)
紡の「器」は、指導者の言葉の表面的な「光」の裏に潜む、深い「影」を感知していた。
その言葉は、信者たちの「渇望」を一時的に満たしているように見せかけて、実は彼らを自身の支配下に置くための「鎖」なのだと。その「鎖」こそが、このコミュニティに蔓延する『凝り』の根源だと。
藍が、不安げに紡の腕を掴んだ。
「紡、なんだか……ここ、息苦しいよ……」
藍の顔色は、すでに青ざめている。この場の異常な雰囲気に耐えかねているようだった。
「今回の浄化対象は、この指導者そのものです。」
神崎が、静かに紡に耳打ちした。
「彼の『凝り』を浄化することで、コミュニティ全体の『病理』を根本から断ち切る必要があります。ただし、直接彼に触れるのは困難でしょう。彼の放つカリスマは、彼の『凝り』によって強化されている。迂闊に近づけば、あなたもその『凝り』に引きずり込まれる可能性がある。」
紡は、指導者の姿を見つめた。信者たちの中心で、まさに光を放つ存在として君臨している。紡の「器」には、その光が、同時に深い闇を内包しているのが見えていた。自分の「空っぽ」が、彼の「光と影」の両方を映し出しているかのようだ。
(彼の『渇望』は……私と同じ……?でも、こんなに歪んでしまったのは……)
紡は、指導者の姿に、かつての自分、あるいは、もし自分が道を誤っていたら辿り着いたかもしれない「可能性」の姿を見たような気がした。
神崎は、紡の横に立ち、表情をじっと見ていた。
「あなたの『器』は、この『凝り』の複雑さを理解できる。感情に流されてはなりません。彼を『拒絶』するのではなく、『受容』し、その根底にある『渇望』を『昇華』させるのです。」
紡の心に再び重く響いた。
集会所の熱気は高まり、指導者の言葉はさらに力を帯びていく。信者たちの瞳は、彼への絶対的な信頼と、外部への排他性で満たされている。
この『凝り』は、浄化を試みる紡自身にも、大きな影響を及ぼすだろう。
紡の「器」は、今、光と影が交錯する「同調の檻」の中で、自己の存在意義と、世界の歪みの根源に、真正面から向き合うことになるのだった。
(つづく)