神崎は、集会所の正面から観察していた。
信者たちは、恍惚を通り越して虚ろな表情で、壇上の指導者の言葉に耳を傾けている。
指導者の声は、スピーカーを通じて響き渡り、まるで聴衆の意識を一つにまとめ上げるかのように心地よかった。
しかし、その心地よさは、個の思考を溶かし去るような、不気味な均一性を帯びていた。
藍は、紡の隣で、顔色を悪くしていた。
このコミュニティの異様な空気に、心も圧迫されているようだった。
「ねえ、紡……なんだか、みんな、同じ顔してるみたい……」
藍の呟きは、この場の「同調圧力」の不気味さを正確に捉えていた。
微かに揺れる瞳の奥に、同じ色の渇望が浮かんでいる。
機械的な拍手の音。
抑揚のない、熱狂に満ちた賛同の声。
かつて自分も抱いたことのある、すべてを委ねたいという、盲目的な飢えが宿っている。
紡は、指導者の眼差しから目を離せずにいた。
その瞳は、信者たちの絶望を吸い込み、それを自身の力に変えているかのようだった。
その光景は、かつての紡自身と重なった。
他者に認められたい一心で、自分の本心を押し殺し、周囲に合わせようとした日々。
その「空っぽ」を、誰かに埋めてもらいたいと必死に求めていた自分。
(彼も……私と同じ「空っぽ」だったのかもしれない……)
紡の「器」が、指導者の内奥へと深く潜り込んでいく。
そこに感じ取ったのは、かつては純粋だったであろう。
誰かに必要とされたいという強烈な渇望だった。
それは、あまりにも巨大すぎて、やがて他者を支配し、排他へと歪んでしまった、悲しいほどの孤独の輝きだった。
満たされることのない深淵が、他者の生命力すら吸い尽くそうとしているかのように感じられた。
その瞬間、紡の脳裏に、自身の過去の記憶が押し流されるように鮮明に映し出された。
幼い頃、友達の輪に入れず、必死に話題を合わせようとしたこと。
認められたくて、無理して笑ったこと。
それでもなお、誰からも「特別」と扱われず、透明な存在のように感じられた寂しさ。
私なんて、いてもいなくても同じだ。
胸を掴まれたかのような窒息感。
過去の自分が目の前で再び息絶えるような痛み。
胃の奥から冷たい塊がせり上がってくるような感覚。
あの時感じた絶望が、指導者の「凝り」と共鳴し、紡の心を引き裂く。
「うっ……!」
紡は、思わず胸を押さえた。
吐き気が込み上げ、全身に悪寒が走る。
まるで過去の自分が、今、目の前で息絶えていくような痛みだった。
精神安定装置の光が、微かに明滅しているのが視界の端に見えた。
その光が紡の心を落ち着かせようとするが、目の前の指導者の「凝り」は、あまりにも強烈で、紡自身の最も深い「空っぽ」の傷を抉り出しているかのようだった。
藍が、異変に気づき、すぐに駆け寄った。
「紡!?どうしたの!?苦しそうだよ!」
藍は、紡の背中を懸命にさすった。
紡の冷や汗で濡れた顔を見て、藍の表情は焦燥に歪む。
指導者の視線が、一瞬だけ紡へと向けられた。
その瞳の奥に、不敵な笑みが浮かんだような気がした。
まるで、紡の内面を見透かしているかのように。
「ようこそ、『清浄の園』へ。新たなる魂よ。汝もまた、救いを求める者か。」
指導者の声が、紡の心に直接語りかける。
それは、耳で聞く音ではなく、紡の「器」に直接響く、誘惑に満ちた声だった。
甘く、底知れない闇を秘めた囁き。
『汝の「空っぽ」は、我らが満たしてやろう。世界は汚れている。我らと共に、真の「清浄」へと生まれ変わるのだ。』
紡の心は、激しく揺らいだ。
その声は、かつて自分が切望した「承認」の甘い響きを帯びていたからだ。
一瞬、抗いがたい安堵が胸を満たすが、その奥で何かが警鐘を鳴らす。
この「承認」は、魂を縛る鎖なのではないかと。
この「凝り」は、破壊すべき対象であると同時に、紡自身の最も深い「渇望」と痛みに触れる、危険な誘惑でもあった。
まるで、蜂蜜のように舌を痺れさせるが、喉を通せば毒となるような甘さ。
一瞬の救済に見せかけて、魂を縛り付ける鎖のような縛り。
神崎が、静かに紡の横に立つ。
「小鳥遊さん。これは、彼自身の『凝り』が、あなたの『器』に語りかけているのです。
決して、その誘惑に耳を傾けてはならない。
それは、あなたの『空っぽ』を真に満たすものではない。偽りの『承認』です。」
藍は、紡の震える手を、さらに強く握った。
「紡!ダメ!この人は、紡を騙してる!私たちが、ずっとそばにいるじゃない!」
藍の言葉が、紡の揺らぐ心を繋ぎ止める。
藍の純粋な「渇望」が、偽りの「承認」の甘い囁きを打ち消そうとする。
紡は、目を閉じた。
指導者の声と、自身の過去の記憶、そして藍の必死な声が、混沌となって頭の中で渦巻く。
(偽り……?だけど、こんなにも……)
その混乱の只中で、紡の心に一つの問いが生まれた。
(もし、この『凝り』を浄化しても、彼の『渇望』が、また別の形で歪んでしまったら……?)
浄化は、あくまで現象の対処に過ぎない。
根源の「渇望」が残る限り、同じ悲劇が繰り返されるのではないかという、深い懸念が紡の心に芽生えた。
それは、彼女自身の「空っぽ」が、完全に満たされていないことへの、無意識の不安の表れでもあった。
この「凝り」は、これまでのものとは違う。
浄化するだけでは、真の解決にはならないかもしれない。
紡の「器」は今、単なる浄化を超え、この終わりのない「渇望」の連鎖を断ち切る、新たな道を模索することを強いられていた。
この歪みの根源、
そして自身の「空っぽ」の先に、紡は何を見出すのか。
(つづく)