無数の「孤独の凝り」が、形のない手のひらのように、あるいは寂しい囁きの集合体となって、紡に迫る。
触れると、自分自身の「空っぽ」が際限なく広がるような感覚に陥り、心ごと引きずり込まれそうな恐怖。その圧倒的な圧力の中、紡の「器」は抗いがたい引力に引き寄せられていた。
「深淵」からの呼び声――それは、星野を通して、紡自身の「器」へと共鳴し、紡を未知の領域へと誘う。
意識が薄れ、視界が歪む。
体中の血液が凍りつくような冷たさが走った、その時。
『抗え。』
心の奥底に響く声があった。
それは、招待状の「声」だった。
『あなたは、ただの「器」ではない。』
その瞬間、ぼやけていた視界の焦点が急速に合い、深淵の闇に溶けかかっていた意識が、現実へと引き戻される。
渦巻く「凝り」の合間を縫うように、一筋の光が差し込み、藍の顔が鮮明に浮かび上がった。
紡の異変を感じ取り、悲鳴を上げながらも、必死に手を伸ばそうとする藍の姿は、まるで絶望の淵に差す希望のようだった。
(嫌だ……。これ以上、藍にも、目の前の人たちにも、こんな絶望を味合わせたくない)
紡の心に、これまで感じたことのない、強い「拒絶」の意志が生まれた。
それは、紡の「空っぽ」に飲み込まれて死を選ぼうとした過去の自分への拒絶でもあり、目の前の信者たちが味わうであろう精神的崩壊への拒絶でもあった。
「小鳥遊さん!」
神崎の声が、遠くから聞こえる。
何かをしようと紡に手を伸ばしているのが見えた。
もう遅いと紡は感じた。
紡の中にある「器」は、既に「深淵」の入り口に立たされていた。
「深淵」、それは物理的な場所ではない。
紡の「器」が、人々の「凝り」の根源、すなわち「孤独」や「無価値」といった普遍的な「渇望」のエネルギーが凝縮された、意識の最深部。
それは、自ら命を絶とうとしたあの時、紡が見つめ、飲み込まれかけた「空っぽ」の終着点だった。
招待状の「声」が響き、紡の「真の欲望」が試される、精神的な境界領域。
自分の中にもきっとある、目を背けたくなるような深い絶望や、満たされない渇望の根源を指していたのだ。
全てを飲み込む闇でありながら、紡の心の中の「器」が新たな可能性を解き放つ扉でもあった。
紡は、目を閉じた。全身の意識を「器」へと集中させる。
これまで、紡の「器」は、「凝り」を浄化し、あるいはその本質を看破する力を持っていた。
今、彼女は「浄化」でも「看破」でもない、新たな可能性を模索していた。
招待状が言っていた「真の繋がり」と「自己受容」。
そのヒントを、この「深淵」の中で見つけ出すのだ。
心の中の「空っぽ」が、まるで巨大なフィルターのように機能し始める。
それは、これまで紡を苦しめてきた、誰からも満たされない穴だった。
今、その穴は、他者の「渇望」を直接受け止め、理解するための特別な「空間」となった。
周囲の「孤独の凝り」一つ一つが、フィルタリングされ、その純粋な「渇望」のエネルギーだけが紡の「器」へと流れ込んでくる。
それぞれの信者が抱える、「誰かに認められたい」「一人になりたくない」という、あまりにも切実で、純粋な願いだった。
それは、紡自身が長年抱えてきた「空っぽ」の根源と同じもの。
その瞬間、紡は、自らの「空っぽ」を、初めて「受け入れる」ことができた。
それは、恥ずべき弱さでも、埋めるべき欠陥でもなかった。
『誰にも認めてもらえない』と嘆いたその空白こそが、他者の『渇望』を理解し、共感するための、自分だけの『かけがえのない器』なのだと。
「深淵からの呼び声」が、再び心の奥底に響く。
それはもはや、紡を引きずり込むだけの冷たい引力ではなかった。
紡の「器」が持つ新たな能力を試すかのように、問いかけるような響きに変わっていた。
『あなたは何を選択する?』
紡の前に、二つの道が示された。
一つは、この膨大な「渇望の渦」を、かつての指導者のように「支配」すること、力で従わせ、偽りの秩序で一時的な安定をもたらす道。
もう一つは、この「渇望」を、「真の繋がり」へと「変容」させる、未知の道。
紡の脳裏に、藍の笑顔が浮かんだ。
自身が諦めかけた命を、藍が必死に繋ぎ止めてくれた瞬間の温もり。
「私は……」
紡は、静かに確固たる意志を持って呟いた。
力で従わせるなど、したくない。
誰かを一時的に繋ぎ止めるのではなく、心の底から本当の自分を認め、他者と繋がりたいと願う彼らを、真の意味で救いたかった。
藍が自分にしてくれたように、ただ、その存在を、価値を、否定しない光になりたかった。
紡は、迷いなく「変容」の道へと意識を向けた。
その「器」の奥底から、これまで感じたことのない、微かな温かい光が生まれ、ゆっくりと広がり始めた。
それは、純粋な共感と、他者の「渇望」を受け入れ、変えようとする、紡自身の「真の欲望」の萌芽だった。
紡の心臓から全身へと広がり、やがてその指先から、目の前の「渇望の渦」へと静かに力強く触れていく。
渦巻く無数の「孤独の凝り」が、まるで水面に波紋が広がるかのように、柔らかく揺らぎ始めた。
それは浄化とは違う。
闇が消え去るのではなく、その本質が、まるで別の色を帯びるかのように、ゆっくりと変わり始めているようだった。
果たして、紡が選んだこの「変容」の光は、本当に人々の渇望を満たせるのだろうか。
この光は、全てを飲み込む深淵の闇を越え、真の繋がりを築くことができるのだろうか。
紡と藍、二人の運命は今、新たな螺旋を描き始めた。
(つづく)