ヒビの向こう、藍の瞳に宿る冷たい光は、紡の心臓を鋭く貫いた。
「藍、どうしたの?!」
紡は手を伸ばすが、鋭利な刃のように輝くヒビが、二人を隔てている。
藍の表情は、まるで感情というものが抜け落ちたかのように無機質だった。
神崎は、その様子を満足そうに見つめている。
「お気づきになりましたか。その『彼女』とは、星野のことではありません。あなたと、あなたの『器』に最も深い繋がりを持っていた、藍のことですよ。」
神崎の声は、まるで冷たい水を浴びせるかのように、紡の心を打ち据えた。
(違う……!藍は違う…!なぜ…どうして…!)
「簡単なことです。小鳥遊さんの『器』は、『真の繋がり』によって力を増幅させる。その最も純粋な『繋がり』こそが、藍の存在だった。」
神崎は、紡に歩み寄る。
紡の「変容」の力が、彼の周りに結界のように広がっていた。
神崎は、その力を浴びながら、歓喜に満ちた目で語り始めた。
「私の本当の『器』の力は、他者の『器』を複製し、支配すること。だが、それは、ただ力を持つだけの『器』では不完全だ。私が求めていたのは、無限に力を増幅させる『鍵』だった。」
「藍の『器』は、あなたの力によって、最も純粋な『共感』の力を宿した。彼女の力は、他者の欲望を増幅させ、それを『自分のもの』として取り込むことができる。そう、私の『支配』の力を、無限に、あらゆるものへと広げるための、完璧な『鍵』となる。」
神崎の瞳が、狂気的な輝きを帯びる。
その言葉は、紡の脳裏に、神崎が語っていた言葉を、一瞬にして蘇らせる。
『真の欲望』、『自己受容』、『真の繋がり』。
それらはすべて、藍を支配するに足る最高の状態へ育てるための、神崎からの心理的な暗示だったのだ。
藍の瞳に宿る冷たい光は、彼の言葉と共鳴し、藍の身体から、紡の力とは全く異なる、冷たい力が放たれ始める。
それは、神崎の「器」の力だった。
紡は、絶望的な真実を前に、言葉を失った。
「どうして……そんなことを…!」
神崎は、問いに答える代わりに、自身の顔に手を伸ばす。
まるで仮面を剥がすように、その顔から、冷静で穏やかな表情が剥がれ落ちていく。
その下に現れたのは、感情のない、無機質な表情。
それは、かつて紡が、林 耀の瞳に見た、虚無そのものだった。
「私は、あの『凝り』の指導者の、唯一の生き残り。あなたの『器』が、私の師を滅ぼした日から、私はあなたの後を追っていました。私の目的は、師を
絶望的な真実が、紡の心を打ち砕く。
藍の瞳に宿る力は、紡が「変容」の力を手に入れたからこそ、生まれたものだった。
自分が信じた力が、最も大切な人を、敵の手に渡すための『スイッチ』を押してしまった。
その瞬間、紡の「変容」の力が、弱まり始める。
(私が、藍を、傷つけた…?)
紡の心が再び、「空っぽ」の闇に引き戻されていく。
「真実を知って、怖気づきましたか?所詮、あなたの力も、
神崎が、嘲笑う。
その時、藍の冷たい瞳が、一瞬だけ、紡を捉えた。
かすかに、感情を帯びた声が、紡の心に直接響いた。
『紡……!』
それは、藍の心の叫びだった。
その声に、紡の心は、再び揺り動かされる。
(藍の声…!違う…まだ、まだ間に合う…!)
紡は、自身の「空っぽ」に再び力を込める。
「変容」の力が、もう一度強く輝き始めた。
「無駄ですよ、小鳥遊さん。その力が私に届くことは、決してありません。」
神崎が嘲笑うが、紡はもはや彼の言葉を恐れてはいなかった。
(違う……。藍を支配したのは、神崎の力じゃない。私と藍の「繋がり」を、神崎が利用しただけ……!)
紡の心は、絶望の闇の中で、一つの確信にたどり着いた。
(私と藍の「繋がり」が、藍を支配する鍵になったのなら、その「繋がり」を信じることが、藍を救う鍵になるはずだ!)
紡は、自身の「変容」の力を、神崎へと向けるのをやめた。
その力を、隔てられたヒビの向こう、藍の冷たい瞳へと、再び集中させる。
「……何をしようとしているのですか…!」
焦りを見せた神崎が、藍の「器」の力を増幅させようとする。
藍の身体から放たれる冷たい力が、一層強くなる。
紡の「変容」の力は、その冷たい力を弾き返すことなく、静かに受け入れ、藍の内側へと染み込んでいく。
紡と藍、二人の間に、目に見えない光の糸が結ばれる。
それは、言葉なき「共鳴」。
藍の内側に囚われた、最も純粋な「渇望」が、紡の力に引き出されていく。
『紡……私は、あなたの「空っぽ」を、誰よりも満たしたいと願った。その私の「欲望」に、あなたは応えてくれた。ありがとう。』
藍の声と共に、彼女の身体から、神崎の冷たい力を打ち消すかのように、温かい力が放たれる。
神崎の支配が、藍の内側から崩壊していく。
ヒビは砕け散り、紡と藍の間にあった隔たりが消えた。
二人の手が、再び触れ合う。
「藍!」
紡と藍、二つの「器」の力が共鳴し、一つの巨大な力となって、神崎を包み込む。
神崎の体から、支配の力が剥がれ落ちていく。
彼の表情は、もはや冷静な笑みではなく、底知れない恐怖に歪んでいた。
ヒビは完全に砕け散り、空間に満ちていた冷たい空気も消え去っていた。
二人の手は、しっかりと握り合わされている。
紡は、藍の温かい手から伝わる確かな鼓動を感じた。
それは、単なる物理的な繋がりではない。
互いが抱えていた「空っぽ」と「不安」を、互いの愛と信頼で満たし、乗り越えた証だった。
(つづく)