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第43話:真実の行方、夢現の狭間

白い天井と、かすかに聞こえる機械音。

視界の薄い膜の向こうで、何かが動く気配がする。

紡の意識は、深く、暗い海の底に沈んだかのように曖昧だった。

彼女の体は、無数のチューブに繋がれ、病院のベッドの上で静かに横たわっている。

点滴の針が刺さった左手は、力なくシーツの上に置かれていた。


その右手は、誰かの温かい手に強く握りしめられている。

紡の横のベッドには、同じようにチューブに繋がれ、眠り続ける藍の姿があった。

二人の指先は、まるで命の糸のように、微かに脈動している。


看護師が、二人の様子を記録する。

「相変わらず、藍さんの容態が安定している時だけ、小鳥遊さんの心拍数も安定するわね……。」

看護師は、不思議そうに首を傾げた。


「この子たちが、まるで一つの心で繋がっているみたい……。」

看護師の呟きは、二人の眠り続ける少女には届かない。


だが、紡の意識の奥底では、その温かな手の感触だけが、唯一の現実として存在していた。

その感触を辿るように、紡の心は、深い暗闇からゆっくりと浮上し始める。


---


神崎の支配が崩壊し、ヒビが砕け散った空間に、静けさが戻ってきた。

紡と藍は、互いの手をしっかりと握り合っていた。

藍の瞳に、再び温かな光が戻る。

紡の「変容」の力が、藍の内側にある最も純粋な「渇望」を呼び覚まし、彼女を神崎の呪縛から解き放ったのだ。


「紡……!」


藍の震える声が、紡の心に深く響く。

安堵と、再び失うかもしれないという恐怖が入り混じり、紡の瞳から涙が溢れ出た。

藍もまた、紡の無事を確認するように、力強く手を握り返した。


二人の手から伝わる鼓動は、ただの物理的な繋がりではない。

互いが抱えていた「空っぽ」と「不安」を、互いの愛と信頼で満たし、乗り越えた証だった。


神崎は、二人の共鳴する力に包まれ、静かに崩れ去っていく。

彼の表情は、もはや恐怖に歪むこともなく、虚無のままだった。

林 耀と同じように、彼の存在は、音もなく、世界から消え去った。


神崎の消滅と同時に、紡の手に握られた招待状が、激しい光を放ち始めた。

その光は、紡と藍、二つの「器」の力を吸い込むように輝き、一つの巨大な紋様となって、空中にホログラムとして浮かび上がる。


それは、これまでの「欲望の地図」とは全く異なるものだった。

地図の中心には、林 耀のシンボルマークが、まるで心臓のように脈打っている。


そのシンボルから、無数の細い糸が世界中に伸び、それぞれが人々の姿をかたどっていた。

その糸は、どこか歪み、不安定に揺らいでいる。


「これは……何?」


藍が、震える声で尋ねた。

紡は、地図の中心にある林耀のシンボルマークに目を奪われる。

その時、招待状の「声」が、再び二人の心に響いた。


『真実を受け入れよ。この世界は、現実ではない。』


そのメッセージに、紡は息をのんだ。


『この世界は、小鳥遊紡の意識が作り出した、心象の世界である。

君は、自身の「空っぽ」な心に絶望し、自殺を図った。

そして今、現実世界では、君の肉体は、病院のベッドの上で眠り続けている。』


「そんな……嘘……」


紡の頭の中で、全てのピースが、急速に埋まっていく。

「凝り」の指導者。

林 耀。

神崎。

彼らが語っていた「空っぽ」や「再構築」という言葉は、現実世界の出来事を語っていたのではなく、紡の心の中で起こっている出来事を指し示していたのだ。


『林 耀という存在は、君の「死への渇望」が具現化した姿である。

彼は、君の意識を支配し、この世界を「無」に帰すことで、現実の君を死に導こうとしていた。』


藍は、紡の手をさらに強く握った。


「そんな……紡……!」


藍の瞳には、紡への深い愛情と、信じられないという動揺が入り混じっていた。


『藍沢博士の真の目的は、君の意識を「死への渇望」から救うことだった。

そして、藍の存在は、君が現実世界で最も信頼し、愛していた親友の意識が、君の心を救うためにこの世界に飛び込んできたものだ。

彼女こそが、君の「生きてほしい」という強い願いが具現化した姿なのだ。』


招待状の声が、優しく明確に語りかける。


「君の肉体は、まだ生きている。君の心の中で、林 耀――君の『死への渇望』が、暴走し始めている。

今、地図に示されているのは、君の心の中で、林 耀の歪んだ欲望と、それに触れた人々の「欲望」が共鳴し、暴走を始めた場所だ。」


紡は、地図の中心で脈打つ林 耀のシンボルを見つめた。

それは、もはや憎むべき敵ではない。

自分自身の、最も深い絶望の姿だった。


「林 耀を…救う……?」


藍が、紡の心の声に応えるように呟いた。


「林 耀さんは、ただの敵じゃなかった。紡の中の、もう一人の自分だったんだね……。

私たち、林 耀さんを救ってあげようよ。そうすれば、紡もきっと、目を覚ませる。」


藍の言葉に、紡の心の奥底に、新たな決意が芽生える。


それは、他者からの承認を求める「空っぽ」な欲望ではない。


自分自身の弱さを認め、受け入れ、自分自身を救うための、真の「自己受容」へと続く道だった。


紡と藍は、互いに深く頷き合った。

二人の手から放たれる温かな力が、新たな地図を照らし出す。


「私たち、行こう。この地図の示す場所へ。」


紡の「空っぽな承認欲求」を巡る物語は、今、最終章へと向かう。


自分自身の心の世界を浄化し、そして、自分自身を救うための、長く壮大な旅路へと踏み出したのだった。


(つづく)

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