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第44話:心象の旅路、浄化の始まり

白い天井の下、二つのベッドが並んでいる。

藍の心電図モニターは、安定した波を描いていた。

紡のモニターは、時折、大きく乱れる。

看護師は、そのモニターを見つめながら、静かにメモを取っていた。

「やはり、夢が影響しているのかしら……?」


---


招待状から映し出されたホログラムの地図は、不気味な輝きを放っていた。

地図の中心にある林耀のシンボルマークから、無数の歪んだ糸が伸びている。

それらは、紡の心の世界に点在する、暴走した「欲望の結び目」を示していた。


「この地図の示す場所へ、行こう。きっと、そこに林 耀さんがいる。」


紡は、藍の手を強く握りしめたまま、決意を口にした。

「そうだね。私たちなら、きっとできるよ。」

藍の瞳は、これまでの不安や迷いを全て振り払い、強い光を宿していた。


二人が歩き出すと、周囲の景色が、まるで水彩画のように滲み始めた。

研究所の無機質な空間は、やがて、人通りの少ない、どこか寂しい商店街へと姿を変える。

それは、かつて紡が、孤独を感じながら歩いていた、現実世界の風景だった。


「ここは……」


「紡の心の中にある、過去の記憶だよ。この一つ一つが、林 耀さんが暴走させている『欲望の結び目』なんだ。」


藍が、ホログラムの地図を指し示した。

地図に示された結び目は、この寂しい商店街の一角で、不気味な紫色に輝いていた。


二人がその場所へと向かうと、商店街の奥に、見覚えのある少女が立っていた。

制服を着たその少女は、スマートフォンの画面を食い入るように見つめ、絶望的な表情を浮かべている。

それは、過去の紡自身だった。


「私……」


『あの子、また一人でいる……』


『友達いないみたい……』


『SNSでもいいね一つもないんだって……』


スマートフォンには、彼女が投稿した、何気ない日常の写真が表示されている。

その写真には、誰からも「いいね」はついていなかった。

その一つ一つの「いいね」が、彼女にとっては、世界から「あなたはここにいていいよ」と承認される、唯一の光だったのだ。

だが、その光は、一度として彼女を照らすことはなかった。

過去の紡は、その事実に打ちのめされ、膝を抱え、震えていた。

その「声」の中心で、林 耀のシンボルマークが、不気味に揺らいでいる。


「林 耀さん……!」


紡が、過去の自分へと駆け寄ろうとするが、藍に腕を掴まれた。


「待って、紡。あれは、ただの幻じゃない。林 耀さんが暴走させている『欲望』そのものだよ。

安易に触れたら、私たちも飲み込まれてしまう。」


藍の言葉の通り、過去の紡の周りに渦巻く「声」は、やがて実体を持った影となり、紡たちに襲いかかってきた。

影たちは、紡の心を揺さぶる言葉を、幻聴のように囁きかける。


『お前は孤独だ……』

『誰もお前を必要としていない……』

『お前は、誰の記憶にも残らない……』

『存在しない方がマシだ……』

『お前がいても、いなくても、世界は何も変わらない……』

『お前は、この世界の「ノイズ」だ……』


その言葉が、まるで実体のない刃のように、紡の心を抉る。


紡は、耳を塞ぎ、目を固く閉じ、しゃがみ込んだ。


「違う……違う……!」


か細い声で否定を繰り返すが、言葉は虚しく、影たちの声に掻き消されていく。

紡の意識は、再び深い闇へと引き戻されそうになっていた。

孤独の記憶が、氷のように冷たい感覚となって、彼女の全身を包み込む。


その時、藍の温かい声が、紡の心に直接響いた。


「紡……!思い出して!『死は、苦しみからの解放じゃない!』」


それは、かつて、藍が紡に語りかけた、救いの言葉だった。


その言葉に、紡の心が、激しく揺り動かされる。

そうだ。

死を選んでも、この苦しみからは逃れられない。

この幻聴が、その何よりの証拠ではないか。


藍が紡の前に立ち、腕を広げた。


「紡は、一人じゃない!私がいる!」


藍の温かい声が、波動となって紡の心を包み込むようだった。

それは、単なる励ましの言葉ではなかった。


藍は、過去の紡が感じた「孤独」と「絶望」を、自身の心で、ありのままに受け止めていたのだ。


藍の瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちる。

それは、過去の紡の悲しみに、共感している涙だった。


その瞬間、紡は、藍の存在を、自分たちが「一人ではない」という確かな絆を、心だけでなく、全身で感じた。


「ありがとう、藍……!」


紡は、藍の言葉と、その温かさに勇気づけられ、自身の『存在』を肯定する力に変えた。

二人の力が重なり合い、商店街全体を包み込む。

すると、不気味に渦巻いていた「声」と「影」が、まるで朝霧のように消えていった。


過去の紡は、幻聴から解放され、その姿が、光の粒となって紡の中に吸収されていく。

地図に示されていた「欲望の結び目」も、浄化されたことを示すように、穏やかな光を放ち始めた。


「これが、『浄化』……」


紡は、自分の力で、過去の孤独と向き合い、乗り越えることができたのだ。

それは、すなわち、自分自身の中に溜め込んでいた、過去の傷やストレスを『消化』する行為だった。

他者からの承認ではない、確かな自己肯定感へと繋がっていた。


地図の林 耀のシンボルマークが、わずかに力を失ったかのように、静かに輝く。


紡と藍は、互いに顔を見合わせ、再び歩き出した。


二人の旅路は、紡の心の世界を巡る、長く壮大なものになるだろう。

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