「ああ、あなたは士官学校に通う恋人のためにお金が必要だから、危険な任務にも手を上げていたんでしたっけ。そこまでしてその恋人をつなぎとめておきたかったんですか? だったらあなたは魔術師として名を上げるべきではなかった」
「……どういう意味です?」
「優れた魔力持ちの女性は結婚相手として引く手あまたです。だがあなたが魔術師として成果を上げれば上げるほど、その恋人との結婚は難しくなるとは思いませんでしたか?」
「え……いや」
そんな風に考えたことはなかった。
下位とはいえ貴族である以上、政略結婚が避けられない場合もある。
だがエリザは魔術師団員という肩書があり自分で身を立てているから、政略結婚をしなくて済むと思っていた。
実際、師団長が勧誘してきた時も、魔法師団に入れば政略結婚の道具にならずに自分で人生を選べるようになるとアドバイスを受けたから、入団を決めたのだ。
フィルも無事士官になれば両親も認めてくれる。
だから彼を支援してきたのだ。だがクロストによるとそれは全くの間違いだったという。
「あなたの名が貴族のあいだに知れ渡ってしまった以上、あなたの結婚には確実に貴族連が口出しをしてくるはずです。平民の士官と結婚なんて許されないでしょうから、あらゆる手を使って阻止されるでしょう」
頭を殴られたような気がした。
フィルの学費のために危険任務も積極的に引き受け必死に働いた結果が、彼との関係の破綻につながるとは思いもしなかった。
エリザが黙っていると、クロストは重いため息をついて、実は……と噂についての真実を暴露する。
「あなたの悪い噂の出所が、士官学校の生徒からだという話は師団長から聞いたでしょう? あなたの耳には愛人だのなんだの程度しか入ってきていないでしょうが、本当はもっとえげつない話もあったんです」
「えっ……」
師団のほとんどの男と寝ている、体を使った任務をやっているとか下品な話を聞かされ吐き気がしてきた。
「要は、あなたが『女』を使ってズルをしているだけで、本当は役立たずだというイメージを植え付けたかったようですね」
そういう結論に持って行きたかったようだが、エリザの普段の仕事ぶりから無理のある噂は思ったより広まらなかった。
かろうじて愛人疑惑だけが残って、エリザの耳にも届いていたらしい。
「もう予想がついているでしょうが、その噂を広めた中心人物はあなたの元恋人とその友人たちです。恐らく彼はエリザさんを失脚させたかったのではないですか?」
それが先ほどの話につながるわけだ。
フィルがもし無事に士官になれたとしても、魔法師団で優秀な魔術師として名を上げたエリザとの結婚はまず不可能だとフィルは気づいてしまったのかもしれない。
「だからフィルは、私の悪い噂を流して、貴族令嬢としての価値を落とそうとした……ということですか?」
「確かなことは分かりませんが、師団長はそう結論付けてこの調査を終わりにしました」
ふしだらな女だと噂が立てば、まともな貴族たちは縁談候補から外すだろう。
フィルがエリザを失いたくなくて間違った方法を選んでしまった……と考えられなくないが、それだとその後にエリザを罵って別れを告げた行動の意味が分からなくなる。
「どうしてその話をこのタイミングで話してくれたんですか?」
「恋人と別れたと聞いたからですよ。盲目的に信じてお金を貢ぎ、いいように利用されていた頃ではこちらの言うことなど信じなかったでしょう」
うぐ、と言葉に詰まる。自分はこの補佐官にも師団長にも全く信用されていなかったのだ。
「すみません。でも彼とは別れましたし……それに、補佐官殿の推察は違うと思います。別れを告げたのは彼のほうからですし、ただ私のことが嫌いになって悪口を言っていただけだと思いますよ。いや、酷い噂を流して別れる理由にするつもりだったとか」
「そうだったんですか。まあいずれにせよその男はあなたの足枷にしかならなかったから別れて正解でしょう。次はちゃんと釣り合う相手と付き合うべきですよ」
「いえ、もう……恋愛はせず仕事に邁進します」
「え、いや、でもこのままだといずれ政略結婚が決まるんですよ? だから早いうちに自分で相手を選んでおくのが賢明です。例えば、身近なところで魔法師団のなかで探すのも選択肢の一つかと……」
クロストがまだ何か言っていたようだったが、そこで現場に出ていた者たちが戻ってきたので話はそこまでとなった。
***
現場から戻ってきた班の報告を書類にまとめ、ようやく今日の業務は終了となった。事務所を出た時にはもう深夜に近い時間になっていた。
タウンハウスまでは馬車を使うほどの距離ではないが、この時間では家までの道はもう人通りがなく、静まり返った石畳の道に自分の足音が響いてやけに耳につく。
女であっても魔法師団の隊服を着た人間を襲おうとは誰も思わない。
というより、隊服を着たエリザは女に見えないのかもしれない。師団では、殺しても死ななそうだと言われるような女だ。
フィルもこんな女が恋人だと皆に知られて恥ずかしい思いをしていたのだろう。
あの日、フィルの家にいた女性たちは美しい人ばかりだった。
そういう女性たちと見比べて、女らしさの欠片もない自分のことが嫌になってしまったのだろうか。ひどい噂を流してまでも別れたかったのかと思うと、終わったことだとしても気持ちが落ち込む。
暗い夜道をトボトボと歩いて家の前まで来た時、路地裏から誰かに呼び止められた。
「エリザ、こんな時間まで仕事か?」
振り返ると、フィルがいた。
だらしなくシャツを着崩して、お酒の匂いを漂わせている。
「……フィル? 何で……」
「お前全然連絡よこさないから、心配になって来てみたんだよ。この前、ちょっと言いすぎたかなって思ってさ。酒入っていたから、ちょっと冗談が過ぎたわ」
この間エリザにした仕打ちなどなかったかのように話しかけてくるフィルに戸惑いと恐怖を覚える。
ついさっき、フィルがエリザの悪い噂を触れ回っていた張本人だったと知らされた後のため、余計にフィルの行動が不気味に思えた。
「金輪際近づくなって……あなたが言ったんじゃない」
「冗談を真に受けるなよ。友達が煽るからああ言ったけど、俺が本気でそんなこと思うわけないってエリザなら分かるだろ? 長い付き合いなんだからさ」
あの日の暴言は、友人の冗談に乗っかっただけだとへらへらと笑う。
冗談で済ませようとする彼の笑い顔を見て、それまで残っていた未練が吹き飛んだ気がした。
あれだけ罵倒してエリザの気持ちを踏みにじった行為に対して、冗談だったと言える程度にしか悪いと思っていないのだ。
「長い付き合いだからこそ、許せないことがあるって分からなかった?」
怒りを込めて睨むと、フィルは驚いたような顔でエリザを凝視していた。
思えば、これまでフィルに反論したことなどほとんどなかった。だから本気で言い返されて心底驚いている。
「そ、そんなに怒るなよ。だからこうして謝りに来たんだし、機嫌直してよ。ホラ、お詫びにプレゼントも持ってきたんだ。これで仲直りしよう。な?」
リボンをかけられた小さめの箱をエリザに差し出してくる。
「仲直りなんて無理よ。もうお金の援助もできない。さよなら」
謝罪まで拒絶されるとは思っていなかったようで、フィルは愛想笑いをひっこめて大いに慌て始めた。
「待って待って。悪かった、仲間の前だからって虚勢を張りたかったんだ。ゴメン、本当にゴメン。エリザはいつも優しいから甘えていた。頼むよ、また仲良くしよう。そうじゃないと困るんだ」
「困る? なにが困るの?」
「いや、だってさ、俺らずっと一緒だったじゃないか。確かに俺はひどいこと言ったけど、こんなつまんない喧嘩でダメになるような浅い関係じゃないだろう?」
つまらない喧嘩なんて言葉で済ませられることではない。これまでの信頼を全てぶち壊すような真似をしたのはそっちだろうと心の中で怒りがぐるぐると渦巻くが、喉が苦しくて言い返す言葉が出てこない。