フィルと恋人になったことがそもそも間違いだったのかもしれない。
絶望的な気持ちになっていると、後ろにいたエリックがすっと前に出てきた。
前に出てきたエリックを皆が不思議そうに見ている。
「……? あの」
『バキッ!』
彼はいきなり腕を振り上げ、跪いているフィルの横っ面を殴り飛ばした。
「うぐっ!」
殴られた衝撃で憲兵に抑えられていたフィルの体が吹っ飛ぶ。エリザの突然のことであっけにとられて、ただ見ているしかできなかった。
「エリザさん」
「えっ、はい」
急に呼びかけられてひっくり返った声で応えるエリザに彼はにこりと微笑みかけてきた。
「ヒモ男に言いたい放題させては駄目だよ。あれだけの支援を受けたことに感謝するどころか逆恨みするような奴は、ヒモの資格もありません」
「その……ヒモではなく、一応恋人だったのだけど……」
「だったら尚更あなたは怒るべきだ。恋人に金蔓呼ばわりされた時点で、ぶん殴る。それがあの時の君の最適解だよ」
「ああ……そうよね。本当に、そう」
まったくその通りだ。どうすればよかったなんて考えるまでもない。
フィルとは恋人だったのだから、対等な関係であるべきだった。
金蔓などと嘲られた時に、殴って自分の怒りをフィルにぶつけるべきだった。なにひとつ言い返せず、黙ってあの場を去った自分は、全部不正解だった。
「フィル」
殴られて半分意識を飛ばしているフィルにそっと呼びかける。
「私といることで惨めだと感じたなら、その時点で別れるべきだったのよ。もう憎しみしかないのに、お金のために恋人関係を続けたのがあなたの間違い。だから今惨めな人生を送っているのは、あなた自身の責任よ」
「う、うるせえ……恵まれた環境で、何もかも持っているお前に……俺の気持ちが分かるもんか」
彼の返答に、ああもう本当にこの人とは分かり合えないのだなと、胃の腑が冷たくなる感覚がした。
魔法師団での任務は肉体的にも精神的にも辛いことが多く、それこそ最初の頃は体がついていかなくて陰で吐くこともあったし、悔し涙を流した時も一度や二度じゃなかった。
でもフィルはエリザのそんな苦悩があったなど考えもせず、ただ「恵まれている」としか思わなかった。
エリザは確かに魔力に恵まれた。でもだからといって自分がした努力や苦労がなかったことにされるのは許せない。
「人を羨んで逆恨みするような人の気持ちなんて分かるわけないわ。あなたみたいな最低な人と別れられてよかった」
「ふざけんな! お前が俺に振られたんだ! お前みたいな女らしくもねえ女、俺のほかに付き合ってくれる男なんかいねえからな!」
激高したフィルは、下品な言葉でエリザを罵ってくる。これ以上聞いていられないと判断し、拳を振り上げた瞬間、師団長が先にフィルの頬をバチーンと張り飛ばした。
「黙れ。お前の不幸自慢なんかに誰も興味ねえんだよ。自分語りはいらねえから、指示された計画の内容を話せ。ああ、虚偽の供述を重ねるほど罪は重くなるのをよく理解したうえで喋れよ」
手のひらの形に真っ赤に腫れた頬を押さえて、フィルは完全に戦意喪失した表情でコクコクと頷いている。
殴るより平手で張り飛ばされたほうが人の心を折るのに効果的なのだな……と師団長の張り手を見て感心していた。
ふと周囲を見渡すと、師団長よりも憲兵たちが鬼のような形相でフィルを睨みつけている。彼らは師団長の手前大人しくしているが、憲兵を欺き利用しようとしたフィルに激怒していたようだ。
本来ならこの場で報復を受ける羽目になっていただろう。今大人しくしているのは欺かれたとはいえエリザを誤認逮捕した負い目があるから師団長に任せているだけだ。
憲兵に引き渡されるより、この場で素直に師団長の問いに答えたほうがまともな扱いを受けられると考えたのか、フィルは素直にこれまでの経緯を語り始めた。
「こ……この計画は、上の者からの指示です。供述内容も、あらかじめ決められて、俺はエリザを共犯に仕立て上げる命令を受けていました」
わざと憲兵に捕まえられて、魔法師団員のエリザが組織幹部だと証言をするのがフィルに与えられた役目だったと白状した。
フィルがエリザと恋人関係だったと言う事実と、以前からエリザには良くない噂があったせいで、軍部警察はフィルの嘘の証言を信用してしまった。
「ずいぶんと長期的な計画だったようだな? 士官学校に在籍中、エリザの悪評を広めたのも、この計画の布石だったのか?」
「あ、いや……それはむしろ、仲間がエリザの悪い噂を俺に教えてくれたんですよ。俺と付き合っているのに師団の男たちと関係を持っているって……」
「その仲間っていうのは、誰だ? 組織の人間か?」
「そうですけど、でもあいつらも元士官学校生で、研修で行った王宮で聞いた話だっていうし嘘じゃないですよ」
「それで聞いた話を鵜呑みにして、エリザに意趣返しのつもりで悪評を広めたってことか?」
「でも事実を言っただけでしょう! 俺は恋人に裏切られたんだから、何か言う権利はあるはずだ!」
「士官学校時代からの仲間という奴らの素性はすでにこちらで把握しているが、過去に士官学校に在籍した記録はない。窃盗、恐喝、売春で逮捕歴がある組織の構成員だ」
「えっ……?」
「その仲間は『仕込み』だよ。最初からエリザの恋人であるお前を組織に取り込む目的で近づいたんだ。嘘の証言をさせる役目を果たしたからもう用済みだろうけどな」
フィルは、そんなわけがない……と言いかけた口をつぐむ。
思い当たる節があるのだろう。そもそも今回フィルは憲兵に捕まって嘘の証言をする指示を受けていたが、その他に逮捕された者たちの中に士官学校時代の仲間とやらは含まれていなかった。
フィルが嘘の証言をして捜査がかく乱されたとしても、自白魔法を使われれば嘘であることがすぐに証明されてしまう。
師団と軍部は仲が悪いため、聴取に自白魔法を使われない可能性を考慮しての作戦だったのだろうが、逮捕され嘘の証言をしたフィルは確実に重罪になる。
最初から、フィルを使い捨ての駒として利用するつもりだったことが窺い知れる。
フィルを使い、エリザが組織幹部であるとの疑惑を植え付ける偽装工作が上手くいけば、師団は信用を失って組織の捜査からは外される。
そうやってスケープゴートに目を向けさせている間に、本物の組織の幹部はさっさと逃げおおせるという筋書きだった。
「途中までは上手く行っていたな。エリザの容疑が晴れないうちは師団も動きが封じられるから、幹部が商品を持って行方をくらますだけの時間を稼ぐつもりだったのだろうが、あいにく師団ではその計画を把握していたんだ。幹部が潜伏しているアジトもすでに押さえてある」
師団長の言葉にその場にいた誰もが驚く。
エリザが嵌められると分かっていたのに、どうして何も教えてくれなかったのかと師団長を責める気持ちが湧いて恨みがましい目を向けてしまう。
それに気づいた師団長が、困ったように首を振る。
「悪いが俺も最初はエリザを疑っていたんだ」
「えっ! そ、そうなんですか……まあ、そうですよね……」
疑われていたと言われてショックだったが、よく考えれば恋人が地下組織の構成員だったのだから、疑われても仕方がない。