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第20話 決別

「……エリックさんは職務を遂行しただけですから……。それで、まだ私の調査は必要ですか?」




「いや、もう完全に君の潔白は証明されている。だからこそ、あちらがエリザさんに仕掛けてくるのを予測できたんだ。決め手はあの香水だよ。あれがあったから、今回あちらの動きをつかめた」




 以前にフィルが渡してきた香水が、実は例の薬物が含まれている商品だったと言われ驚く。


エリックはあの時、市販品のように言っていたが、一般的には出回らず一部の貴族のあいだだけで流通していたものだと一目見て気づいたらしい。




「最初の計画ではあれを証拠として見つけさせるつもりだったんだろうね。でも僕が古物店に売りに出したんだよ。一部では有名な商品だったから、すぐに組織の人間がそれを見つけて買い取っていったんだ。そこから彼らの足取りを追って、最終的に幹部の潜伏先も特定できたから潜入捜査をした甲斐があったよ」




 だから君には感謝していると言われ、あいまいに頷くしかなかった。




 エリザにかけられている疑いの全ては、組織が捏造したものだと今回の捕り物で証明された。完全に潔白だと証明されたのは、エリックのおかげだが内心は複雑だった。




「それならもうエリックさんの任務は終了なんですね。……これまでの私の無礼な態度をお許しください」




 動揺が声に出ないよう必死に取り繕いながら頭を下げる。


 エリックが諜報部隊の人間なら、エリザなどよりずっと上の立場のはずだ。へりくだるわけではないが、もう気軽な口を利くわけにはいかないだろう。


 だが彼はエリザのその態度にひどくショックを受けたように唇をぐっとかみしめていた。




「すまなかったね。もう、わずらわせることはないから……」




 言葉は途中で途切れた。


 その先を待っていたが、結局彼の口からは何も語られることはなかった。




「じゃあ、行くよ」


「……はい」




 気まずい挨拶を交わし、エリックは背を向けて静かに家から出て行った。




 閉じられた扉をじっと見つめていると、ふいに視界が涙で歪んだ。




「……うっ、うぅ」




 彼が去った扉の前で、エリザはずっと堪えていた涙を流す。




―――あの優しさの全てが、任務のための嘘だなんて思いたくなかった。




かけてくれた言葉は本心だったと言い訳してくれることを最後の最後まで期待していた。


 諜報部員であるとバレてしまった以上、彼は姿を変えて二度とエリザの前には現れない。


 たった数か月、わずかな時間を一緒に過ごしただけの同居人。


最初から信頼なんてなかった相手だ。


 裏切られたわけでもない。彼はただ、任務を遂行しただけだと分かっているから、恨む気持ちもない。


そうと分かっていても、流れる涙を止めることはできなかった。




 気づかないふりを続けていればよかったのだろうか。


 でもどうしても聞かずにいられなかった。耳当たりのいい嘘ではなく、彼の本音で語ってほしかった。




 もう開くことのない扉を見つめながら、エリザはずっとその場に佇んでいた。






 ***




 エリザが警察に勾留されている間に、多くのことが片付いていたと知ったのは家の壊れた窓の修繕を終えて二日後に出勤した時だった。




 まず、地下組織の主要幹部は国外に出奔する直前のところを確保された。


 彼らはエリザのほかにもスケープゴートを用意していて、それらを時限爆弾のように偽の情報を仕込んでいた。更に、自分たちの身代わりを国内に残しておいて、国外にいる自分たちに捜査の手が及ばないようにする計画だったらしい。




 例の薬物については、国交のない第三国に製造拠点があることまでは判明したが、そちらへの捜査権がないため製造場所の摘発には至らなかった。


 ただし、国内にあった保管施設は幹部逮捕と同時に師団が摘発したため、国内での流通はこれで完全に絶つことができたと言えるだろう。


 知らされていなかっただけで、師団はかなり以前からこの地下組織の裏工作を見抜いて調査を進めていたらしい。


 エリザの誤認逮捕の件から、軍部警察も師団に全面協力して捜査を進めた結果、数日で地下組織の人間をほぼ一掃できた。


 組織を壊滅できたが、逮捕者がかなりの数に及ぶため、取り調べだけでも大変な時間がかかっている。




 仕事に復帰したエリザを待っていたのは、膨大な調書記録の整理と裁判用資料の作成という完全なデスクワークであった。


 それというのも、地下組織の協力者という疑惑をかけられていたことは極秘事項だったため、それに関する調書は他の事務方の者には任せられず、必然的にエリザがやらざるを得なかった。




 身柄を軍部に引き渡されたフィルは、そこで散々な目に遭ったらしく、調書を見る限り、反省の色を見せているようだった。


 エリザへの嫉妬と劣等感から道を踏み外したと素直に証言していて、今では謝罪の言葉も口にしているらしい。




***




「はぁ……疲れた……」




 濡れ衣をかけられた張本人であるため、調書の内容を見るだけでかなりのストレスを感じると気づいたが、他に任せられる人もおらず、復帰後からずっと机に向かいっぱなしで疲労はたまる一方だった。


 連日のように深夜までほぼ一人きりで作業しているのも地味に辛い。


 凝り固まった肩を伸ばしながら大きなため息をついていると、後ろから声をかけられた。




「まだ終わらないのですか?」


「えっ。あっ、すみません」




 夜も更けて事務所には自分一人だと思っていたため、変な体勢で伸びをしていたエリザは慌てて姿勢を正し振り返る。




 声をかけてきたのは、補佐官のクロストだった。


 今日は師団長と現場に出ていたはずなので、一緒じゃないのかと彼の後ろへ目線を送ったら、「師団長は帰られました」と言われた。




「クロスト補佐官はまだ帰られないのですか? 私はこれをまとめたら終わりにして帰ります」




「いいえ、あなたがまだ残っているかもしれないと思って事務所に寄っただけです」




「そうだったんですか。ありがとうございます」




 深夜まで一人で事務所に残っているのを心配してわざわざ来てくれたらしい。


 以前は嫌味ばかりでエリザに対してひどい態度だったが、先日二人きりで話をした後からなんだか優しくなったように感じる。


 あちらがやわらかい態度になったから、エリザも普通に受け答えをするように心がけている。


 エリザの悪い噂が嘘だとはっきりしたからだろうか。彼の態度が軟化した理由はよく分からないが、なんにせよ仕事がやりやすくなって助かっている。




「まだ少しかかりそうですね。コーヒーでも淹れてきましょう」




「いや、おかまいなく……もう終わりますから」




 上官にコーヒーを淹れさせるわけには……と遠慮したが、自分のついでだからと気にするなと言われてしまった。


エリザが終わるのを待ってくれているのだから、さっさと終わらせなければと、散らかった書類を急いで片付ける。




「どうぞ」




「すみません、ありがとうございます」




 一通り片付け終わったところでクロストがカップを手渡してくれた。そのままお互い手近な椅子に腰かけて熱いコーヒーを口に運ぶ。




「少し濃かったですか?」




「いえ、美味しいです」




 この時間に濃いコーヒーを飲んだら帰ってからも目がさえてしまいそうだが、帰り道に眠気でぼんやりするよりいいだろう。それに、熱いコーヒーを飲んでいると疲れが取れる気がした。




「あなたが淹れてくれたコーヒーのほうが美味しかったですね。申し訳ない」


「そんなことないですよ。あ、でも普段クロスト補佐官が自分で淹れることないですよね」




 クロストもそれなりの貴族の出だから家では使用人が雑務を担っているはずだ。


 師団では身の回りのことを自分でできるように見習い時代に叩き込まれるから、一通りのことはできるはずだが、今、補佐官の立場で手ずから飲み物を淹れる機会はほとんどないだろう。




「エリザさんは家に使用人を雇っていないなら、料理も全て自分でやっているんですか?」




「ええまあ……料理も嫌いじゃないですし、時間がある時は作っていますけど」




 お金がなくて使用人を雇っていないなんてそんな個人的な話をしたかなと思ったが、師団長から聞いていたのかもしれない。


 エリザが調査対象になっていたこともクロストは把握しているのだろうかと少し気まずく思いながら彼を見ると、なぜだか嬉しそうに笑っている。




「良いことですね。私の母も父のために普段から手料理をふるまっていますよ。私も乳母ではなく母に育てられましたし」




「あ、そうなんですか……優しいお母様なんですね」




「そうなんです。母は父よりも高位の家から嫁いできたんですが、ちゃんと夫を立てることを忘れない妻の鑑のような人なんです」




「……」




 話の内容がなんだかおかしい気がして、エリザは相槌を返さず首をかしげる。


 これまでこんな風に個人的なことを話したことがなかったから分からなかったが、クロストは意外と空気を読まず喋りたいことを勝手にしゃべるタイプなのかもしれないなと、こっそり苦笑する。


 そんなエリザの微妙な表情に気付くことなくクロストは勝手に女性の役割だとか責務だとかをペラペラと語っている。





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