少しの沈黙のあと、エリックが口を開く。
「誠意とか、そんな奇麗なものじゃないよ。ただ、君には……本当の名で呼ばれたかっただけだ」
「私に、名前を? どうして……」
「どうしてって、師団長の言ったとおりさ。みっともないから隠し通して終わりにしたかったのに、そんなふうに問い詰められたら嘘もつけないじゃないか……」
一瞬なんのことか分からず首をかしげたが、すぐにハッと思い至る。
「え、え、それって、師団長の勘違いって言いましたよね?」
惚れた女、というのは冗談のはずだ。勘違いだと言っていたじゃないか。だがエリックを問い詰めるとみるみる顔を赤くしていく。
「エリザさんが入団してすぐの頃、地方遠征で一緒に仕事をしたことがある。僕はその時も別人になっていたから気づかなかっただろうけど」
エリックが言うには、エリザが初めて潜入捜査に参加した時のメンバーに彼もいたらしい。まったく思い当たる人物が記憶にないため驚いたが、赤狗は任務ごとに顔を変えているからその時も別人の顔をしていたらしい。
「その捜査中に、他国の工作員と衝突して殺し合いになったんだ。君は初めて魔法で人を攻撃して、返り血を浴びてしまって震えていた。限界だと思って後ろに下がらせようとしたが、最後まで戦うと前線に戻っていった。つい先日まで、貴族令嬢として生きてきた少女が歯を食いしばって戦うその姿が、目に焼き付いて離れなかった」
そんなことを言われて驚くしかない。エリザの記憶では、初めて敵と戦闘してパニックになったせいでグダグダになって終わった。
担当の先輩にはこっぴどく叱られ、こっそり吐いていたこともバレてしまい、結局女を現場に行かせた師団長が悪いと責められる結果になった。
「それからかな。君のことが気にかかり、かかわっている任務には目を通すようになっていたんだ。魔法師団における君の扱いは決して良いものではなく、有能なのに女性だからと下に見られることも多かった。それでも文句ひとつ言わず真面目に目の前の仕事に取り組む君を見ているうちに……その、好感を持ったというか……」
そこまで言うと、エリックはうつむいてモゴモゴと口ごもってしまう。
「私、てっきりエリックさんには馬鹿な女だと見下げられていると思っていました」
「そんなわけない! 僕はずっと君のことを…………あ、いや」
「……私のことを?」
途中で途切れた言葉を催促するように言うと、エリックは目を逸らしてごまかそうとしたが、エリザが黙って言葉を待っていると諦めたように白状した。
「……君のことを、好いていたんだ。彼氏のことで色々偉そうに説教したけど、それはあの男に未練を残さずきっぱり別れてほしかったからだ。ああそうだ、完全なる私情だよ。任務だなんてどの口が言うのかと笑ってくれ」
かあっと頬が熱くなる。
もしかして、と期待していた言葉。
――――私ははこの人に好意を向けられて喜んでいる。
好いていると言われた時に、心臓が跳ね上がるのを感じた。そうであったらいいのにと願って、その言葉を待っていたのだ。
息を呑むエリザを見て、返事に困っていると思われたのかエリックは大きなため息をついて天を仰いでしまう。
「すまない、任務とはいえ君を騙したのだから、クロスト補佐官があんな行動にでなければ二度と顔を見せるつもりはなかった。君も二度と会いたくなかっただろう。不快にさせるつもりじゃなかったんだ」
「あ、会いたくないなんて、私、言っていません。むしろ……あの時言い訳くらいしてほしかった。私に向けた言葉の全てが嘘なわけじゃないって、言ってほしかった……それなら私だって」
ポロっと涙がこぼれる。
最初から彼が嘘をついていると気づいていたけれど、一緒に過ごすうちにそれでもいいと思えるほど心を許してしまっていた。
彼が去ってしまった時、悲しくて涙が止まらなかった。
その涙が、ただ寂しいからだけではないと気づいてしまった。
「……私だって? なに?」
エリックは先ほどの仕返しかのように、笑って言葉を促してくる。その顔が憎たらしく、エリザは感情を爆発させた。
「っ、伝えたいことが、たくさんあったのに! あなたがいてくれて救われたって、助けてくれてありがとうって、ちゃんと言いたかったのに。それなのに、もう会えないなんて、嫌……っ」
声を詰まらせながら、自分の素直な気持ちを吐露した。
きっとここで伝えなければ、もう二度とこの人に会えないという確信があったからだ。もうエリザとの縁を切り離すと決めた彼を、つなぎとめることは無理なのかもしれない。けれど、このまま何も告げずにいなくなられるのだけは嫌だった。
突き放さないでと願いを込めて彼を見つめる。
その瞳を受け止めて、エリックは少しの逡巡のあと、そっと手を伸ばしてエリザの肩を抱き寄せた。
「そんなことを言われたら、手放せなくなる。せっかく、嘘つきの僕から逃がしてあげようと思ったのに」
エリックは苦しそうにぎゅっと眉根を寄せる。嘘つきだと己を貶める言葉は、任務と己の感情で揺れているように思えた。
「でも……あなたは最初から、私に本当の名前だけでなく、素顔を見せてくれましたよね? 諜報員の任務であるなら、顔を変える必要があったはずです。それでも顔を偽らなかったのは、できるだけ私に嘘をつきたくないと思ってくれていたんじゃないですか?」
諜報員は任務ごとに顔も変えると言っていたが、一緒に過ごした時間を思い返して、エリックが変装をしているとは思えなかったのだ。
顔を変える魔法は、一種の認識阻害に過ぎないため長期間接していれば不自然さに気が付くはずだ。
最初から、この人は表情豊かだと感じていた。だからこれが彼の本当の顔なのだろうと判断してそう告げてみたのだが、図星だったエリックは苦笑いをしていた。
「参ったな。全部ばれていたんじゃないか。諜報員失格だな。こんな有様じゃ師団長にクビにされてしまうよ」
「クビになったら……私が養います」
「だからそういうことを言ってしまうから、クズが寄ってくるんだよ」
お互い顔を見合わせてぷっと噴き出す。
「君の前では余裕のある態度をとっていたが、本来の僕は私情に走って仕事をしくじるような情けない男なんだ。こんな僕でも、君の隣にいてもいいのか?」
「私だって、情に流されて彼氏をダメ男に育てちゃうようなダメな女ですよ? エリックさんこそこんな私でいいんですか?」
「そんな君がいいんだよ。エリック・アシュフォードはエリザ・ルインストンが好きなんだ。ずっと前から君を見ていた。もし叶うなら、僕が君の隣にいることを許してほしい」
まっすぐ気持ちを言葉にされてかっと顔が熱くなったが、彼が名乗った家名を理解した瞬間、エリザは一気に血の気が引いた。
「あ、アシュフォードって言いました? あの、もしかしてそれって……公爵家の家名じゃ」
「あー……まあ」
「こっ、侯爵様じゃないですか! どうしてもっと早くいってくれなかったんですか。我が家とでは爵位が雲泥の差ですよ」
貴族の勢力図に詳しくないエリザでさえも、アシュフォード家の名は知っている。優れた魔力持ちの血筋であり、代々宮廷魔術師をかの家の者が務めているから、魔法師団に所属していれば知らないはずはない家名である。
「家名なんて大した問題じゃないよ。僕は家に縛られたくなくて『赤狗』に入ったんだ。僕の意思は家に左右されたりしない」
「でも……周囲の人はそれを許さないですよね?」
エリザの心には、先ほどのクロストの言葉が引っかかっていた。
『子を成すことがあなたの使命』
『貴族ならばその役目を果たすべき』
上位貴族ほど魔力持ちの子を貴ぶ。
とある貴族の家では過去に、結婚せず子だけ産ませて魔力持ちならば引き取り、只人ならば金だけ渡して縁を切って優秀な子だけを家門に残すという悪辣なことをしていた。
もちろん許されることではないが、この国の爵位は魔力の強さと比例しているところがあるため、下位の貴族で優秀な魔力持ちが多数生まれれば地位が逆転することもあり得る。
だからエリックから家名を聞いた時、エリザはとっさにこの人と付き合ったら子を産むことを家門から強制されるのではと思ってしまった。