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第六節

 もし「死」という概念がこの世に実体を得て歩いたとすれば、いま目の前に立つその男こそが、それに他ならないのだろう。


 漆黒の甲冑に身を包み、獅子を象ったフルフェイスがダァトの顔を覆う。バイザーの隙間から覗く双眸は真紅に染まり、夜の月光を浴びて、まるで血の涙のように輝いた。その瞳の奥には理性と狂気、理知と熱情が燃え盛り、深淵と同化するように見える。


 「俺ぁさ、別に魔族とか魔物とか心底どうでもいいんだよね」


 鉄靴が教会の大理石を軋ませ、血溜まりを平然と踏み越えていく。まるで、足元に広がる赤を泥か水たまり程度にしか認識していないような無頓着さで。


 「騎士連中はテメエのことを化外だとか化物って言うけどさ、俺ぁそう思わねぇよ? だってよ……価値があるんだからな魔物って奴にはさ。殺しても中々死なねぇし、どんな手を使えばいいのか試す価値がある。だから――」


 彼はふと口元に笑みを浮かべ、地を蹴った。その動きは、雷鳴のように唐突で、疾風のように鋭い。目にも止まらぬ速度で魔物との距離を詰め、黒の刃をその目玉へと突き立てる。


 「俺の実験台になってくれよ」


 乾いた音を立てて魔物が吼え、蠢く影を纏いながら斬撃を受け止めようとする。しかし、神速の一撃はそれすらも上回り、魔物の肉体を切り裂き、再生する間も与えず破壊する。


 「なぁ」


 次々と繰り出される斬撃が魔物の肉を刻み、血飛沫と断末魔が宙に散る。


 「テメエは、どうやったら死ぬんだ? 教えてくれよ……なぁッ!!」


 返す刃で、魔物の触手が放った槍のような影を受け止め、そのまま逆流させるように魔力を注ぎ返す。衝突と破裂が重なり、影の魔力が暴走するのを、あざ笑うように押さえ込む。


 「できれば魔族本体に出てきてほしかったけどなぁ? 魔物程度じゃちょっと物足りねぇよ」 


 膨大な魔力が魔物へ流れ込み、既に傷だらけだった肉体が自動的に修復されていくのを見て、彼は満足げに笑った。次の瞬間にはその巨体を蹴り飛ばし、ポーチの中から幾つかの魔石を取り出す。


 「魔力で回復か……なるほど、なら別の方法を試したらどうなる? なぁ、試す価値はあるよな? テメエも、そう思うだろ?」


 魔石を放り投げ、ククク……と、喉の奥から笑いを零す。まるで眼前の魔物が、死と狂気の実験台であることを誇りにすら思っているような眼差しで、長椅子に腰を掛けた。


 「ダァトさん」


 その呼びかけに、ダァトは少しだけ顔を向ける。


 「ん? どうした? マリアンヌ」


 「魔力で回復するんですよね、あの魔物は」


 「そうだな。しぶとい相手ほど、研究しがいがあるってもんだ」


 「魔石には術が込められている……違いますか?」


 「おっ、正解だ。賢いね、お嬢ちゃん。花丸でもやろうか?」


 「……どうして、それを魔物に?」


 「簡単なことさ。すぐ死なれちゃ、困るからね」


 少女の眉が、微かに動いた。


 「死なせないため……ですか?」


 「そう。魔物ってのは、この世界に滲み出した魔界の『影』だ。ほとんどは魔族の末端に過ぎねぇが……手加減してたら、こっちが喰われる。だからな、まずは解体して構造を知る。俺にとって、そいつらは実験体だ」


 「……ダァトさんは、大丈夫なんですか?」


 「俺? あのな、俺がどれだけの魔族とやり合ってきたか、数えきれねぇよ。千は確実に超えてる。生き延びたのが、何よりの証明ってやつさ」


 彼は何気ない仕草で刃を床に叩きつけ、瞬時に魔力陣を発動させる。断絶の術が影を払拭し、マリアンヌを護った。


 「……私に、できることはありますか?」


 少女の声は細く、それでも真っ直ぐだった。


 「できること? ああ、祈ってくれよ」


 「……祈る?」


 「そうさ。男ってのは単純でね、可愛い子に祈られりゃ、それだけで頑張れちまう。だから頼むぜ、笑って、俺の無事を祈ってくれ」


 どんな顔で祈ればいいというのだろう。けれども、少女はロザリオを握り締め、瞼を伏せる。


 「回復時間三十秒、存在強度の劣化を確認。魔石の魔力じゃ限界があるな……やっぱ不完全な顕現か、面白ぇ」 


 魔物が再び咆哮をあげ、陰影を引き裂いて武器を生成する。射出されたそれを、ダァトは躊躇なく受け止める。


 頭を砕かれようと、心臓を貫かれようと、足を止めることはなかった。むしろ、苦笑しながら体内から武器を引き抜き、己の影に呑ませた。


 「……その程度じゃ、不死者は倒せねぇよ。なぁ?」


 返す斬撃が白光に染まり、魔物の身体に聖光の鎖を突き立てた。


 「さてマリアンヌ、お勉強の時間だ。魔物は、どうやったら死ぬと思う?」


 「……」


 「ヒントはな、肉の中にある」


 そして、剣を振り下ろす代わりに、手刀で魔物の胸を突き破った。ぶちり、と粘膜の音を立てて内臓をかき分け、奥深くに隠されたひとつの核――贄の心臓を指先で掴み出す。


 「ほらよ、第一段階完了。贄の心臓を潰せば、魔物の力は一旦収束する」


 ずしりと重い真紅の塊を引き抜いた彼は、それを握り潰す。滴る血が鎧を濡らし、床を染めていく。だが彼は気にする素振りすらなく、鎖で魔物の残骸を吊り上げて、マリアンヌに見せつけた。


 「料理と一緒さ。順番を間違えなきゃ、大抵はうまくいく。暴走する奴もいるが、まぁ、そんときは別の方法で……な?」


 黒の刃が、肉を削ぐ。器用に皮を剥ぎ、筋肉を裂き、血管と神経を露わにしていく様は、解体というより精密な手術のようですらあった。吊られた魔物は痙攣しながら呻き声をあげ、それでもなお生きている。


 「さあ次の段階だ。暴れるなよ? ……殺すぞ?」


 そう言った彼の声は、酷薄というより淡々としていた。ただの作業、ただの検証――その眼差しにあるのは、確かに『人間』の情ではなかった。


 「目、瞑ってな。教育が必要みたいだから、ちょっときつめに躾けてやる」


 マリアンヌは促されるままに瞼を閉じた。だがすぐに耳に飛び込んできたのは、凄絶な悲鳴だった。


 「助けてくれ……殺してくれ……生きたくない、死にたくないッ……!」


 泣き叫ぶ声。喉の奥から這い出すような、獣とも人ともつかぬ呻き。マリアンヌは思わず目を細めてしまい――そして、見てしまった。


 槍のように突き出された影が魔物の身体を千度以上も貫き、断続的な爆裂と再生を繰り返している。片腕を強引に食わせ、回復させると同時に再び爆発。剣先で肉の内側に刻印を描くたび、魔物の体は激しく震え、声は割れて泣き喚く。


 「よし、目ぇ開けていいぞ」


 ダァトは嬉々としてそう言った。血と臓腑に塗れたその笑顔に、善悪の基準など入り込む余地はなかった。


 「……“お話”の結果、魔物さんは勉強に協力してくれるそうでな?」


 「お話って……痛めつけることを言うんですか?」


 「違うよ? ちゃんと、通じ合ったんだよ」


 「でも、貴方はあの魔物を痛めつけていました。それが、貴方の“会話”なんですか?」


 淡々としたマリアンヌの問いに、ダァトは一瞬口を噤んだ。そして、苦笑混じりに肩を竦める。


 「……痛ぇところ突くな。けどな、マリアンヌ。そいつは“魔物”だ。“人間”じゃねぇ。話が通じる相手じゃない」


 「私は人間だから、話せるのですか?」


 「そうさ。お前が俺の友達の娘で、普通の人間だから、俺は手を貸してる。……でも、他人だったら? 知らねぇ奴だったら? そのときゃ、助けられなかったらしょうがねぇで済ませるぜ」


 「……拾ってもいい命と、拾えない命があるってことですね?」


 「違いねぇよ。そんで、俺は“拾えない命”をこうやって試してるだけだ。――なあ、悪いことじゃねぇだろ?」


 マリアンヌの瞳が、静かに細められる。緋色の双眸が剣士の姿を射抜き、その視線の重さにダァトは、わずかに目を逸らした。


 「……じゃあ、聞きます。私はどうするべきだと思いますか?」


 「どうしたいか、だろ?」


 「情けを掛ける必要は、無いと思います」


 「ほう」


 「けれど、必要以上に苦しめる必要も、無いとも思います。殺すなら、殺す。生かすなら、生かす。それだけのことです」


 「じゃあ、お前さんは魔物を殺すって判断したわけだ?」


 「はい。魔物は、元を辿れば神父様です。でも、もう戻れないのなら……」


 「仕方ない、ってか」


 「はい。命を拾えないのなら、後は捨てるだけ。違いますか、ダァトさん」


 「……違いねぇさ」


 ダァトは静かにうなずくと、聖光の鎖を解いた。魔物の肉塊が、ずるりと床に落ちる。剣先で肉をめくり、奥深くにある黒い核を露わにする。


 「これが、魔物の命だ。人間で言うと……心臓と脳みそを合わせたようなもんだな」


 「……」


 「これを壊せば、魔物は死ぬ。で、今回のケースじゃ“塵神父”も完全に消える。元はあの人だったが……」


 「神父様の意識は、もう?」


 「残っちゃいねぇ。門を開いて、喰われて、自我も擦り潰されてる。もう戻せねぇよ」


 「元に戻す方法……ないんですか?」


 「ねぇよ。あったら俺だって試してる」


 マリアンヌは目を伏せ、ロザリオを握る手に力を込めた。


 「で――どうする? マリアンヌ」


 その声は、剣を差し出すようでもあり、試すようでもあった。


 「俺はまだ色々試したいが……殺すってんなら、そいつはお前さんの手でやれ」


 ダァトはゆっくりとロザリオに魔力を流し込み、耳元で囁く。


 「お前が選べ。俺じゃなくて、な」


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