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第七節

 死が慈悲であるとするならば、殺しは救済の手段として用いられるのだろう。


「聖光の術ってのはな、聖騎士だの教会の連中が振りかざす、ただの基本術に過ぎねぇ。聖なる光だなんて綺麗事でな、人に仇なす穢れを祓うって? 馬鹿馬鹿しいよ、まったく。」


 マリアンヌの細い指先で握りしめられたロザリオに、ダァトはじわりと魔力を流し込んだ。彼の言葉は、苛立ちと嘲笑に満ちている。視線は蠢く魔物の姿に注がれ、その術の照準を定めていた。


「相手に痛みを与えるのが聖なる光? 痛みを以て穢れを祓う? どうしてこうも自分たちが正しいと思い込んでる連中は、詭弁を弄するんだろうな。正直に言えばいいのに――『アナタを殺したいから術を使う』ってな」


 マリアンヌは沈黙を守る。


「覚えておけよ、マリアンヌ。術を使うにしても、情けをかけるにしても、結局動くのは自分自身なんだ。お前は今から眷属ストリゴイイに堕ちて、魔物に喰われた神父の命を、自らの手で奪うんだ。聖光の術で痛みを与えて、殺すんだよ。俺でもなく、誰でもなく、お前自身がな」


 蠢く影の塊と化した神父には、もう意思もなければ記憶も無い。誰だったか、何故こんな姿になったのか、彼はきっと理解できていない。だがその命を、苦痛から解放できるのは彼女の手しかないのだ。ダァトもまた、その役目を担っていた。


 もし聖光の術を放てず、神父を見逃してしまえば、剣士――ダァトが生み出す生き地獄が待ち受けている。無数の傷を刻まれ、幾度となく癒され、何度も殺される。その繰り返しが、命乞いのように彼に付きまとうだろう。


「ダァトさん――」


「ん?」


「祈りって、誰のためにあるんでしょうか」


 マリアンヌの声は震えているが、確かな問いかけだった。


「祈り……か。知るか、そんなもん」


 ダァトは素っ気なく答えた。


「私、思うんです。」


「話してみな。」


「多分……祈りには意味が無いんだと思います」


「へぇ、どうして?」


「祈っても変わらず、願っても叶わないのなら、祈ること自体に価値は無い。うまく言えませんが……私がどれだけ祈っても、神父様は自分のためにしか動かなかったんです」


 マリアンヌの脳裏に、さまざまな可能性が過ぎる。恐らく、きっと――起こってしまった現実を変える必要は無いはずなのに、違う結末があったのではないかと、頭をよぎってしまう。


「ダァトさんはさっき、俺のために祈れと言いましたよね?」


「ああ」


「私はダァトさんのために祈ることができませんでした。いえ、それだけでなく、神父様が仰っていた神……魔物の影にも祈ったことはありません。私はただ……赦して欲しかった。逃げたかっただけなんだと思います」


「そっか」


「……祈れとは言わないんですか?」


「あのな、他人から言われて祈るってのに、価値があると思うか? 俺はお前が自分から祈って欲しかった。お前の心を、少しでも外に向けて欲しかっただけだ。どうするかは自分で決めろ、マリアンヌ」


 少女は自分という存在を知らなかった。自我を封じられ、生きるために必要な知識だけを植え込まれていたからだ。彼女は聖人の卵であり、銀の血を宿す聖餐杯であることも、知らずにいた。すべてを奪われてしまったからこそ。


「……さようなら、神父様」


 ロザリオが銀色に輝きを帯び、緋色の珠の中に魔物の姿を映す。別れの言葉を静かに呟き、マリアンヌは聖光の術を唱えた。黒く、蠢く魔物の命を示す漆黒の玉は砕かれ、教会の中に白い炎が燃え広がる。


「……」


 祈りはそこには無かった。残っていたのは、白炎に包まれ燃え尽きる魔物の灰と、乾いた埃が舞う朽ちた教会の空気だけだった。言葉にできない寂寥感が少女の胸を締めつける。彼女は灰の中から銀メッキの欠片を拾い上げ、シスター服の袖にそっと仕舞った。


「さてと、さっさと聖人の血杯を回収して、塵掃除でもしてやるか。マリアンヌ、お前は少し休んでいろ。後は俺がやる。」


「……聖人の血杯って、何なんですか?」


「その名の通り、聖人の血が満たされた聖遺物だ。売れば城が買えるし、市場に出回る偽物はガラクタばかりだ。俺にとっては至上の宝物だな」


「どうしてダァトさんは、聖人の血杯を……?」


「別に隠すことじゃねぇ。言ってもいいか。死にたいんだよ、俺は。どうしても、絶対に」


「死にたい……? どうして?」


「どうしてって、死にたいって思うのに理由なんてあるかよ。けど、聞かれたなら答えなきゃな」


 ダァトは祭壇に捧げられた血杯を見つめ、黒い刃で刻まれた術式を組み替えた。自嘲の笑みを浮かべ、己の愚かさを嘲笑うように。


「いいかマリアンヌ、不死ってのは呪いなんだ。最初はいい。死ぬ心配がないから無茶もできるし、普通の人間なら太刀打ちできない相手――魔族や魔物、不死者ノスフェラトゥ眷属ストリゴイイ――俺は怖くない」


「無理な相手なんですか? 普通は?」


「そりゃあそうだろう。世間一般の常識じゃ、軍隊が動くんだぜ。不死者一匹に対して数百の兵士が出動する。どれだけ厄介な存在か、俺みたいなのは身をもって知ってる」


「……」


「怖くなったか? 俺のこと」


「いいえ」


「嘘はよくないぞ。怖いならはっきり言え」


「ダァトさんは違うと思っただけです」


 剣士の瞳孔が開き、少女の双眼をじっと見据えた。


「ダァトさんは本当に死にたいのか? 死にたいなら、友達の頼みだからって私を助けたりはしないはずだ。ダァトさん、教えてください。さっきは怒っていたのに、どうして今は泣いているんですか? なぜ笑いながらも別の表情を浮かべているんですか?」


 彼の顔に貼り付けられた表情は嘘で塗り固められ、心の奥底に澱んだ激情は泥のように固まっている。


「ダァトさんは生きたいんじゃないですか? 死にたいと言いながらも、誰よりも生を求めてしがみついているように見えます。ダァトさん、あなたは――」


「お前はやっぱりあの女の娘だな。どうしてこうも似ているんだろう。お前が言ったこと、そっくりそのままお前の母親が言ったんだぜ。あの綺麗な目を離さずに」


「……」


「友達を大事にしたいし、頼まれれば断れない。でもな、死にたいってのは本当なんだ。俺みたいな……いや、不死者や眷属は存在してはならない。だから俺は殺すし、俺が死ぬための実験体にしている」


 少しだけ、嘘の仮面が剥がれ、安堵したような笑みを浮かべたダァトは、半分満たされた血杯を手に取る。


「俺には三つだけ人を好きになる条件がある。これを知っているのは女教皇くらいだが、もう一人増えたな」


「好きになる条件?」


「ああ、愛でも恋でもなく、もっと人間的な部分。信頼と信用の意味だ」


 タプタプと揺れる銀の血を見つめ、バイザーを弾き上げたダァトはマリアンヌに笑顔を向けた。


「俺は疑問を隠さない人間が好きだ。自分で考えて、その行動を誰かに押し付けない人間を愛している。前を見て、時々後ろを振り返って、それでも歩く人間に恋してるんだ。


 神とかいう不安定な存在に縋るのもいい。誰かに依存して生きるのも仕方ない。でもな、結局は自分の足で立ってこそ、人間って奴だと俺は思う。


 だから俺は……お前のような人間が好きなんだ、マリアンヌ」


 血杯を一気に飲み干す。銀色の血が口元から零れ落ち、真紅に染まり剣士の血肉と混じり合う。空になった聖人の血杯を擦り、錆を剥いだダァトは古代文字を読み上げた。


「インディル……ね」


「大丈夫なんですか? 神父様はそれを使って……」


「ん? この血杯じゃ俺を殺せねぇし、お前の体に掛けられた呪いも解けなかった。ガッカリしたけどな……インディルの血杯がここにあるのは変だな」


「インディルって何ですか?」


「悔悛の聖女、リシェル・エル=インディル。大昔にいた聖人の一人だ。まあ今じゃ御伽噺みたいに語られてるがな。元々はもっと別の場所にあったんだが」


「知ってるんですか? その聖人のことも?」


「本当に大昔の話さ。まあいいや、一応血杯は回収しておくか」


 剣を担ぎ直し、再びバイザーで素顔を覆ったダァトは言う。


「マリアンヌ、陣の中にいろよ。塵掃除をしなくちゃならねぇ」


 教会の窓から這い落ちてきた劣化眷属ムロニに刃を向け、一刀両断に切り裂きながら壁を突き破る。


眷属ストリゴイイが死ねば、てめえらも危ねぇ。死なば諸共ってか? 夜じゃねぇのが残念だな。後は死ぬだけだぜ、劣化眷属ども」


 一軒ずつ、家の扉を蹴破り、劣化眷属に堕ちた村人を斬り伏せる。朽ち果てた民家に炎の術を放ち、業火と黒煙を背負って歩く姿は、不死者ノスフェラトゥの名に相応しい。


 死なば諸共、生きてこそ――。


 マリアンヌは小さく呟き、双眼に炎の揺らめきを映した。黒煙の渦が風に舞う。教会の瓦礫と焼け焦げた木々の間で、少女の誓いは静かに燃え上がっていた。


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