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Ἀστήρ τὰς ψυχὰς συνδέει.
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「そういえば、あれ……どうなったの?」
背中合わせに佇むカレに、ふと問いかけてみた。
「ん? ……あれって? ……あぁ……」
上の空のカレは、それきり口を閉ざす。
風が気持ちよかったから、それ以上は深く追及しなかった。
でも――まさか、本当にこっちまで来るなんて。
あの時の、カレのただの妄想だと思っていた呟きが――
ほんとに現実になるなんて…
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……記憶の輪郭が、朝の光にゆっくりと溶けていく。
居住区画のテラスを撫でる風には、いつも清潔な、けれど無味乾燥な匂いがした。循環フィルターを通したそれは、どこまでも均質で、不純物も、気まぐれな花の香りも運んではこない。
ナオヤは、そんな計算された風を受けながら、ガラスの向こうに広がる仮想の空に視線を向けてぽつりと言った。
「オレの夢なんだよなぁ……本物の空の下で、雲の影が大地に映ってさぁ。まるで空の模様を描いているみたいに見えるのをさ、この目で観てみたいんだよなぁ」
その声は、どこか遠くを求める響きを帯びていた。
室内にいたミサキは、彼の言葉に小さく息をつき、振り返る。手にした白磁のカップからは、合成された木の実の香ばしい湯気が、細く立ちのぼっていた。
「何言ってんの、自分の顔、鏡で見てみなさいよ。いくら夜勤明けでも、そんな間抜け面でバカなこと言わないでよ」
彼のそういう、現実から少しだけ心を浮かせているところを、悪くないと思っている自分には気づかないふりをして。
「ヤダよ。オレ、鏡ってなんか怖いんだよ」
ナオヤの的外れな返事は、いつものことだった。ミサキは肩をすくめ、手際よく朝の支度を進める。
「はいはい。そんなことより、もうすぐ雨が降る時間なんだから、中に入ってなさいよ。濡れるわよ」
壁に埋め込まれた天候予報の水晶板が、淡く明滅を始めている。ミレーネの雨は、いつだって正確に、予告通りにやってくるのだ。
ナオヤは聞こえないふりをして、まだ外を眺めている。ミサキは一人、棚に並んだ同じ形の栄養食のパッケージを手に取った。
「あれ? 今日、出る日なんだ」
「そうよ。ちゃんと寝てよ。……あ、その前にちゃんと食べてね」
「うん……(夜勤明けの寝る前はあまり食物は入れたくないんだけどなぁ)」
ナオヤの心の声が聞こえた気がして、ミサキは唇の端に小さな笑みを浮かべた。
「ねぇ、聞いてる?」
テラスの手すりに手をかけたまま、ナオヤはふと振り返り、支度をするミサキの背中を見つめながら、静かに呟いた。
「大丈夫だよ。……ありがとな」
その声は、いつもの飄々とした響きとは違う、芯のある温かさを宿していた。
ミサキは、その声に少しだけ動きを止める。
ほんの一瞬、振り返って、ちょっと照れたように笑った。
「……うん。なんか、そう言われると安心する」
そして、何かを思い出したように声のトーンを変えた。
「そういえば、ナオヤ。……あの、ドウジン室長って、どんな人?」
先日、廊下ですれ違った時のことを思い出す。大勢の部下と話しているはずなのに、その瞳だけが、まるで違う場所にいるかのように、ひどく静かだったのだ。
「え? 何それ?」
ナオヤは苦笑しながら、壁の時刻モニターをちらっと確認した。
「……ってか、時間大丈夫?」
「うわっ……ほんとだ、もうこんな時間! やば、間に合わない、もう出なきゃ!」
ミサキは手にしていたカップを置き、急いで上着を引っかけると、玄関に向かって駆け出した。
彼女がドアノブに手をかけた瞬間、ナオヤはぽつりとこぼした。
「……オレもさ、ずっと気になってたんだよね。あの人、ドウジン室長って……近くにいるのに、どこか遠くにいる感じがして」
ミサキは一瞬、足を止め、振り返った。
窓の外ではすでに、予報通りの雨が、ガラスを叩き始めている。その規則正しい雨音の中で、彼女の表情がほんの少しだけ曇ったように見えた。
「……うん。なんだろうね、あの感じ……」
少し間を置いて、彼女は続けた。
「たまに、すごく孤独そうに見える」
「……うん」
ナオヤの静かな相槌が、ミサキの感じたことが間違いではなかったと告げていた。
もう言葉はなかった。ただ、残された空気に、小さな違和感だけが静かに揺れていた。
ミサキは最後に短く笑って言った。
「じゃ、ほんとに行ってきます! あとでね!」
扉が閉まり、静けさが部屋に戻る。
ナオヤは再びテラスへ歩み寄り、計算され尽くした雨に煙る仮想の空を見上げた。
雨の粒が、清浄な床を規則正しく叩いている。その音は、どこか遠い昔に聞いた、誰かの涙の音に似ているような気がした。
第一部― 第1章、閉じ。