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【第1章:帰還者たち】

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 Ἀστήρ τὰς ψυχὰς συνδέει.

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「そういえば、あれ……どうなったの?」

 背中合わせに佇むカレに、ふと問いかけてみた。


「ん? ……あれって? ……あぁ……」

 上の空のカレは、それきり口を閉ざす。


 風が気持ちよかったから、それ以上は深く追及しなかった。

 でも――まさか、本当にこっちまで来るなんて。


 あの時の、カレのただの妄想だと思っていた呟きが――

 ほんとに現実になるなんて…


 ……記憶の輪郭が、朝の光にゆっくりと溶けていく。


 テラスの風に髪が揺れるのを感じながら、ナオヤは仮想の空に視線を向けてぽつりと言った。

「オレの夢なんだよなぁ……本物の空の下で、雲の影が大地に映ってさぁ。まるで空の模様を描いているみたいに見えるのをさ、この目で観てみたいんだよなぁ」


 室内にいたミサキは、彼の言葉に呆れたように振り返った。

「何言ってんの、自分の顔、鏡で見てみなさいよ。いくら夜勤明けでも、そんな間抜け面でバカなこと言わないでよ」


「ヤダよ。オレ、鏡ってなんか怖いんだよ」


 ナオヤの的外れな返事に、ミサキはため息をつきながらも、現実的な話題に戻した。

「はいはい。そんなことより、もうすぐ雨が降る時間なんだから、中に入ってなさいよ。濡れるわよ」


 ナオヤは聞こえないふりをして、まだ外を眺めている。

 ミサキは一人、バタバタと朝の支度を始めた。


「あれ? 今日、出る日なんだ」

「そうよ。ちゃんと寝てよ。……あ、その前にちゃんと食べてね」


「うん……(夜勤明けの寝る前はあまり食物は入れたくないんだけどなぁ)」


「ねぇ、聞いてる?」


 テラスの手すりに手をかけたまま、ナオヤはふと振り返り、支度をするミサキの背中を見つめながら、静かに呟いた。

「大丈夫だよ。……ありがとな」


 その声に、ミサキは少しだけ動きを止める。

 ほんの一瞬、振り返って、ちょっと照れたように笑った。


「……うん。なんか、そう言われると安心する」


 そして、何かを思い出したように声のトーンを変えた。

「そういえば、ナオヤ。……あの、ドウジン室長って、どんな人?」


「え? 何それ?」

 ナオヤは苦笑しながら、時計をちらっと確認した。


「……ってか、時間大丈夫?」

「うわっ……ほんとだ、もうこんな時間! やば、間に合わない、もう出なきゃ!」


 ミサキは手にしていたグラスを置き、急いで上着を引っかけると、玄関に向かって駆け出した。


 彼女がドアノブに手をかけた瞬間、ナオヤはぽつりとこぼした。

「……オレもさ、ずっと気になってたんだよね。あの人、ドウジン室長って……近くにいるのに、どこか遠くにいる感じがして」


 ミサキは一瞬、足を止め、振り返った。

 窓の外ではすでに雨が降り始めている。

 その雨音の中で、彼女の表情がほんの少しだけ曇ったように見えた。


「……うん。なんだろうね、あの感じ……」

 少し間を置いて、彼女は続けた。

「たまに、すごく孤独そうに見える」


「……うん」


 もう言葉はなかった。ただ、残された空気に、小さな違和感だけが静かに揺れていた。


 ミサキは最後に短く笑って言った。

「じゃ、ほんとに行ってきます! あとでね!」


 扉が閉まり、静けさが部屋に戻る。


 ナオヤは再びテラスへ歩み寄り、仮想の空を見上げた。

 外では、雨の粒が地面を叩き始めていた。


 ― 第1章、閉じ。

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