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Ἐγήγερται ἡ ὥρα.
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静かに響いたドアロックの解除音と共に、ドウジン室長が観測室に入ってきた。
まだ交代の時間ではない。しかし、彼は時折こうして現れる。
その理由を尋ねたことはない。きっと尋ねても、多くは語らないだろうから。
「どうだ? アルゴスの様子は」
短く、そして端的に、彼は尋ねた。
「変わりはないです。いつものように穏やかです」
ナオヤが答える。
「そうか」
それだけのやり取り。ここ数年、毎回繰り返される会話だ。
一体、何度この言葉を交わしただろう。
もはや記憶の糸を辿ることも難しい。
アルゴスの観測が始まって、どれほどの時間が流れたのだろう。
少なくとも、オレやミサキが生きてきた二十数年間――
ずっと、あの空は、何かに「見守られていた」。
アルゴス。
それは、空に散らばる無数の観測機たちの総称だ。
鳥のように自由に空を移動しながら、地表のあらゆる変化を記録する――
しかし、それは単なる「ドローン」などではない。
数億もの機体のひとつひとつに、独立した人工知能が搭載されている。
まるで空に浮かぶそれぞれが「ヒトの脳」のように、微細な変化にさえ反応するのだ。
動植物の呼吸、小さな地殻の振動……それらすべてを、見逃さないように。
そして、すべての情報は、ミレーネの中枢、ミテラへと集約される。
その名を口にする時、なぜだろう……
いつも、ほんの少しだけ背筋が冷たい感覚に襲われる。
あと一年ほどで、あちら――「ガイア」に常駐する観測員が派遣される予定だ。
もちろん、オレはその一人に志願している。
この夢のために、ずっと準備してきたのだから。
しかし、ミサキには――まだ、何も告げていない。
ドウジン室長は何も言わず、データパネルを一瞥しただけで、踵を返した。
やはり彼は、言葉よりもずっと多くのことを見ているような気がする。
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観測室を出たドウジンは、静かな通路を歩いていた。
早朝のミレーネの廊下はまだ人気がなく、深い静寂の中に、彼の規則的な足音だけが響く。
その静寂を破るように、前方からもう一つの足音が近づいてくる。
白銀の制服を纏った男――ギルフェルド、副長だ。
彼はまっすぐに前を見つめ、まるで何も気づいていないかのような表情をしている。
ドウジンはわずかに歩幅を緩めた。
ギルフェルドもまた、何気ないすれ違いの一瞬だけ――ドウジンと目を合わせた。
その刹那、誰の耳にも届かない、静かな会話が、二人の間で交わされた。
──『準備はできているか』
──『……はっ、最終段階に向けて、いつでも動けます』
音もなく、言葉もない。
だが、まるでテレパシーの波のように――確かに「思念」がドウジンの胸へと流れ込んでくる。
彼らにとって、それは日常的なことだった。
言葉にしなくても、意志は通じる。
かつて、そうあるべき血を持つ者たちの――古き記憶が、今もこの場所に残っているのだ。
すれ違った二人は、何事もなかったかのように背を向けて歩き出した。
だが、その足音の奥には、いま静かに動き出そうとする、一つの「計画」が、確かに息づいていた。
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ミレーネ中枢――誰も立ち入ることのないその奥深く、
静寂に包まれた「コア」の間へ、ドウジンは一人足を踏み入れた。
金属音すら吸い込まれるような無音の空間。
その中心には、祈りの器――ミテラが、静かに眠っている。
彼女からの「呼びかけ」は、言葉ではなかった。
ただ、胸の奥に「波」のように伝わってくる。
感情と想念が、淡い光とともに空間全体に滲んでいる。
数年ぶりの呼び出し――
それだけで、尋常ではない事態であることは明らかだった。
ドウジンは立ち止まり、ゆっくりとミテラに視線を向けた。
そして、内側で語りかけた。
『……何があった?』
返ってきたのは音ではない。
けれど、はっきりと、意味と感情が溶け合った「声」が胸に流れ込んでくる。
『ウミへ』
『……海?』ドウジンは問い返した。
『ソウ。ウミヘ――アノコタチヲ、ウミヘ』
焦燥、祈り、願い……
そのすべてが、静かにドウジンの中に染み込んでいく。
ミテラ――祈りの核として、今もこの場所に在り続ける存在。
言葉を持たず、けれど確かに「感情の記憶」だけを、こうして伝えてくるのだ。
ドウジンは、静かにその波を受け取った。
その時――
「先輩! 聞こえますか!」
ナオヤからの通信が、思念の波を破るように割り込んできた。
ドウジンはまぶたを開け、現実の「音」に意識を戻す。
「……どうした」
「アルゴスが、北と南の海域に集中し始めました! 何か起きてます!」
「……あぁ」
「って、“あぁ”だけですか!? 先輩、早く戻ってきてください! オレ、こんなの初めてで!」
ドウジンは、ミテラを見上げたまま静かに言った。
「大丈夫だ。もう――ミテラ様は承知されている」
「えっ……『承知』って……先輩、今どこにいるんですか?
なんでそんなことわかるんですか? とにかく早く――!」
言葉が続く。
だが、それはもう、ドウジンにとって「遮るもの」ではなかった。
内心で「わかった」とだけ答える。
だが、その「わかった」は、声にはならない。ナオヤには届かない。
ドウジンは改めて、ミテラへと向き直る。
あえて声に出して、ゆっくりと告げた。
「……では、失礼します。ミテラ様」
その言葉は、誰も聞く者はいない。
けれど確かに、その奥にいる存在へと届いている。
ひとつ、静かに礼をしてから、ドウジンは足音を立てずに歩き出す。
背を向けたその瞬間――祈りのような感情が、背中を押した。
それは、かつて触れ合った優しさに似た「残響」だった。
――アノコタチヲ……ウミヘ……
― 第2章、閉じ。