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【第2章:呼ばれし声】

 ━━✦━━

 Ἐγήγερται ἡ ὥρα.

 ━━✦━━


 静かに響いたドアロックの解除音と共に、ドウジン室長が観測室に入ってきた。

 まだ交代の時間ではない。しかし、彼は時折こうして現れる。

 その理由を尋ねたことはない。きっと尋ねても、多くは語らないだろうから。


「どうだ? アルゴスの様子は」

 短く、そして端的に、彼は尋ねた。


「変わりはないです。いつものように穏やかです」

 ナオヤが答える。


「そうか」


 それだけのやり取り。ここ数年、毎回繰り返される会話だ。

 一体、何度この言葉を交わしただろう。

 もはや記憶の糸を辿ることも難しい。


 アルゴスの観測が始まって、どれほどの時間が流れたのだろう。

 少なくとも、オレやミサキが生きてきた二十数年間――

 ずっと、あの空は、何かに「見守られていた」。


 アルゴス。

 それは、空に散らばる無数の観測機たちの総称だ。

 鳥のように自由に空を移動しながら、地表のあらゆる変化を記録する――


 しかし、それは単なる「ドローン」などではない。

 数億もの機体のひとつひとつに、独立した人工知能が搭載されている。

 まるで空に浮かぶそれぞれが「ヒトの脳」のように、微細な変化にさえ反応するのだ。

 動植物の呼吸、小さな地殻の振動……それらすべてを、見逃さないように。


 そして、すべての情報は、ミレーネの中枢、ミテラへと集約される。


 その名を口にする時、なぜだろう……

 いつも、ほんの少しだけ背筋が冷たい感覚に襲われる。


 あと一年ほどで、あちら――「ガイア」に常駐する観測員が派遣される予定だ。

 もちろん、オレはその一人に志願している。

 この夢のために、ずっと準備してきたのだから。


 しかし、ミサキには――まだ、何も告げていない。


 ドウジン室長は何も言わず、データパネルを一瞥しただけで、踵を返した。

 やはり彼は、言葉よりもずっと多くのことを見ているような気がする。



 ━━✦━━



 観測室を出たドウジンは、静かな通路を歩いていた。

 早朝のミレーネの廊下はまだ人気がなく、深い静寂の中に、彼の規則的な足音だけが響く。


 その静寂を破るように、前方からもう一つの足音が近づいてくる。

 白銀の制服を纏った男――ギルフェルド、副長だ。


 彼はまっすぐに前を見つめ、まるで何も気づいていないかのような表情をしている。

 ドウジンはわずかに歩幅を緩めた。


 ギルフェルドもまた、何気ないすれ違いの一瞬だけ――ドウジンと目を合わせた。

 その刹那、誰の耳にも届かない、静かな会話が、二人の間で交わされた。


 ──『準備はできているか』

 ──『……はっ、最終段階に向けて、いつでも動けます』


 音もなく、言葉もない。


 だが、まるでテレパシーの波のように――確かに「思念」がドウジンの胸へと流れ込んでくる。


 彼らにとって、それは日常的なことだった。

 言葉にしなくても、意志は通じる。

 かつて、そうあるべき血を持つ者たちの――古き記憶が、今もこの場所に残っているのだ。


 すれ違った二人は、何事もなかったかのように背を向けて歩き出した。

 だが、その足音の奥には、いま静かに動き出そうとする、一つの「計画」が、確かに息づいていた。


 ━━✦━━


 ミレーネ中枢――誰も立ち入ることのないその奥深く、

 静寂に包まれた「コア」の間へ、ドウジンは一人足を踏み入れた。


 金属音すら吸い込まれるような無音の空間。

 その中心には、祈りの器――ミテラが、静かに眠っている。


 彼女からの「呼びかけ」は、言葉ではなかった。

 ただ、胸の奥に「波」のように伝わってくる。


 感情と想念が、淡い光とともに空間全体に滲んでいる。


 数年ぶりの呼び出し――

 それだけで、尋常ではない事態であることは明らかだった。


 ドウジンは立ち止まり、ゆっくりとミテラに視線を向けた。

 そして、内側で語りかけた。


『……何があった?』


 返ってきたのは音ではない。

 けれど、はっきりと、意味と感情が溶け合った「声」が胸に流れ込んでくる。


『ウミへ』


『……海?』ドウジンは問い返した。


『ソウ。ウミヘ――アノコタチヲ、ウミヘ』


 焦燥、祈り、願い……

 そのすべてが、静かにドウジンの中に染み込んでいく。


 ミテラ――祈りの核として、今もこの場所に在り続ける存在。

 言葉を持たず、けれど確かに「感情の記憶」だけを、こうして伝えてくるのだ。


 ドウジンは、静かにその波を受け取った。



 その時――



「先輩! 聞こえますか!」


 ナオヤからの通信が、思念の波を破るように割り込んできた。

 ドウジンはまぶたを開け、現実の「音」に意識を戻す。


「……どうした」


「アルゴスが、北と南の海域に集中し始めました! 何か起きてます!」


「……あぁ」


「って、“あぁ”だけですか!? 先輩、早く戻ってきてください! オレ、こんなの初めてで!」


 ドウジンは、ミテラを見上げたまま静かに言った。


「大丈夫だ。もう――ミテラ様は承知されている」


「えっ……『承知』って……先輩、今どこにいるんですか?

 なんでそんなことわかるんですか? とにかく早く――!」


 言葉が続く。

 だが、それはもう、ドウジンにとって「遮るもの」ではなかった。


 内心で「わかった」とだけ答える。

 だが、その「わかった」は、声にはならない。ナオヤには届かない。


 ドウジンは改めて、ミテラへと向き直る。

 あえて声に出して、ゆっくりと告げた。


「……では、失礼します。ミテラ様」


 その言葉は、誰も聞く者はいない。

 けれど確かに、その奥にいる存在へと届いている。


 ひとつ、静かに礼をしてから、ドウジンは足音を立てずに歩き出す。


 背を向けたその瞬間――祈りのような感情が、背中を押した。


 それは、かつて触れ合った優しさに似た「残響」だった。




 ――アノコタチヲ……ウミヘ……





 ― 第2章、閉じ。

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