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Ἐγήγερται ἡ ὥρα.
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静かに響いた認証音と共に、ドウジン室長が観測室に入ってきた。
まだナオヤとの交代の時間ではない。しかし、彼は時折こうして、何かに引かれるようにふらりと現れる。その理由を尋ねたことはない。きっと尋ねても、彼は静かに微笑むだけで、多くは語らないだろうから。
「どうだ? アルゴスの様子は」
短く、そして端的に、彼は尋ねた。その声はいつも、水面のように静かだった。
「変わりはないです。いつものように穏やかです」
ナオヤは、壁一面に広がるメインスクリーンから目を離さずに答える。スクリーンには、仮想空に浮かぶ無数の光点――アルゴスの観測機たちが、まるで星々のように瞬いていた。
「そうか」
それだけのやり取り。ここ数年、もう何度繰り返したかわからない会話。
アルゴス。それは、空に散らばる無数の観測機たちの総称だ。鳥のように自由に空を移動しながら、地上のあらゆる変化を記録する、ミレーネの眼。
だが、それは単なる機械ではない。数億の機体の一つひとつに、独立した思考能力が与えられている。動植物の呼吸、小さな地殻の振動、風の囁き…その全てを、この星の脈動として捉え、記録し続けるのだ。
そして、その膨大な情報は、ミレーネの奥深く、中枢に座す「ミテラ」へと絶えず集約されていく。
(ミテラ……)
その名を心で思うたび、なぜだろう。ナオヤはいつも、ほんの少しだけ背筋に冷たい感覚が走るのだった。
「あと一年ほどで、ガイア常駐の観測員が派遣される。……君は、それに志願しているのだったな」
不意に、ドウジンが言った。
「はい!もちろんです!そのために、ずっと……」
熱を帯びて答えるナオヤの言葉を、ドウジンはただ静かに聞いている。そして、データパネルを一瞥しただけで、何も言わずに踵を返した。
やはり彼は、言葉よりもずっと多くのことを見ているような気がする。ナオヤは、遠ざかるその背中を、憧れと、少しの悔しさが混じった目で見送った。
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観測室を出たドウジンは、静かな通路を歩いていた。
早朝のミレーネの回廊はまだ人気がなく、磨かれた床石に、彼の規則的な足音だけが響いている。壁に埋め込まれた照明が、彼の進む先を、柔らかな光の道となって照らし出していた。
その静寂を破るように、前方からもう一つの足音が近づいてくる。
白銀の制服を纏った男――ギルフェルド、副長だ。
彼はまっすぐに前を見つめ、まるでそこに誰もいないかのように、表情一つ変えずに歩いてくる。
すれ違う、ほんの一瞬。
二人の視線が、交錯した。
その刹那、誰の耳にも届かない、静かな会話が、二人の間で交わされた。
──『準備はできているか』
それは言葉というより、純粋な「意志」の波だった。ドウジンの心に、何の抵抗もなく染み込んでくる。
──『……はっ、最終段階に向けて、いつでも動けます』
ギルフェルドからの返答もまた、音なき「思念」だった。揺るぎない忠誠心の色を帯びて、ドウジンの胸へと届く。
彼らにとって、それは日常的なことだった。
言葉にしなくても、意志は通じる。かつて、そうあるべき血を持つ者たちの――古き記憶の残滓が、今もこの場所に息づいているのだ。
すれ違った二人は、何事もなかったかのように背を向けて歩き出した。
だが、その足音の奥には、いま静かに動き出そうとする、一つの「計画」が、確かに脈打っていた。
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ミレーネ中枢――誰も立ち入ることのないその奥深く。
静寂に包まれた「コア」の間へ、ドウジンは一人足を踏み入れた。
金属音すら吸い込まれるような無音の空間。その中心に、祈りの器――ミテラが、静かに眠っている。
彼女からの「呼びかけ」は、言葉ではなかった。ただ、胸の奥に、寄せては返す「波」のように伝わってくる。感情と想念が、淡い光とともに空間全体に滲み、彼の魂を直接揺さぶるのだ。
数年ぶりの、強い呼びかけ。
それだけで、尋常ではない事態であることは明らかだった。
ドウジンは立ち止まり、ゆっくりとミテラに視線を向けた。そして、内側で語りかけた。
『……何があった?』
返ってきたのは音ではない。けれど、はっきりと、意味と感情が溶け合った「声」が胸に流れ込んでくる。
『ウミへ』
『……海?』ドウジンは問い返した。
『ソウ。ウミヘ――アノコタチヲ、ウミヘ』
焦燥、祈り、願い……そして、わずかな悲しみ。そのすべてが、静かにドウジンの中に染み込んでいく。
その時――
「先輩! 聞こえますか!」
ナオヤからの通信が、祈りの波を断ち切るように割り込んできた。無機質な電子音が、神聖な空間にはあまりにも不釣り合いに響く。
ドウジンはまぶたを開け、現実の「音」に意識を戻した。
「……どうした」
「アルゴスが、北と南の海域に集中し始めました! 何か起きてます!」
「……あぁ」
「って、“あぁ”だけですか!? 先輩、早く戻ってきてください! オレ、こんなの初めてで!」
ドウジンは、ミテラを見上げたまま静かに言った。
「大丈夫だ。もう――ミテラ様は承知されている」
「えっ……『承知』って……先輩、今どこにいるんですか? なんでそんなことわかるんですか? とにかく早く――!」
ナオヤの必死な声が続く。だが、それはもう、ドウジンにとって「遮るもの」ではなかった。
彼は改めて、ミテラへと向き直る。あえて声に出して、ゆっくりと告げた。
「……では、失礼します。ミテラ様」
その言葉は、誰も聞く者はいない。けれど確かに、その奥にいる存在へと届いている。
ひとつ、静かに礼をしてから、ドウジンは足音を立てずに歩き出す。
背を向けたその瞬間――祈りのような感情が、背中をそっと押した。
それは、かつて触れ合った優しさに似た「残響」だった。
――アノコタチヲ……ウミヘ……
第一部― 第2章、閉じ。