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【第3章:月面の囁き】

━━✦━━

Ὄναρ ὄνομα καλεῖ, σκιὰ κινεῖται.

━━✦━━


 仮想空に浮かぶ地球〈ガイア〉の蒼が、いつもより心なしか霞んで見えた。

 ナオヤは観測室の端に立ち、気圧表示のモニターをぼんやりと見つめている。

 何かが始まる前の、あの微かな予兆が、肌の内側で静かにざわめいていた。


 ━━✦━━


 ──「どうだったんだ?」


 ──「何が?」


 ──「何って惚けるなよ、オレが気づいていないと思っているのか?」


 ──「またぁ、そんな怖い顔……! ふふふっ……」


 ──「ふざけてないで、ちゃんと答えろよ」


 ──「ふふっ、大丈夫よ、あなたを……」


 ──「なんだよ、」


 私は彼女に問いかけようとしたが、言葉は空気に溶けた。

 何を言いたかったのか、何を伝えようとしたのか――記憶は途切れて、掴めない。


 ──「行くな!」


 ──「やめてくれ! 連れていくな!」


 ──「離せ! 彼女を離せ!」


 ──「連れていかないでくれ! 頼む!」


 ──「!!!!!」


「先輩! 先輩! ドウジン室長!」

 肩を揺さぶられ、ドウジンは深く、重い眠りの底から引き上げられた。


 ゆっくりと意識が現実に戻ってくる。

 ナオヤが、見たこともないほど心配そうな顔で覗き込んでいた。


「大丈夫ですか? かなりうなされていましたよ」


 ドウジンは、額に乗せていた腕を気だるげに下ろした。

 まだ心臓が、嫌な音を立てて脈打っている。


「……アルゴス達は?」

 体を起こし、重い頭を支えながら問いかけた。


「徐々に元の配置に戻りつつあります」

 ナオヤがモニターを示した。


「そうか」

(……頭が重い。暫くこの夢は見なかったんだがな。彼女に……ミテラに久々に対峙したせいか……)

 ドウジンは胸の中で呟く。いつもこの夢を見た後は、やるせない無力感が、何度も押し寄せてくる。


「ところで先輩、 『レディア』 って誰ですか?」

 不意に、ナオヤが核心を突く質問を投げかけた。


 ドウジンの動きが、一瞬だけ止まる。

 視線を伏せ、何も答えず、静かに立ち上がると、無言のまま観測データの端末へと向かった。


「今回のアルゴスの行動は、どうみる?」

 空気を変えるように、ドウジンは業務的な口調に戻った。


「一応、まとめてみました」

 ナオヤは報告画面を表示させながらも、ドウジンの横顔から目が離せないでいた。


「いいから、続けて」

 ドウジンは自分の椅子をナオヤのデスクの前に引き寄せ、隣に座った。


「はい。あの時、何故かヘーリオス〈太陽〉の活動がかなり活発になっていて――」

 ナオヤは画面を操作しながら続けた。

「黒点の密集、磁気フラックスの上昇、それにXクラスのフレア前兆……普通なら単発で終わるはずの活動が連動していたんです。もしそのまま続いてたら、ガイアの磁気圏が過負荷を起こして、観測網だけじゃなく、地軸の揺らぎまで再発していた可能性があります」


「流石、アカデミー主席卒業だな」


「また、からかわないで下さいよ」

 ナオヤは一呼吸置いて、真剣な目をドウジンに向けた。

「つまり……例の常駐監視任務、また白紙になるところだったんですよ!」

 ナオヤは少し興奮気味に訴えた。


「そういえばキミ、志願していたんだったな」

 ドウジンはカレの熱意を、どこか遠いものを見るような、冷たい眼差しで見つめる。


「そうです!」


「……私に、当たるなよ」


「すいません、つい……」ナオヤは慌てて頭を下げた。


「何にせよ大事には至らなかったんだ。後はミテラ様とお偉方が解析してくれるさ」

 ドウジンは再びモニターに視線を戻す。


「先輩は、いつも呑気ですよね」

 ナオヤは嫌味交じりに呟く。


「そう見せているんだよ」

 聞こえていたようだ。


 ナオヤは、慌てて姿勢を正しながら思った。

(……ホントこの人は、知り合った頃から謎だらけだよ。さっきの『レディア』って人のこともはぐらかされたまんまだもんな……今度、ミサキにも協力してもらって、探ってみるか)


「おい、なにブツクサ言っている? もうそろそろ交代の時間だぞ。引き継ぎちゃんとやっておけよ」

 ドウジンの声が、ナオヤの思考を遮った。


「え! 先輩、椅子は?」

 ナオヤは慌てて周りを見回す。


「あと、よろしくな」

 ドウジンはすでに立ち上がっていた。


「ちょ、ちょっと!」

 ナオヤが引き止める間もなく、ドウジンは観測室を出て行ってしまった。


(今に見ていろ……絶対、あの人の謎を暴いてみせるぞ!)

 ナオヤは心の中で、固く決意を新たにした。


 ━━✦━━


 夢の余韻が、まだミサキの瞼の裏に残っていた。隣で眠るナオヤを起こさないように、そっと身を起こす。あの不思議な感覚を、消えてしまう前に書き留めておきたかったのだ。

 だが、その微かな身じろぎで、隣のナオヤも目を覚ましたようだった。


「う…ん?」


「ごめん、起こしちゃった?」

 ミサキは心配そうにカレの顔を覗き込む。


「いや、大丈夫。ちょうど目が覚めて、喉乾いたし」

 ナオヤは短く答えると、ベッドを抜け出した。


 彼が水を飲みに部屋を出た、そのわずかな間に、ミサキは目的のものを探す。

 ベッドサイドの小さな照明だけを灯し、彼女は音を立てないように部屋の隅にある棚へと向かった。


 ナオヤが戻ってくると、ミサキは部屋の隅で何かを探していた。


「何探してんの?」

 ナオヤは不思議そうに問いかける。


「ん……私の日記帳、知らない?」

 ミサキは辺りを見回した。


「え? 日記帳? 何それ? 書いてたの?」

 ナオヤは驚いた表情を見せる。


「うん。ちゃんと紙に残しておくのって、なんかいいのよね。」

 ミサキは照れたように笑った。


「今どき珍しいね。メモリーじゃなくて?」

 ナオヤは自らのこめかみを指差す。思考を直接記録する方が、よほど確実だというのに。


「だからいいのよ。自分の字で記録を残すって、ちょっとロマンチックじゃない?」


「ふぅん……」

 ナオヤは納得したような、しないような表情を浮かべた。


「あ、あった! 前に隠し場所変えていたの忘れてた!」

 ミサキは棚の奥から、古風な装丁の小さな手帳を取り出した。


「おいおい、大丈夫か?」

 ナオヤはカノジョの忘れっぽさに苦笑する。


「また隠し場所変えなきゃ」


「だったら最初からデータで残せばいいのに」


「それじゃ気持ちが入らないの!」


「はいはい。 ……ところでさ、ミサキ」

 ナオヤは真剣な表情でミサキに向き直った。


「ん?」


「“レディア”って、聞いたことある?」


「レディア?……なんか、聞いたことあるような……ないような……」

 ミサキは首を傾げる。

「人の名前よね? それがどうかしたの?」


「いや…実は、先輩がさ……」

 ナオヤは、先ほどの観測室での出来事を話し始めた。


「え?! 先輩って……ドウジン室長?」

 ミサキの目が、好奇心にわずかに輝いた。


「うん…この前、仮眠中にうなされてたんだけど……そのとき“レディア”って名前を呼んだんだよね…」


「……それって、室長の大事な人なんじゃない?」


「そう…思う?」


「うん。夢で名前を呼ぶって、よほどの想いがあるってことじゃない? きっと、忘れられない人なんだよ」


「でもさ、室長ってそういう雰囲気まったくないんだよな」


「昔の恋、とか? 何か事情があって別れたあとも、ずっと忘れられないとか……」

 ミサキは想像を膨らませる。


 ナオヤはカノジョの空想に小さく笑った。

(……ちょっと“想像力が過ぎる”な、これは)


 ミサキは楽しそうに笑いながら、日記帳を開いて何かを書きはじめた。


「何書いてんの?」


「忘れないように、ちょっとメモしておこうかと思って」


「それって‘日記帳’に書くことか?」

 ナオヤは、小さく呆れたように笑った。


「もちろん」

 ミサキは微笑んで、なぜか自慢げだった。


 その様子を微笑ましく眺めながら、ナオヤは静かに思った。

(彼女の情報収集力に期待しつつ、自分でも探ってみるか)


 ふいにナオヤは、「腹減った」と立ち上がり、栄養食のパッケージを手に取った。


「ずるい、アタシも食べる!」

 ミサキは日記帳を閉じて追ってくる。


「はいはい」

 ナオヤは笑いながら、加熱器のスイッチを入れた。


 ピピピ……。

 温められたそれを一口運びながら、ナオヤはふと視線を窓の外へと向けた。

 ミレーネの空には、相変わらず仮想的な晴天が描かれている。

 だが、その先に見える予報灯は、淡く瞬いていた。まもなく降る雨を告げている。


 ━━✦━━


「……雨か」

 ドウジンは、居住区から少し離れた丘の上に、一人佇んでいた。

 雨に濡れたような冷たい空気が、頬をかすめる。視界の先、遠くに灯る予報灯の光が、彼の瞳に淡く映っていた。


 背後から、静かな足音が近づいてくる。


「ドウジン様……」

 ギルフェルドの声だった。


 ドウジンはわずかに眉を顰めた。

「ギルか。その呼び方はやめろと言っている……」


「失礼致しました」

 ギルフェルドは短く頭を下げた。


 ……少し、間を置き、ドウジンは尋ねた。

「調べはついたか?」


「はっ。やはり、ドウジン様の睨んだとおり、ガイア移住計画に反対する組織が動いているようです」


 ドウジンは軽くため息をこぼす。

「…ギルよ。我々は、いつまで同じ過ちを見届けるのだろうな。血を流すことでしか己の正しさを示せぬとは……なんと不器用で、悲しい生き物だ、ヒトというものは」

 その声は、悲しげで、どこか諦観を帯びていた。


「表立って争いは起こしたくない。だが、なるべく早く詳細を調べて欲しい」


「かしこまりました」

 ギルフェルドは黙礼した。


「いつもすまない」

「いえ、お二人が永く見守ってこられたからこそ、現在の穏和な日々を過ごせているのです」


「ギル、それは違うぞ。私達は、ただ、誰よりも永く時間を過ごしただけに過ぎない。おまえ達には、すまないと思っている」


「そんな事仰らないでください。わたくし-共は陛下とレ――」

「もうよそう……その名も口にするな」

 ギルフェルドの声を遮るようにドウジンは言った。


 ギルフェルドは黙って唇を噛み締めた。


 二人の間を、雨が混じった風が通り過ぎていく。

 ミレーネの空には、演算された細かな雨が落ち始めていた。遠く、虹の演算も淡く滲んでいる。


 ただ、君がいない。

 君が好きだった、この場所で。

 ただ――雨に、佇む。




 第一部― 第3章、閉じ。



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