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Ὄναρ ὄνομα καλεῖ, σκιὰ κινεῖται.
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仮想空に浮かぶ地球〈ガイア〉の蒼が、いつもより心なしか霞んで見えた。
ナオヤは観測室の端に立ち、気圧表示のモニターをぼんやりと見つめていた。
何かが始まる前の、あの微かな予兆が、肌の内側で静かにざわめいている。
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──「どうだったんだ?」
──「何が?」
──「何って惚けるなよ、オレが気づいていないと思っているのか?」
──「またぁ、そんな怖い顔……! ふふふっ……」
──「ふざけてないで、ちゃんと答えろよ」
──「ふふっ、大丈夫よ、あなたを……」
──「なんだよ、」
私は、彼女に問いかけようとしたが、言葉は空気に溶けた。
何を言いたかったのか、何を伝えようとしたのか――記憶は途切れて、掴めない。
──「行くな!」
──「やめてくれ! 連れていくな!」
──「離せ! 彼女を離せ!」
──「連れていかないでくれ! 頼む!」
──「!!!!!」
「先輩! 先輩! ドウジン室長!」
ナオヤがドウジンを揺り起こした。
「……」
ドウジンは、額に乗せていた腕を気だるげに下ろした。
ゆっくりと意識が現実に戻ってくる。
ナオヤが心配そうに覗き込んでいた。
「大丈夫ですか? かなりうなされていましたよ」
ドウジンは体を起こし、重い頭を支えながら問いかけた。
「……アルゴス達は?」
「徐々に元の配置に戻りつつあります」
ナオヤがモニターを示した。
「そうか」
(……頭が重い。暫くこの夢は見なかったんだがな。彼女に久々に対峙したせいか……)
ドウジンは胸の中で呟く。
いつもこの夢を見た後は、やるせない気持ちが何度も押し寄せてくる。
「ところで先輩、 『レディア』 って誰ですか?」
不意に、ナオヤが質問を投げかけた。
ドウジンは一瞬だけ視線を伏せたが、何も答えなかった。
そして静かに立ち上がり、無言のまま観測データの端末へと向かった。
「今回のアルゴスの行動は、どうみる?」
ドウジンは業務的な口調に戻った。
「一応、まとめてみました」
ナオヤは報告画面を表示させながらドウジンの行動を目で追った。
「いいから、続けて」
ドウジンは自分の椅子をナオヤのデスクの前に引き寄せ、隣に座った。
「はい。あの時、何故かヘーリオス〈太陽〉の活動がかなり活発になっていて――」
ナオヤは画面を操作しながら続けた。
「黒点の密集、磁気フラックスの上昇、それにXクラスのフレア前兆……普通なら単発で終わるはずの活動が連動していたんです。
もしそのまま続いてたら、ガイアの磁気圏が過負荷を起こして、観測網だけじゃなく、地軸の揺らぎまで再発していた可能性があります」
「流石、アカデミー主席卒業だな」
「また、からかわないで下さいよ」
ナオヤは一呼吸置いて、真剣な目をドウジンに向けた。
「つまり……例の常駐監視任務、また白紙になるところだったんですよ!」
ナオヤは少し興奮気味に訴えた。
「そういえばキミ、志願していたんだったな」
ドウジンはカレの熱意を冷たい眼差しで見つめる。
「そうです!」
「……私に、当たるなよ」
「すいません、つい……」ナオヤは慌てて頭を下げた。
「何にせよ大事には至らなかったんだ。後はミテラ様とお偉方が解析してくれるさ」
ドウジンは再びモニターに視線を戻す。
「先輩は、いつも呑気ですよね」
ナオヤは嫌味交じりに呟く。
「そう見せているんだよ」
聞こえていたようだ。
ナオヤは、慌てて姿勢を正しながら思った。
(……ホントこの人は、知り合った頃から謎だらけだよ。さっきの『レディア』って人のこともはぐらかされたまんまだもんな……今度探ってみるか)
「おい、なにブツクサ言っている? もうそろそろ交代の時間だぞ。引き継ぎちゃんとやっておけよ」
ドウジンの声が、カレの思考を遮った。
「え! 先輩、椅子は?」
ナオヤは慌てて周りを見回す。
「あと、よろしくな」
ドウジンはすでに立ち上がっていた。
「ちょ、ちょっと!」
ナオヤが引き止める間もなく、ドウジンは観測室を出て行ってしまった。
(今に見ていろ……絶対、あの人の謎を暴いてみせるぞ!)
ナオヤは心の中で、決意を新たにした。
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ミサキは寝返りを打ちながら、ぼそっと言った。
「あれ……おかしいな……」
「う…ん?」
「ごめん、起こしちゃった?」
ミサキは心配そうにカレの顔を覗き込む。
「いや、大丈夫。ちょうど目が覚めて、喉乾いたし」
ナオヤは短く答えた。
彼が戻ってくると、ミサキは部屋の隅で何かを探していた。
「何探してんの?」
ナオヤは不思議そうに問いかける。
「ん……私の日記帳、知らない?」
ミサキは辺りを見回した。
「え? 日記帳? 何それ? 書いてたの?」
ナオヤは驚いた表情を見せる。
「うん。ちゃんと紙に残しておくのって、なんかいいのよね。」
ミサキは照れたように笑った。
「今どき珍しいね。メモリーじゃなくて?」
ナオヤはモニターを指差す。
「だからいいのよ。自分の字で記録を残すって、ちょっとロマンチックじゃない?」
「ふぅん……」
ナオヤは納得したような、しないような表情を浮かべた。
「あ、あった! 前に隠し場所変えていたの忘れてた!」
ミサキは棚の奥から小さな手帳を取り出した。
「おいおい、大丈夫か?」
ナオヤはカノジョの忘れっぽさに苦笑する。
「また隠し場所変えなきゃ」
「だったら最初からデータで残せばいいのに」
「それじゃ気持ちが入らないの!」
「はいはい。 ……ところでさ、ミサキ」
ナオヤは真剣な表情でミサキに向き直った。
「ん?」
「“レディア”って、聞いたことある?」
「レディア?……なんか、聞いたことあるような……ないような……」
「人の名前よね? それがどうかしたの?」
「いや…実は、先輩がさ……」
ナオヤはドウジンについて話し始めた。
「え?! 先輩って……ドウジン室長?」
ミサキの目がわずかに輝いた。
「うん…この前、仮眠中にうなされてたんだけど……そのとき“レディア”って名前を呼んだんだよね…」
「……それって、室長の大事な人なんじゃない?」
「そう…思う?」
「うん。夢で名前を呼ぶって、よほどの想いがあるってことじゃない?」
「でもさ、室長ってそういう雰囲気まったくないんだよな」
「昔の恋? 別れたあとも忘れられないとか……」
ミサキは想像を膨らませる。
ナオヤはカノジョの空想に小さく笑った。
ちょっと“想像力が過ぎる”と思ったのだ。
ミサキは笑いながら、日記帳を開いて何かを書きはじめた。
「何書いてんの?」
「忘れないように、ちょっとメモしておこうかと思って」
「それって‘日記帳’に書くことか?」
ナオヤは、小さく嘲笑した。
「もちろん」
ミサキは微笑んで、なぜか自慢げだった。
その様子を微笑ましく眺めながら、ナオヤは静かに思った。
彼女の情報収集力に期待しつつ、自分でも探ってみるか、と。
ふいにナオヤは、「腹減った」と立ち上がり、完全食のパッケージを手に取った。
「ずるい、アタシも食べる!」
ミサキは日記帳を閉じて追ってくる。
「はいはい」
ナオヤは笑いながら調理を始める。
ピピピ……。
加熱された完全食を一口運びながら、ナオヤはふと視線を窓の外へと向けた。
ミレーネの空には、相変わらず仮想的な晴天が描かれている。
だが、その先に見える予報灯は、淡く瞬いていた――
予報灯が静かに光り、まもなく降る雨を告げている。
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「……雨か」
ドウジンは、居住区から少し離れた丘の上に、一人佇んでいた。
雨に濡れたような冷たい空気が、頬をかすめる。
視界の先、遠くに灯る予報灯の光が、彼の瞳に淡く映っていた。
背後から、静かな足音が近づいてくる。
「陛下……」
ギルフェルドの声だった。
ドウジンはわずかに眉を顰めた。
「ギルか。その呼び方はやめろと言っている……」
「失礼致しました」
ギルフェルドは短く頭を下げた。
……少し、間を置き、ドウジンは尋ねた。
「調べはついたか?」
「はっ。やはり、へ……ドウジン様の睨んだとおり、ガイア移住計画に反対する組織が動いているようです」
ドウジンは軽くため息をこぼす。
「……争いというものは、ヒトという種の記憶に、あまりにも深く刻まれすぎているのかもしれんな」
悲しげにそう言いながらドウジンは視線を遠くへ投げ、ギルフェルドに告げた。
「表立って争いは起こしたくない。だが、なるべく早く詳細を調べて欲しい」
「かしこまりました」
ギルフェルドは黙礼した。
「いつもすまない」
「いえ、お二人が永く見守ってこられたからこそ、現在の穏和な日々を過ごせているのです」
「ギル、それは違うぞ。私達は、ただ、誰よりも永く時間を過ごしただけに過ぎない。おまえ達には、すまないと思っている」
「そんな事仰らないでください。わたくし共は陛下とレ――」
「もうよそう……その名も口にするな」
ギルフェルドの声を遮るようにドウジンは言った。
ギルフェルドは黙って唇を噛み締めた。
二人の間を、雨が混じった風が通り過ぎていく。
ミレーネの空には、演算された細かな雨が落ち始めていた。
遠く、虹の演算も淡く滲んでいる。
ただ、君がいない。
君が好きだった、この場所で。
ただ――雨に、佇む。
―第3章、閉じ。