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Ὄναρ μαντεύεται τὴν ῥίζαν τῆς ψυχῆς.
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ミレーネ情報部。その一角で、ミサキは淡く光るデータパネルに意識を集中させていた。
指先が、空中投影されたキーを滑るように叩く。膨大なアルゴスの観測記録から、特定のパターンを持つ地磁気の変動データを抽出していく作業。それは、彼女の日常業務だった。
「ミサキ、第7セクターの報告書、上がってる?」
隣のブースから、同僚の声が飛んでくる。
「うん、さっき転送した。相関グラフも添付してあるから、それで確認して」
ミサキは、視線をデータから外さずに答えた。その横顔は、いつもナオヤに見せる柔らかな表情とは違う、冷静で知的な情報部員の顔をしていた。彼女は、この分野では誰からも一目置かれる存在なのだ。
報告書を送り終え、ふぅ、と一つ息をつく。
その、ほんのわずかな思考の空白に、あの名前が、泡のようにふわりと浮かび上がってきた。
(……レディア……)
先日、ナオヤが話していたドウジン室長の「夢」。その中で名を呼ばれていたという存在が、なぜか心のどこかに、小さな棘のように引っかかっていた。
仕事用のコンソールとは別に、彼女は自分の個人端末を起動する。まだ、周りには同僚たちの気配がある。これは、ほんの出来心。深く探るつもりはなかった。
ミサキは「レディア」という名について、様々なキーワードを入力しながら、ミレーネの公的記録データベースの表層を検索した。しかし、どれほど深く掘っても、手応えはない。まるで、その名前が存在しなかったかのように、検索結果は常に「該当なし」と静かに告げるだけだった。
「おかしい……。これだけ深く探ってるのに、何も引っかからないなんて……」
天井を仰ぎ、しばらく思考を巡らせる。
(表層データにないなら、もっと奥……記録の保管領域そのものにアクセスするしか…)
ミサキは、普段は使わない深層アクセス用のコンソールを開いた。仮想空間に、光の糸で編まれたようなデータ構造が広がる。彼女はその中を、まるで深海に潜るように、慎重に、深く、深く潜航していった。
そのとき、ふと、網膜に投影されたデータ群の隅に、異常な光の揺らぎが表示された。
「……え?」
そこには、通常では決して表示されることのない、“星律執行部・管理階層”へのアクセス経路が、まるで亡霊のように、一瞬だけ姿を現しては消えていく。
「おかしい……ここって、ギルフェルド副長の生体認証がなければ、存在すら感知できないはずなのに……」
夢中になりすぎていたのだろう。気がつけば、周りにはもう誰も残っていなかった。
静まり返った情報部で、思わず背後が気になり、振り返る――誰もいない。
(これ以上は、ダメだ)
直感が、警鐘を鳴らしていた。これは、自分が触れていい領域ではない。
「……ナオヤと、もう一度話してからにしよう」
ミサキは強制的に接続を断ち切ると、まだ微かに脈打つ端末の電源を落とした。席を立ち、退室しようとして、さっきまで自分が座っていた場所を一度だけ振り返る。
その視線には、恐怖と、それを上回る強い好奇の色が、静かに交錯していた。
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「ねぇさま、見て――月が、あんなに綺麗……」
誰かが、こちらを向いて優しく微笑んでいる。
その唇は確かに何かを語っているのに、音は届かない。
ただ――温かさと、懐かしさだけが、胸に染み込んでくる。
「……ねぇさま……?」
その呼びかけの瞬間――意識が浮上する。
ミサキは目を覚ました。
また、あの不思議な夢だった。
「ねぇさま……なんて、アタシに姉妹はいないのに……」
「だよな……」
「え?」
ミサキが声を上げると、ナオヤがベッドの脇で水を飲んでいた。
「何かあるの?」
「最近さ、キミ、よく寝言で言ってるよ。「ねぇさま……」って」
「え!? ……言ってた?」
ナオヤは頷く。
「目が覚めたときに、たまたま何度か聞いた。すごく穏やかな顔してたけど」
ミサキは夢の中の光景を思い出そうとする。でも、顔はぼやけていた。ただ、その人の笑顔は、とても優しくて、懐かしい感覚を呼び覚ました。
「あの人、誰だったんだろ……名前も呼ばれてた気がするけど……その肝心なところが、聞こえないの……」
「結構覚えてるじゃないか」
「話してるうちに、ちょっとずつ思い出してきたのよ……」
「いずれにしろ、夢の話だからな。あんまり気に病むなよ。どうしても気になるなら――ギルフェルド副長に相談してみるとか?」
「……うん、ちょっと怖いけど……」
でも心のどこかで――ミサキはその夢が、ただの夢ではない気がしていた。
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翌日の午後。ナオヤは一人、観測室のモニターに向かいながらも、意識は別の場所にあった。
(ミサキにばかり任せてられない。俺も、探ってみないとな…)
ドウジン室長の謎、そして「レディア」という名前。
彼はまず、室長の行動パターンを割り出すことから始めた。
「よし、今日の午後は、第3セクターの視察か…」
公的なスケジュール表を元に、ナオヤはそっと観測室を抜け出した。
第3セクターへと続く、長い回廊。物陰に隠れ、遠くに見えるドウジンの背中を、ナオヤは息を殺して見つめていた。
(よし、完璧な潜入だ…)
本人はそう思っている。だが、柱の影から、彼の髪の毛がぴょこんと一本、はみ出ていた。
前を歩くドウジンは、気づいているのかいないのか、歩調を変えることはない。
角を曲がる瞬間、ドウジンがふと足を止めた。
慌てたナオヤは、壁にピタリと張り付く。ドクン、ドクン、と心臓が、まるで警鐘のようにうるさく鳴り響いた。
「……ナオヤ」
静かな声が、回廊に響いた。
「……は、はいっ!」
名前を呼ばれ、ナオヤの体は意思に反して、弾かれたように飛び出した。
ゆっくりと振り返ったドウジンの顔には、呆れと、ほんの少しの面白がるような色が浮かんでいた。
「……そこで、何をしている?」
「い、いえ!これはその、偶然通りかかっただけで!決して先輩の後をつけていたとか、そういうことでは!」
しどろもどろになるナオヤの言い訳は、全てを物語っていた。
ドウジンは、ふっと息を吐くと、小さく笑った。
「……そうか。ならいい。だが、あまり感心しないな」
それだけ言うと、彼は再び背を向けて歩き出した。
(……バレてた…!完璧にバレてた…!)
ナオヤは、その場でがっくりとしゃがみこんだ。探偵ごっこは、開始5分で幕を閉じたのだった。
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そして、その日の業務時間が終わり、情報部のフロアから一人、また一人と同僚たちが帰っていく。やがて、広い空間にはミサキ一人だけが残された。静寂が、彼女の決意を後押ししているようだった。
ミサキは再び『レディア』に関する調査を試みようと、端末に向き直った。
「この前見つけたあの領域まで、もう一度……」
慎重に手順を踏み、データの深海へと、再び意識を潜航させていく。
そのとき、静寂を破る声が背後から響いた。
「何をしている?」
「……ギ、ギルフェルド副長!」
慌ててコンソールを閉じようとするが、時すでに遅く。
ギルフェルドは、ミサキの網膜に表示されているアクセスログを、半ば感心したように見つめながら言った。
「よく、ここまで辿りついたな……」
「これは、その……」
「これ以上は深入りするな」
静かながら、確かな威圧感が込められていた。
「でも、副長。ワタシ、最近――夢を見るんです」
「夢?」
「はい……。誰かを「ねぇさま」と呼んでいて、すごく幸せで温かくて……。まるで前世の記憶のような……」
ギルフェルドはしばし黙り、静かに息を吐いた。
「それは、キミの妄想が生み出した産物ではないのか?」
「違います!」ミサキは一歩踏み出し、言葉を続けた。
「だったら調べてください。脳波でも記憶でも……なんでもいい。なにかが……残ってる気がするんです。ワタシの中に!」
ギルフェルドの眼差しが鋭くなり、だがすぐにその色を沈めてこう言った。
「わかった。ただし、私の一存ではできない決まりだ。上に掛け合っておく。今日は、もう帰りなさい」
それ以上は言えなかった。
ミサキは、静かに頷いて部屋を出た。
廊下の扉が閉まる音が、情報部に静寂を戻す。
ギルフェルドは独り言のように呟いた。
「……もう、始まったか…」
第一部― 第4章、閉じ。