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“Μνήμη σιγῇ ἐν φάει κινεῖται.”
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情報部のフロアは、いつもより少しだけ静かだった。
壁一面に投影された情報グリッドが、星の河のように淡く明滅している。ミサキはその前で、無意識に胸元をぎゅっと押さえていた。自分でも気づかないまま、ずっと同じデータストリームの揺らぎを見つめていたようだ。
「……ミサキ? 聞いてる?」
同僚の声に、ミサキは小さく肩を震わせた。
「え……あ、ごめん。何か言った?」
「最近さ、ぼーっとしてること増えたよね。あと……よく胸、押さえてるし。調子でも悪いの?」
ミサキは慌てて手を離し、努めて明るく笑って見せた。
「え、ううん、大丈夫! ちょっと考えごとしてただけ」
「ふうん……。無理はしないでよ、アナタ結構、根詰めるタイプなんだから」
「ありがと。気をつける」
笑いながら答えたけれど、ミサキの胸の奥には、確かにあの夢の感覚が、波の残響のようにこびりついていた。
――あの、名前も知らない「誰か」の笑顔。
そして「呼ばれていた」確かな感覚。
自分を包むように響いていた、静かな声。優しい気配。
(……なのに、どうしても思い出せない。あの人の名前だけが……)
「ねぇさま……」
夢の中の自分が、確かにそう呼びかけていた。でも、自分には姉なんていない。
その優しい矛盾が、今もどこか、甘く胸を締め付けていた。
少し離れた回廊の影。
ギルフェルドは、ただ黙ってミサキたちのやりとりを見つめていた。その表情までは読めない。だが、彼の視線だけが、静かにミサキの背中を追っている。
(……始まりつつあるな)
そう呟くような思念が、誰にも知られることなく、フロアの空気に溶けていった。
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意識が、微睡みの縁から滑り落ちていく。
現実の輪郭が滲み、懐かしい静けさが、彼女を包み込んだ。
――そこは、光と影だけで構成された、静謐な回廊だった。
ひんやりとした石の床を、裸足のまま歩いている。一歩進むごとに、足の裏から伝わる古代の石の感触が、なぜか心地よかった。
遥か高い天窓から、月光のような、けれどそれよりももっと柔らかな光が、幾筋も、真っ直ぐに差し込んでいる。光の中を、遠い記憶の欠片のような細かな粒子が、ゆっくりと、きらきらと舞い落ちていた。
誰かに、その手を引かれていた。
自分より少しだけ大きな、柔らかな掌。その温かさを、私は知っていた。
「----ねぇさま、今日は何処に連れていってくださるの?」
声が、自然と唇からこぼれた。それは、今の自分のものではない、もっと幼い、澄んだ声だった。
その人は、歩みを止め、私の前にすっと膝をつく。目線が、ぴたりと合った。
金の髪が、光を弾いてさらりと流れる。微笑むその唇は確かに何かを語っているのに、その声は、水の中のように、くぐもって聞こえない。
「---、あなたにお話ししておかないといけないことがあるの…」
それでも、その響きは、魂を直接揺さぶるように、優しく、そしてどこか悲しかった。
「今から行く場所と、わたくしが話すことを――決して忘れないで。そして、誰にも言ってはだめよ」
少女の姿の私は、こくりと頷いた。
再び静かな足音と共に、奥の廊下を進んでいく。そこは、普段は決して立ち入ってはならないとされる、神聖な領域だった。
やがて辿り着いた、一枚の黒鉄のような扉。その上部には、古の印と、見知らぬ文字が厳かに刻まれている。
(知らないはずの文字……なのに、なぜか、読める気がする……)
胸の奥で、心臓がとくん、と一つ、大きく脈打つ。
少女は言葉をかけようと口を開きかけるが、──その瞬間、意識がぐらりと揺らぎ、光に満ちた回廊が、急速に色を失っていく。
遠ざかる「ねぇさま」の、心配そうな顔。
伸ばされた手が、何かを掴もうとして、空を切る。
深い水の底へ沈んでいくような感覚の中、意識は途切れた。
はっ、と息を吸い込むと、そこは見慣れた自室の天井だった。
まだ薄暗い。夢と現実の境界が曖昧で、頭の芯がじんじんと痺れていた。シーツを握る指先が、微かに震えている。
「……ミサキ、起きたのか?」
ナオヤの声が、現実へと意識を繋ぎとめる錨のように、静かに響いた。
「おまえ、熱あるな」
彼が、ミサキの腕につけられた体調管理モニターを見ながら言った。
「……え…」
ミサキは空を見つめるようにして、静かにまばたきをしたまま、まだ夢の中の感覚を引きずっていた。
「……うん、大丈夫…」
「大丈夫じゃないって」
ナオヤはミサキの額にそっと手を当て、真剣な顔になった。ひんやりとした彼の掌が、燃えるように熱い自分の肌に触れ、その心地よさに、思わず目を細める。
ちょうどその時、壁の仮想パネルに淡い光が灯る。ミテラの生体モニターが、静かに警告の文字を投影していた。
──【休息推奨:生体リズム低下、及び軽度の発熱反応を検出】
ナオヤはパネルをちらっと見て、苦笑する。
「ほらな。ミテラも言ってる」
ミサキも、ちょっとだけ困った顔で笑った。
「うん……仕方ないね、ミテラに言われたら」
「副長にも自動で報告いくから、安心して寝とけ」
「……ありがとう、ナオヤ」
ミサキは素直に頷き、ナオヤの言葉に小さく微笑んだ。その胸の奥には、まだ拭えないざわめきがあったけれど――今は、カレの優しさに身を委ねた。
だが、熱のせいか、それとも夢のせいか、抑えていた感情が、ふと唇から零れた。
「ねぇ、ナオヤ……アタシ、どうしちゃったんだろ……」
その言葉にナオヤは言葉を失う。ミサキに何かが起こっている、それだけは確かだった。けれど、自分にできることは――そばにいること、それだけだった。
「とにかく今日は、ゆっくりしときな」
ナオヤがミサキをそっと抱き寄せる。ミサキの肩がわずかに震えた。
抱きしめられながら、ミサキは小さくつぶやく。
「ねぇ……ナオヤ……
ワタシ、最近……
誰かに呼ばれてる気がするの……」
ナオヤは驚いたように少しだけ間を置いてから、「……それって、夢の中の誰か?」と静かに返す。
「……うん……はっきりとは思い出せないけど、 とても懐かしくて、優しくて…… あの人に……会いたいって、そんな気がして……」
その声は、まるで遠い日の祈りに似ていた。
ナオヤは、そっとその言葉を受け止めるように、黙ってミサキを優しく包み込んだ。
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ギルフェルドは、情報部の一角に設けられた私的な観測室にひとり座っていた。
薄暗い室内、無数の端末に囲まれ、彼の瞳は静かにひとつのモニターに固定されている。
ミサキ・アリア。
彼女の行動ログ、思考傾向、そしてアクセス履歴。それらすべてが、ギルフェルドの掌の上にあった。
「……またか…」
ギルフェルドは小さく呟いた。
ここ数日、彼女がアクセスしようとする情報の傾向に、微かな「軌道逸脱」が見られていた。
単なる偶然か。それとも――何かに、導かれるような意思か。
ギルフェルドは静かに席を立ち、壁面の一部に隠された補助端末へと近づく。操作を終えると、目を閉じ、ふぅと細く息を吐いた。
(まるで、何かに……手招きされているかのようだな)
視線を落とす。ミサキの探り当てた先。それは、「記録の間」の最深部に近い、古の封印に限りなく近い場所だった。
彼女は、まだ気づいていない。自分が何を見て、何に触れかけたのか。
「これ以上は、まだ触れさせるわけにはいかない……」
そう呟いた声には、どこか苦味が混じっていた。だがその直後。
観察用の補助端末に、微かな波形の揺らぎが走る。警告音は鳴らない。
ただ、静かに――何かが「共鳴」した。
ギルフェルドはその値を目で追いながら、わずかに目を細めた。
そして、誰に言うでもなく、囁いた。
「……やはり、‘‘カノジョ’’か」
そのとき、「記録の間」の奥に眠る、ある一冊の古文書が、微かに光を放った。
まるで、主の呼び声に、呼応するかのように。
第一部― 第5章、閉じ。