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“Μνήμη σιγῇ ἐν φάει κινεῖται.”
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情報部のフロアは、いつもより少しだけ静かだった。
スクリーンに並ぶ情報グリッドが淡く点滅し、ミサキはその前で無意識に胸元を押さえていた。
自分でも気づかないまま、ずっと同じ画面を見つめていたようだ。
「……ミサキ? 聞いてる?」同僚の声に、ミサキは小さく肩を震わせた。
「え……あ、ごめん。何か言った?」
「最近さ、ぼーっとしてること増えたよね。あと……よく胸、押さえてるし。調子でも悪いの?」
ミサキは慌てて手を離し、笑って見せた。
「え、ううん、大丈夫! ちょっと考えごとしてただけ」
「ふうん……。無理はしないでよ、アナタ結構、根詰めるタイプなんだから」
「ありがと。気をつける。」 笑いながら答えたけれど、ミサキの胸の奥には、確かにあの夢の感覚が残っていた。
――あの、名前も知らない「誰か」の笑顔。
そして「呼ばれていた」確かな感覚。
自分を包むように響いていた、静かな声。優しい気配。
……なのに、どうしても名前だけが聞き取れない。
「ねぇさま……」 夢の中の自分が、確かにそう呼びかけていた。 でも、自分には姉なんていない。
その矛盾が、今もどこかひっかかっていた。
少し離れた廊下の影。 ギルフェルドは、ただ黙ってミサキたちのやりとりを見つめていた。
表情までは読めない。 だが、彼の視線だけが、静かにミサキの背中を追っていた。
(……始まりつつあるな)
そう呟くような思念が、誰にも知られず、空気に溶けていった。
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「----ねぇさま、今日は何処に連れていってくださるの?」
柔らかな手に引かれ、静かな回廊を歩く。
天窓から差し込む光に埃が舞い、どこか懐かしくも優しい時間が流れていた。
「---、あなたにお話ししておかないといけないことがあるの…」
その人は、目の前に膝をつき、目線を合わせて優しく微笑む。
「今から行く場所と、わたくしが話すことを――決して忘れないで。そして、誰にも言ってはだめよ」
少女はこくりと頷いた。
再び静かな足音と共に奥の廊下を進んでいく。そこは、普段は立ち入ってはならないとされる領域だった。
黒鉄のような扉。その上部には、古の印と、見知らぬ文字が刻まれていた。
(知らないはずの文字……なのに)胸の奥で何かが脈打つ。
少女は言葉をかけようと口を開きかけるが、
──その瞬間、意識が揺らぎ、目が覚めた。
ミサキは、夢から覚めたあとも、しばらくベッドの上に座ったまま動けなかった。
「……ミサキ、起きたのか?」
ナオヤの声が近づいてくる。
「おまえ、熱あるな。」
腕につけた体調管理モニターを見ながら言った。
「……え…」
ミサキは空を見つめるようにして、静かにまばたきをしたまま、まだ夢の中の感覚を引きずっていた。
「……うん、大丈夫…」
「大丈夫じゃないって」
ナオヤはミサキの額に手を当て、真剣な顔になった。
ちょうどその時、壁のパネルに淡い光が灯る。
ミテラの生体モニターが、静かに指示を告げていた。
──【休息推奨:生体リズム低下検出】
ナオヤはパネルをちらっと見て、苦笑する。
「ほらな。ミテラも言ってる」
ミサキも、ちょっとだけ困った顔で笑った。
「うん……仕方ないね、ミテラに言われたら」
「副長にも自動で報告いくから、安心して寝ていろよ」
「……ありがとう、ナオヤ」
ミサキは素直に頷き、ナオヤの言葉に小さく微笑んだ。
その胸の奥には、まだ拭えないざわめきがあった。けれど――今は、カレの優しさに身を委ねようと思った。
「ありがとう……」
ミサキの声はか細く、どこか譫言のようだった。
「ねぇ、ナオヤ……アタシ、どうしちゃったんだろ……」
その言葉にナオヤは言葉を失う。
ミサキに何かが起こっている、それだけは確かだった。けれど、自分にできることは――そばにいること、それだけだった。
「とにかく今日は、ゆっくりしときな」
ナオヤがミサキをそっと抱き寄せる。ミサキの肩がわずかに震えた。
抱きしめられながら、ミサキは小さくつぶやく。
「ねぇ……ナオヤ……
ワタシ、最近……
誰かに呼ばれてる気がするの……」
ナオヤは驚いたように少しだけ間を置いてから、 「……それって、夢の中の誰か?」と静かに返す。
「……うん……はっきりとは思い出せないけど、 とても懐かしくて、優しくて…… あの人に……会いたいって、そんな気がして……」その声は、まるで遠く祈りに似ていた。
ナオヤは、そっとその言葉を受け止めるように、黙ってミサキを優しく包み込んだ。
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ギルフェルドは、情報部の一角に設けられた観察用の小部屋にひとり座っていた。
薄暗い室内、無数の端末に囲まれ、彼の瞳は静かにひとつの端末に固定されている。
ミサキ・アリア。
カノジョの行動ログ、思考傾向、そしてアクセス履歴。 それらすべてが、ギルフェルドの掌の上にあった。
「……またか…」ギルフェルドは小さく呟いた。
ここ数日、カノジョが触れようとする情報の傾向に、微かな「軌道逸脱」が見られていた。
単なる偶然か。それとも――導かれるような意思か。
ギルフェルドは静かに席を立ち、壁面の一部に隠された補助端末へと近づく。
操作を終えると、目を閉じ、ふぅと細く息を吐いた。
(まるで、何かに……導かれているかのようだな)視線を落とす。
ミサキの探り当てた先。 それは、「記録の間」の最深部に近い、封印に近づきかけた場所だった。
カノジョは、まだ気づいていない。 自分が何を見て、何に触れかけたのか。
「これ以上は、まだ触れさせるわけにはいかない……」
そう呟いた声には、どこか苦味が混じっていた。 だがその直後。
観察用の補助端末に、微かに波形の揺らぎが走る。
警告音は鳴らない。
ただ、静かに――何かが「共鳴」した。
ギルフェルドはその値を目で追いながら、わずかに目を細めた。
そして、誰に言うでもなく、囁いた。
「……やはり、‘‘カノジョ’’か」
そのとき、「記録の間」の奥に眠る、ある一冊が、微かに光を放った。
まるで、呼応するかのように。
―第5章、閉じ。