目次
ブックマーク
応援する
4
コメント
シェア
通報

【第5章:月影に揺らぐ記憶】

━━✦━━

“Μνήμη σιγῇ ἐν φάει κινεῖται.”

━━✦━━

 情報部のフロアは、いつもより少しだけ静かだった。

 壁一面に投影された情報グリッドが、星の河のように淡く明滅している。ミサキはその前で、無意識に胸元をぎゅっと押さえていた。自分でも気づかないまま、ずっと同じデータストリームの揺らぎを見つめていたようだ。


「……ミサキ? 聞いてる?」

 同僚の声に、ミサキは小さく肩を震わせた。


「え……あ、ごめん。何か言った?」


「最近さ、ぼーっとしてること増えたよね。あと……よく胸、押さえてるし。調子でも悪いの?」

 ミサキは慌てて手を離し、努めて明るく笑って見せた。


「え、ううん、大丈夫! ちょっと考えごとしてただけ」


「ふうん……。無理はしないでよ、アナタ結構、根詰めるタイプなんだから」


「ありがと。気をつける」

 笑いながら答えたけれど、ミサキの胸の奥には、確かにあの夢の感覚が、波の残響のようにこびりついていた。


 ――あの、名前も知らない「誰か」の笑顔。

 そして「呼ばれていた」確かな感覚。

 自分を包むように響いていた、静かな声。優しい気配。


(……なのに、どうしても思い出せない。あの人の名前だけが……)


「ねぇさま……」

 夢の中の自分が、確かにそう呼びかけていた。でも、自分には姉なんていない。

 その優しい矛盾が、今もどこか、甘く胸を締め付けていた。


 少し離れた回廊の影。

 ギルフェルドは、ただ黙ってミサキたちのやりとりを見つめていた。その表情までは読めない。だが、彼の視線だけが、静かにミサキの背中を追っている。

(……始まりつつあるな)

 そう呟くような思念が、誰にも知られることなく、フロアの空気に溶けていった。



 ━━✦━━



 意識が、微睡みの縁から滑り落ちていく。

 現実の輪郭が滲み、懐かしい静けさが、彼女を包み込んだ。


 ――そこは、光と影だけで構成された、静謐な回廊だった。

 ひんやりとした石の床を、裸足のまま歩いている。一歩進むごとに、足の裏から伝わる古代の石の感触が、なぜか心地よかった。

 遥か高い天窓から、月光のような、けれどそれよりももっと柔らかな光が、幾筋も、真っ直ぐに差し込んでいる。光の中を、遠い記憶の欠片のような細かな粒子が、ゆっくりと、きらきらと舞い落ちていた。


 誰かに、その手を引かれていた。

 自分より少しだけ大きな、柔らかな掌。その温かさを、私は知っていた。


「----ねぇさま、今日は何処に連れていってくださるの?」

 声が、自然と唇からこぼれた。それは、今の自分のものではない、もっと幼い、澄んだ声だった。


 その人は、歩みを止め、私の前にすっと膝をつく。目線が、ぴたりと合った。

 金の髪が、光を弾いてさらりと流れる。微笑むその唇は確かに何かを語っているのに、その声は、水の中のように、くぐもって聞こえない。


「---、あなたにお話ししておかないといけないことがあるの…」


 それでも、その響きは、魂を直接揺さぶるように、優しく、そしてどこか悲しかった。


「今から行く場所と、わたくしが話すことを――決して忘れないで。そして、誰にも言ってはだめよ」

 少女の姿の私は、こくりと頷いた。


 再び静かな足音と共に、奥の廊下を進んでいく。そこは、普段は決して立ち入ってはならないとされる、神聖な領域だった。

 やがて辿り着いた、一枚の黒鉄のような扉。その上部には、古の印と、見知らぬ文字が厳かに刻まれている。


(知らないはずの文字……なのに、なぜか、読める気がする……)

 胸の奥で、心臓がとくん、と一つ、大きく脈打つ。

 少女は言葉をかけようと口を開きかけるが、──その瞬間、意識がぐらりと揺らぎ、光に満ちた回廊が、急速に色を失っていく。


 遠ざかる「ねぇさま」の、心配そうな顔。

 伸ばされた手が、何かを掴もうとして、空を切る。


 深い水の底へ沈んでいくような感覚の中、意識は途切れた。


 はっ、と息を吸い込むと、そこは見慣れた自室の天井だった。

 まだ薄暗い。夢と現実の境界が曖昧で、頭の芯がじんじんと痺れていた。シーツを握る指先が、微かに震えている。


「……ミサキ、起きたのか?」

 ナオヤの声が、現実へと意識を繋ぎとめる錨のように、静かに響いた。

「おまえ、熱あるな」

 彼が、ミサキの腕につけられた体調管理モニターを見ながら言った。


「……え…」

 ミサキは空を見つめるようにして、静かにまばたきをしたまま、まだ夢の中の感覚を引きずっていた。

「……うん、大丈夫…」


「大丈夫じゃないって」

 ナオヤはミサキの額にそっと手を当て、真剣な顔になった。ひんやりとした彼の掌が、燃えるように熱い自分の肌に触れ、その心地よさに、思わず目を細める。


 ちょうどその時、壁の仮想パネルに淡い光が灯る。ミテラの生体モニターが、静かに警告の文字を投影していた。


 ──【休息推奨:生体リズム低下、及び軽度の発熱反応を検出】


 ナオヤはパネルをちらっと見て、苦笑する。

「ほらな。ミテラも言ってる」


 ミサキも、ちょっとだけ困った顔で笑った。

「うん……仕方ないね、ミテラに言われたら」


「副長にも自動で報告いくから、安心して寝とけ」


「……ありがとう、ナオヤ」

 ミサキは素直に頷き、ナオヤの言葉に小さく微笑んだ。その胸の奥には、まだ拭えないざわめきがあったけれど――今は、カレの優しさに身を委ねた。


 だが、熱のせいか、それとも夢のせいか、抑えていた感情が、ふと唇から零れた。

「ねぇ、ナオヤ……アタシ、どうしちゃったんだろ……」


 その言葉にナオヤは言葉を失う。ミサキに何かが起こっている、それだけは確かだった。けれど、自分にできることは――そばにいること、それだけだった。


「とにかく今日は、ゆっくりしときな」

 ナオヤがミサキをそっと抱き寄せる。ミサキの肩がわずかに震えた。

 抱きしめられながら、ミサキは小さくつぶやく。


「ねぇ……ナオヤ……

 ワタシ、最近……

 誰かに呼ばれてる気がするの……」


 ナオヤは驚いたように少しだけ間を置いてから、「……それって、夢の中の誰か?」と静かに返す。

「……うん……はっきりとは思い出せないけど、 とても懐かしくて、優しくて…… あの人に……会いたいって、そんな気がして……」

 その声は、まるで遠い日の祈りに似ていた。

 ナオヤは、そっとその言葉を受け止めるように、黙ってミサキを優しく包み込んだ。



 ━━✦━━



 ギルフェルドは、情報部の一角に設けられた私的な観測室にひとり座っていた。

 薄暗い室内、無数の端末に囲まれ、彼の瞳は静かにひとつのモニターに固定されている。


 ミサキ・アリア。

 彼女の行動ログ、思考傾向、そしてアクセス履歴。それらすべてが、ギルフェルドの掌の上にあった。


「……またか…」

 ギルフェルドは小さく呟いた。

 ここ数日、彼女がアクセスしようとする情報の傾向に、微かな「軌道逸脱」が見られていた。

 単なる偶然か。それとも――何かに、導かれるような意思か。


 ギルフェルドは静かに席を立ち、壁面の一部に隠された補助端末へと近づく。操作を終えると、目を閉じ、ふぅと細く息を吐いた。

(まるで、何かに……手招きされているかのようだな)

 視線を落とす。ミサキの探り当てた先。それは、「記録の間」の最深部に近い、古の封印に限りなく近い場所だった。

 彼女は、まだ気づいていない。自分が何を見て、何に触れかけたのか。


「これ以上は、まだ触れさせるわけにはいかない……」

 そう呟いた声には、どこか苦味が混じっていた。だがその直後。


 観察用の補助端末に、微かな波形の揺らぎが走る。警告音は鳴らない。

 ただ、静かに――何かが「共鳴」した。


 ギルフェルドはその値を目で追いながら、わずかに目を細めた。

 そして、誰に言うでもなく、囁いた。


「……やはり、‘‘カノジョ’’か」


 そのとき、「記録の間」の奥に眠る、ある一冊の古文書が、微かに光を放った。

 まるで、主の呼び声に、呼応するかのように。




 第一部― 第5章、閉じ。


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?