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【第6章:言の葉の灯火】

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“Μνήμη ψιθυρίζει ἐν σιωπῇ.”

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 ミサキは、情報部の自席に座っていた。

 数日ぶりに戻った職場。けれど、端末に指を伸ばす手に、わずかな迷いが滲む。同僚たちが交わす穏やかな会話が、まるで遠い世界の音のように聞こえていた。


「おかえり、ミサキ」

 隣の席の女性が、心配そうに微笑んで声をかけてくる。


「ありがとう。……もう、平気だから」

 笑顔で応えたつもりだったが、自分でもわかる。声が、どこか浮いていた。


「本当に? あまり無理しないでね」


「うん……ありがと」

 それだけのやり取りが、薄い膜を一枚隔てたかのように、どこか遠くに感じられる。ミサキの意識は、自分の“内側”に囁く気配に囚われていた。


 あの夢。何度も見るたびに、その内容が少しずつ、けれど確実に変化していく。

 最初は断片だったものが、今では感触や光景までもがリアルに浮かぶ。夢の中で出会う“誰か”――その人を自分は確かに知っている気がするのに、どうしても名前が思い出せない。“ねぇさま”その呼びかけだけが、何度も夢の中で繰り返されていた。

 ミサキには姉はいない。だが、胸の奥に疼くような、この懐かしい感情だけが、確かにそこにある。


 資料室からの帰り道、長い回廊を一人歩いていると、ミサキはふいに軽い眩暈を覚えた。視界が白く霞み、足元がふわりと浮いたような感覚に襲われ、思わず壁にもたれかかる。


(……なに、これ……また……)


 ほんの一瞬の意識の霞み――。

 次に目を開けたとき、ミサキは、見慣れない扉の前に立っていた。黒鉄のような、重々しい扉。その中央には、古の紋様が静かに刻まれている。

 そこは、決して日常の導線に存在しない場所。なのに、なぜか彼女は“ここがどこか”を知っていた。“記録の間”だと、魂が理解していた。


 その頃、ギルフェルドの意識は、遥か彼方の場所にいるドウジンへと向けられていた。声なき思念が、静かに空間を超えて流れていく。


 ──「あの方の導きでしょうか。ミサキ・アリアが“記録の間”に辿り着きました……」


 ──「そうか……ミテラも、最近は眠りにつくことが多くなっている」


 ──「偶然とは思えません。何かが、作用している気がします」


 ──「……ミサキの夢と、ミテラの眠り……」


 ──「はい。記録を精査し、可能性を探ってみます」


 ──「……頼む」


 思念の会話が途切れる。だが、ふたりの意識はなお繋がったまま――その波紋だけが、静かに空間に揺れていた。ドウジンは再び歩き出す。その表情に浮かぶのは、安堵ではなく――わずかな緊張だった。


 ━━✦━━


「その扉の先に、何があるか知っているのか?」

 静かな声が背後から届いた。


 ミサキは驚いて振り返る。そこにはギルフェルドがいた。

「ギ、ギルフェルド副長……」

 彼はミサキの肩越しに、扉を、その向こうにある何かを見つめているようだった。


「……あの、これは……」

 ミサキは言葉を探すが、ギルフェルドはそれを遮るように静かに言った。

「入るには、許可が必要だ」


「でも……」


「キミが探しているものの“答え”が、必ずしもキミを幸せにするとは限らない」

 ギルのその言葉には、どこか過去を思わせる重みがあった。


 ミサキは、何も言い返せなかった。お互いが何も語らない、重い沈黙が落ちる。


「……今はもう、戻りなさい。送っていこう」

 ミサキは黙って頷き、その場を離れた。背を向けながらも、扉の前に残された“ざわめき”が、ずっと胸の中で鳴っていた。


 帰宅後、ミサキはリビングでナオヤにぽつりとこぼした。

「……あの時は黙って副長に従って帰ってきたけど…どうしても納得いかないの」


「おいおい、大丈夫なのか? あからさまにキミの身に何か起こってるだろ。次行く時はオレも同行するから必ず言えよ」


「うん…でもこの間も自分の意思で扉の前まで行ったわけじゃないから…」


「どういうこと?」


「資料室からの帰り突然、眩暈がして、気がついたら扉の前だったの」


「え?! そんなこと――」


「あるのよ! 実際そうだったの!」


「じゃあ自力では行けないってこと?」


「……あ、それは多分大丈夫。帰りギルフェルド副長に送ってもらったから、道順は辿れると思う」


「そうなんだ……でも、入っちゃいけないエリアなんだろ?」


「そうなのよね……前回、副長に見つかってるから……なんだか監視されてるような気配もするし…」


「え!規則違反とかで捕まらないだろうな」


「わかんないわよ! アタシにだって」


「とにかく……オレもキミの行動に気をつけるようにしておくから、様子が変だったら後を追えばいいだろ」


「そうね、もしまたアタシが夢遊病みたいにどこかに行き出したら……着いてきて」


「わかった、任せとけ!」

 ミサキは、ナオヤの笑顔に少しだけ安心しながらも――胸のざわめきが消えることはなかった。


「……そういえばナオヤ、アナタも最近、頭痛がするって言ってなかった?」


 ━━✦━━


 翌朝の仮想空は、いつものように静かに始まる。

 朝食の準備をしていたナオヤが、振り返って声をかけた。


「ミサキ、昨夜はどうだった? また例の夢、見た?」


「……うん」

 ミサキはソファの背にもたれたまま、少しだけ深刻な顔をしてうなずいた。


「どうした?」

 ナオヤが静かに問うと、ミサキは視線を宙に泳がせながら口を開いた。


「あのね。夢を見るたびに……段々と“確信”みたいなものに触れてる感じがするの」


「確信?」


「うん。最初はただの断片みたいな夢だったのに、今は……記憶に近い。まるで誰かの人生を、自分がなぞってるみたいな感覚」


「夢の中で、また“ねぇさま”って呼んでた?」


「うん……それだけじゃなくて、その人が話す言葉も、見た場所も、ぜんぶちゃんと覚えてるの。古い神殿みたいな場所にいて……封印みたいなものがあって……」ミサキは、言葉を探すようにゆっくりと説明した。「その人がね、“ここは大事な場所になる”って。すごく優しいのに、瞳の奥がとても悲しそうで……」


「……それってさ、本当にただの夢なのかな?」


「……わたしも、そう思い始めてる」

 ミサキは、手のひらを胸の上にそっと置きながら、ゆっくりと頷いた。

「ただの夢じゃない。何かが、アタシを導いてる気がするの。……それも、すごく、遠くて近い誰かが」


 ナオヤはしばらく黙ってミサキを見ていたが、ふっと息を吐くと優しく笑った。

「……じゃあさ。今度の休みに、ふたりで確かめてみようか?」


「え?」


「どうせ気になるんだろ? 一緒に行こう。あの記録の間って場所に」


「……ナオヤ……」

 ミサキは思わず笑ってしまった。ほっとしたような、泣き出しそうな微笑みだった。


「ありがとう。……ほんとに、ありがとう」


 ナオヤは少し照れくさそうに肩をすくめた。

「ま、いいんだよ。オレ、見てるだけは性に合わないからさ」

 仮想空の朝の光が、ふたりの間にやわらかく差し込んでいた。


 ━━✦━━


 夜明け前の薄明かりの中、ミサキとナオヤは人気のない通路を静かに歩いていた。彼らの足音が、ミレーネの透明な床にわずかに響く。


「本当に大丈夫か?」

 ナオヤは何度目かの問いかけを口にする。


「うん。……行かなきゃって思ったの」

 ミサキは足を止めず、前だけを見つめていた。その眼差しには、確かな意志が宿っていた。


 やがてふたりは、前回ミサキが無意識のうちにたどり着いた場所――“記録の間”の前へと辿り着く。

 今回、ミサキの足取りには迷いがなかった。彼女は立ち止まり、深呼吸をひとつ。そして、封印の印へと手を伸ばす。

 掌が紋の中心に触れた瞬間、柔らかな光が静かに走る。ナオヤが小さく息を呑むのがわかった。

 封印が解かれ、扉が音もなく開いていく。


 ふたりが足を踏み入れると、そこはまるで神殿のような空間だった。


「……ここが、“記録の間”」

 ナオヤの声は、ごく小さな囁きだった。


 ミサキは、言葉を返さずに、その空間にただ圧倒されていた。

 どこまでも高い天井。壁一面を埋め尽くす、膨大な数の書物。古い紙とインクの匂いに混じって、どこか清浄で、懐かしい香りがする。それはまるで、遠い昔の祈りの残り香のようだった。


 彼女は、何かに導かれるように、ゆっくりとその中心へと歩を進める。

 ほとんどの書物は、分厚い革の表紙に覆われ、静かに「時」を纏って棚に収まっている。

 だが――その、一冊だけが違った。


 奥まった棚の一角。

 その書物だけが、まるで埃を寄せ付けないかのように、静かな存在感を放っている。

 光っているわけではない。けれど、ミサキの目には、その本の周りだけが、ほんのりと明るく見えた。


 吸い寄せられるように、彼女の足が止まる。

 そっと、手を伸ばす。

 指先が、その古びた表紙に触れるか触れないかの、その瞬間。


 ――とくん。


 本の表面が、まるで心臓のように、微かに脈打った。

 そして、指先が完全に触れた刹那――ふわりと、柔らかな光が溢れ出す。それは激しい光ではない。ただ、温かい、守るような光だった。


(……あたたかい……)

 ミサキは、思わず両手でその書物を棚から取り出した。

 古代の文字らしきものが、表紙に刻まれている。

 まだ、意味はわからない。けれど、彼女の魂は、もう理解していた。


(これは……ただの古い本じゃない……ワタシを、ずっと呼んでいたのは……きっと、この子だ)


 そう、それこそが、彼女をここまで導いた古文書。

 永い時を超え、主を待ち続けた、祈りの記録。

 その名を、“アルフェアノ”といった。


 その様子を、離れた場所からひとりの男が見つめていた。

 ギルフェルド。

 彼の前にある観測端末の波形が、小さく振れている。映し出される映像の中、ミサキとアルフェアノが光の中で重なるその姿を、ギルフェルドは静かに見届けていた。


「……導かれたか」

 その囁きは、誰の耳にも届かない。だがその声音には、確信と、ほんのわずかな安堵が含まれていた。


「アルフェアノが、“開かれる時”が来た――」




 第一部― 第6章、閉じ。


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