朝焼けの仮想光は、まだほとんど色を持たず、人気のない回廊を、淡く満たしていた。
“記録の間”の前に、ミサキ・アリアは静かに立っていた。
ここを訪れるのは何度目かになるが、自分の意志で、誰にも告げずこの扉の前に立ったのは、初めてだった。
胸の奥に、まだ淡く残る夢の名残。
金色の髪。風にほどける祈りの言葉。
“ねぇさま”と呼んでいた誰かの姿が、ぼんやりと浮かぶ。
(……夢の中で聞いたあの声が、まだ胸の奥に残ってる)
けれど、名前も、顔も、何ひとつはっきりとは思い出せない。
思い出せないはずなのに、掌の奥に残るあのぬくもりだけが、確かに本物のようだった。
そっと、扉に手をかける。
指先に伝わる、わずかな重み。
静かに押し開かれた先にあったのは――何度も見たはずの空間だった。
けれど今日だけは、何かが違って見えた。
天蓋に刻まれた月の意匠。石壁に這う細い光。
すべてが、少しだけ遠くて、優しくて――どこか“祈りの残り香”のようなものを纏っていた。
(……やっぱり、夢に出てきた神殿にそっくりだわ……)
夢と現実の境界が、ゆっくりと溶けていくようだった。
ミサキは、静かに歩を進める。
胸の奥で、何かがじんわりと疼く。
けれど、それは怖さではなかった。
むしろ、ようやく“何か”に触れられるような――そんな予感に近かった。
アルフェアノが収められていた棚へと、自然と足が向かう。
その前に立ち、そっと手を伸ばす。
掌の下で、アルフェアノがかすかに脈動する。その鼓動は、書としてのものではなく――まるで生きている何かの呼吸のようだった。
(この書は、あの日からワタシを呼びかけていたのかもしれない……)
そう思った瞬間、ミサキはページをめくる。
記された、わずか数行の文字が――ひときわ鮮やかな響きを伴って、胸の奥にすとんと落ちてきた。
──記憶に触れしとき、継ぐ者は導かれる。
声に出したわけではないのに、その言葉の意味は自然と心に染み渡っていく。
まるで、ずっと以前から知っていたかのように。
思い出した、というよりも、最初から知っていた。そんな不思議な感覚だった。
ミサキは、はっと小さく息を呑む。
胸の中心に、淡くて鈍い痛みが広がっていった。
頭の奥が鈍く疼き、感情の波紋がじわじわと身体の内側を揺らしていく。
ふと目を上げると、壁の奥に設けられた古い彫刻が目に入った。
そこには、円の下部が裂け、何かが砕けたような図形――夢の中で、確かに見た記憶。
(……ミレーネ?)
言葉に出してみても、答えには届かない。
けれど、胸のどこかで違和感が小さく波紋のように広がっていた。
はっきりとした答えはない。ただ、心の奥に、名前のないざわめきだけが、静かに息づいていた。
そのときだった。
祭壇に鎮座するアルフェアノの封印印が、微かに脈動を始める。
ふいに、静寂だった空気が揺れた。石造りの床が、ほんの僅かに軋んだ気がした。
掌の下で、アルフェアノがさらに脈動を強める。
波紋が拡がるように、祈りの力が記録の間いっぱいに、静かに満ちていく。
ミサキは思わず後ずさった。けれど、どこか懐かしい温もりが、彼女の足を引き止める。
視界が、ふっと揺れた。
あの日、夢の中で見た――黒く砕けた球体。裂け目から溢れる、光。誰かの、祈るような声。
──祈りを……忘れないで……
耳の奥に、微かな囁きが重なる。
現実と夢が、わずかな瞬間、静かに溶け合った。
ミサキは思わず胸元を押さえた。かすかな震えが、指先から全身へと広がっていく。
あれは、何かを封じ、守ろうとした祈り。その残響が、アルフェアノを通して、彼女の中に流れ込んできていた。
━━✦━━
同じ祈りに導かれるように――
観測端末の前に座っていたナオヤは、ふと、頭の奥がずんと揺れるような感覚に襲われた。
最初は、かすかな軋みのような音だった。
だが、それはすぐに低く重い振動へと変わり、耳の奥をゆっくりと満たしていく。
「……なんだ、これ……」
ぽつりと呟いた声が、静まり返った室内にひときわ小さく響く。
それはただの耳鳴りではなかった。
胸の奥――いや、もっと深い場所が、微かに揺れている。
言葉にならない感覚。けれど、確かに“何か”が近づいてくる気配があった。
その瞬間、視界の隅に白い閃光が走る。
砕けた球体。否――月。亀裂から溢れ出す、眩い光。
その景色に重なるように、耳元で声が流れ込んできた。
──……ユル…シテ……ホシイ……
──……ツグナイ…ヲ………
誰かの、祈るような声。それは、悲しみと後悔を帯びていて、静かに胸の奥を打った。
(……誰……だ……?)
ナオヤは額に手をあて、震える視界を押さえる。
記憶を探すように、内側へ意識を向けた。だが、名前はわからない。
けれど、痛みの“質”だけははっきりと伝わってきていた。
──許しを、祈りを、未来への願いを――
胸の中心が、ぎゅうっと軋むように痛む。
言葉では追いつかないほどの想いが、そこに宿っていた。
それは、遠い昔に絶たれた祈りの、かすかな残響だった。
……そして、次の瞬間。
ナオヤの中で、誰かの存在がふと浮かぶ。
(……ミサキ……?)
呼びかけではない。けれど、確かに“彼女”の気配が触れてきた。
遠く離れているはずなのに――その存在が、今ここにあるかのように、感じ取れてしまう。
胸の奥が、もう一度、強く軋んだ。
(……ミサキに、何かが……!)
迷う余地などなかった。
だがそのとき、ふと頭の奥に、もうひとつの“響き”が走る。
(……ド…ミ…ネン……)
知らないはずの名前。けれど、それは妙に懐かしくて――
気づけばその名を、ナオヤは口にしていた。
「……ドミネン……?」
呟いた瞬間、胸の奥が温かく震えた。
まだそれが何なのかは分からない。けれど、何か大切なものが、今静かに動き出したような気がした。
「……今は、ミサキが心配だ」
そう呟くと、ナオヤは席を蹴って立ち上がり、記録の間へと駆け出した。
━━✦━━
開かれたままの扉を抜け、ナオヤは記録の間へと足を踏み入れた。
空気にはまだ、祈りの余韻が淡く揺れている。
仄かな光が、石造りの空間に静かに溶け込んでいた。
祭壇の前。そこに、小さな背中があった。
ミサキ。
アルフェアノに手を触れたまま、彼女はじっと立ち尽くしていた。その肩が、かすかに震えている。
「ミサキ!」
ナオヤの声に、ミサキはゆっくりと振り向いた。
その瞳には、涙の光がほんのわずかに滲んでいた。けれど、怯えはなかった。
触れてはいけない何かを見たあとのような――それでも、どこか温かな静けさが、彼女の表情を包んでいた。
「ナオヤ……」
名前を呼ぶ声が、祈るように小さく響いた。
ナオヤは言葉もなく、そっと彼女の肩に手を置く。
それだけで、充分だった。それだけで、今ここにある想いはすべて伝わる気がした。
ふたりはしばらく、何も言わずに立ち尽くしていた。
誰もいない記録の間の静けさの中で――遠い祈りの残響が、まだ空間に薄く漂っている。
そして、そのとき。
「ネメシラ」
ふたりは、同時にその名を口にして顔を見合わせた。
誰にも教えられていないはずのその名前。
けれど、なぜか自然に、胸の奥から滲み出たように紡がれていた。
それは、まだ形にならない“何か”の名。
けれど確かにふたりの中に息づいている、共通の記憶のかけら。
“ネメシラ”
それは、これからふたりが歩いていく未来への、小さな、けれど確かな、導きの名だった。
━━✦━━
月の中心に限りなく近い場所――ミレーネ中枢、祈りの核“ミテラ”。
ミテラを抱く核の間に、ドウジンはひとり静かに佇んでいた。
光でも影でもない、無音に近い空間。
仄暗く澄んだその場に、生命の鼓動のような微かな振動だけが脈打っていた。
ドウジンはゆっくりと目を閉じ、長く静かな呼吸をひとつ落とす。
「……聞こえているか」
声はかすかに空気を震わせ、静かに溶けていく。
応えはない。けれど、核の奥から微かな波が返ってくる。
それは音ではなく、存在の気配そのものだった。
「彼らが……それぞれの場所で、扉に触れたようだ」
ミテラの光が小さく脈動した。静かで温かな、かすかな共鳴。
ドウジンはそっと目を開ける。その瞳には、わずかな安堵の色が滲んでいた。
「……君の祈りは、ちゃんと届いている。あの子たちの中に」
遠い昔に交わされた祈りが、ようやく“今”という刻を得て、そっと芽吹いた。
それを見届けた者の眼差しが、核に灯る微光へとそっと向けられる。
光は、ゆるやかに波打った。その揺らぎには、ほんのわずかに“安らぎ”の色が宿っていた。
「……この先を継ぐのは、彼らの意志だ。君が守ろうとしたものを、今度は“生きる者”が継ごうとしている」
ミテラの光が、ふたたび静かに脈動する。
祈りの残響が、空間の深層にやわらかく沁み込んでいく。
ドウジンはしばらくその光を見つめ、そして、祈るように目を伏せた。
その背に、かつて交わされた約束を抱きながら――静かにその場をあとにする。
祈りの核は、再び微かな鼓動だけを残し、静かな眠りへと落ちていった。
━━✦━━
ギルフェルドは、静かな監視端末の前で数値を見つめていた。
共鳴波形が、これまでにない振れ幅で揺れている。
画面の奥に脈打つ仄かな光が、何かを告げるように微かに震えていた。
「……ネメシラの影が、動き出す、か」
低く呟くと、ギルフェルドはゆっくりと椅子を離れる。
照明を落とした室内に、背後のモニターだけが静かに光を放っていた。
その淡い光が、ギルフェルドの影を静かに床へと引いていく。
壁際の窓へ歩み寄る。その向こうには、天蓋に映し出されたミレーネの外郭が広がっていた。
ギルフェルドは腕を組み、わずかに目を細める。
「……カノジョの中に、確かに“あの方の記憶”が芽吹き始めている……」
淡い光が、遠くに滲んで見えた。
再び端末に戻ると、ギルフェルドは深く息を吐き、胸元に手を置いた。
あの名を、かつての祈りを――そして、あの方が遺した想いを、そっと思い浮かべる。
「ならば――我らの使命もまた、次の頁へと進まねばならぬ」
その声に呼応するかのように、モニターの波形が仄かに震える。
淡く灯るその光に、未来の微かな輪郭が映し出された気がした。
記録者としての覚悟を、その背に滲ませながら――ギルフェルドは、再び静かに目を閉じた。
━━✦━━
記録の間をあとにしたミサキとナオヤは、無言のまま回廊を並んで歩いていた。
誰にも見つからずここまで来られたのは、まだ夜明け前の静けさが守ってくれていたからだろう。
ミサキは胸の奥がまだ震えているのを感じながら、ときおり何かに引かれるように、後ろを振り返った。
「……ナオヤ」
「うん」
「ありがとう。迎えに来てくれて」
「当たり前だろ」
ナオヤは小さく笑ってみせたが、その目には、どこか心配そうな色が滲んでいた。
「…無理、してないか?」
ミサキは少しだけ笑って、目を伏せるように頷いた。
ふたりの足音だけが、回廊に微かに響く。
「……ねえ、さっき中で……何か感じなかった?」
ナオヤは少し黙ってから、ぽつりと呟いた。
「音がした。胸の奥っていうか……もっと奥。耳鳴りみたいなんだけど、それより静かで……でも、ずっと前から聞いてた気がするような、そんな音」
「……私も。なんて言えばいいか分からないけど、“何か”が触れてきた気がしたの。記憶とか、想いとか、そういうものが……内側でゆっくり動き出す感じ」
ナオヤはゆっくりと頷いた。
「やっぱり、似てるかもな。オレも、自分の中に……まだ名前のない記憶がある気がしてた」
ミサキはしばらく黙っていたが、やがて口を開く。
「じゃあ……私たち、同じものに触れはじめてるのかもね」
ナオヤはその言葉を受け止めるように、静かに微笑んだ。
「……だったら、怖がらなくていいさ。オレはちゃんと、キミのそばにいるよ」
その言葉に、ミサキの肩の力が少しだけ抜けた。
ふたりの歩みは、まだ始まったばかりだった。
第一部― 第9章、閉じ。