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【第10章:祈りの種子】

そこは――

 幾重もの封鎖と静寂の層を抜けたその先に、ミレーネ最高機関の星律執行部でさえ、その存在を知らない“絶対の領域”があった。

 空気はほとんど流れず、真空に近い静けさが支配している。


 けれど、どこかで微かに震えるような律動がある。

 耳に届かぬはずの生命の鼓動が、空間そのものをゆっくりと脈打たせているようだった。

 照明は落とされ、明滅する機器の光が仄かに床を照らしていた。その光は白ではなく、やや蒼味を帯びており、静けさの中に祈りの残響だけが、結晶のように浮かんでいるようだった。


 ギルフェルドは、足音すら響かせずに歩を進めていた。

 手にした端末が、封印の記録を読み取りながら、無言のまま空間に同調していく。

 ここは、誰にも語られていない空間。この場所の存在を知る者は、もう彼しかいない。


 やがて立ち止まると、空間がわずかに揺らいだ。

 認証のための波動が、沈黙の膜を静かに溶かしていく。


 そして――ゆっくりと、ギルフェルドの前に“記憶の最奥”が開かれていった。


 ミテラの、さらに奥。

 静かに開かれたその空間は、外の世界と完全に断絶されたまま、ただ“時”だけを封じ込めていた。

 高く広がる天井、音を吸い込むような壁面、そして中央――白く滑らかな台座の上に、ふたつの透明なカプセルが、寄り添うように並んでいた。


 その中には――

 若き少年と少女の姿が、静かに、横たわっていた。

 表情は穏やかで、苦しみの気配は微塵もない。まるで、やがて来るべき時を、永い夢の中で、静かに待っているかのようだった。

 この空間の、この存在の、その意味を知る者は、ギルフェルドただ一人だ。


 かつて、“あの方”がこの地に祈りを残した頃――この秘密は、静かにギルフェルドに託された。


「未来を繋ぐために。たとえ、すべてを失っても――この種子を、必ず守り抜くのです」


 それは命令ではなく、“願い”だった。

 ギルフェルドは、並び立つカプセルの前に歩み寄り、そっと横たわる“ふたり”を見つめた。

 淡く蒼白い光が、眠るふたりの身体を包み込んでいる。その拍動は規則正しく、けれどどこか呼吸に似ていた。まるで、彼らの存在そのものが“空間を律している”かのようだった。


 ギルフェルドは、しばらくその光に見入っていた。

 言葉は交わさない。だが、カプセルから放たれる淡い瞬きは、ミテラと同調し、彼の心に静かに何かを伝えてくる。

 それは、“あの方の祈り”と、それを守る者だけの、静かな約束だった。


 この場所の存在を、ドウジンですら知らない。

 いや――ギルフェルドは、あえて告げていなかった。

 この重荷は、この罪は、自分がひとりで背負うべきだと…静かに決めていた。



 ━━✦━━



 祈り――

 それは、私の家系には存在しなかったものだ。


 理論。因果。再現性。

 フェルドの名が意味してきたものは、いつも“証明可能な真実”という一点だった。


 昔から、私は“見えないもの”を測ることに執着していた。

 父の振るう剣の鋭さよりも、彼が身につける補正装置の数値変動に目が向いた。

 姉の捧げる祈りの敬虔さよりも、記録台に並んだ脳波グラフの揺らぎのほうが、何かを雄弁に語っているように思えた。


 それは単なる知的好奇心ではなかった。

 人の感情、忠誠心、祈り――それらがもし“定量的に記録できる”としたら、言葉では届かぬ想いも、別の形で、永遠に残せるのではないかと考えていたのだ。


 私の祖国、ナヤールという国は、そうした発想に馴染みやすい場所だった。

 脳科学と神経工学に秀で、あらゆる感覚や意志を“可視化”する技術に長けた民族。フェルド家はその中でも、最も王家に近い位置で“意思の補助”を担う家系だった。

 父は、そんな家の中で剣と律を極めた。感情を整え、姿勢を保ち、忠を貫く。

 言葉で教わることは少なかったが、「忠義とは、感情ではない。制御された意思だ」と、かつて一度だけ告げられたことがある。

 その言葉が、私を科学の道へと導いたのかもしれない。


 剣ではなく記録、声ではなく観測。

 祈りさえも、もし測れたなら――私は、それすらも受け入れる準備ができる気がしていた。

 けれど、それは科学の力を信奉する、幼い私の傲慢でもあったのだろう。


 計測も、記録も、再現もできない“もの”が、確かにこの世にはある。

 私はそのことを、時を経て、痛みと共に知ることになる。


 いま、祈りの核の前に立つ私にとって、この沈黙は、ただの空白ではない。

 測れないからこそ、触れられるものがある。あの頃の私には届かなかったものが、いま、確かに胸の奥で脈打っている。


 私は、すべてを知っている。

 この眠るふたりが“誰であり、誰でないのか”。

 彼らが、いずれ何に繋がり、何処へ向かうのか。

 そして、この場所が、何のために存在するのかも。


 あの方の声は、今もなお私の中に、あの日のままに響いている。

 私がこの場所に立つ理由は、それだけで十分だ。

 誰にも知られずとも、語られずとも――この祈りの核を、正しく繋ぐこと。

 私に課された“最後の仕事”――それだけが、いまの私をここに立たせている。



 ━━✦━━



 手元の端末に、ひとつの通信ログが届いていた。

 無音で開かれた画面には、ごく短い記録だけが並んでいる。


《 転送因子・固定化率:92.4% 》

《 コア同調波形:安定中 》

《 精神構造保全率:再評価中 》


 ギルフェルドはそれをしばらく眺め、静かに画面を閉じた。

 計画は、確実に進んでいる。

 人類がふたたび地上に還るための、ガイア移住計画。ミレーネの生体循環系、神経ネットワーク、記憶保持構造……それらはすべて、ナヤールの科学と、ギルフェルドの手によって組み上げられたものだ。


 すべてが明かされるのは、まだ先になるだろう。


 信仰でも、使命感でもない。

 ただ、残された意思を黙って繋ぎ、果たすべき役目を静かに続けるだけだった。

 だがその核心に、ひとつの“祈りの種子”が据えられていることを、知る者は、ほとんどいない。


 その場所を、いつか芽生える種子のため、未来へと繋げるその時まで、護り続けるのだと――

 ギルフェルドは、確かな想いを独り、静かに誓う。


 そして、これからも“時が来るまで”、彼は再び静かに歩き出すのだった。




 第一部― 第10章、閉じ。





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