そこは――
幾重もの封鎖と静寂の層を抜けたその先に、ミレーネ最高機関の星律執行部でさえ、その存在を知らない“絶対の領域”があった。
空気はほとんど流れず、真空に近い静けさが支配している。
けれど、どこかで微かに震えるような律動がある。
耳に届かぬはずの生命の鼓動が、空間そのものをゆっくりと脈打たせているようだった。
照明は落とされ、明滅する機器の光が仄かに床を照らしていた。その光は白ではなく、やや蒼味を帯びており、静けさの中に祈りの残響だけが、結晶のように浮かんでいるようだった。
ギルフェルドは、足音すら響かせずに歩を進めていた。
手にした端末が、封印の記録を読み取りながら、無言のまま空間に同調していく。
ここは、誰にも語られていない空間。この場所の存在を知る者は、もう彼しかいない。
やがて立ち止まると、空間がわずかに揺らいだ。
認証のための波動が、沈黙の膜を静かに溶かしていく。
そして――ゆっくりと、ギルフェルドの前に“記憶の最奥”が開かれていった。
ミテラの、さらに奥。
静かに開かれたその空間は、外の世界と完全に断絶されたまま、ただ“時”だけを封じ込めていた。
高く広がる天井、音を吸い込むような壁面、そして中央――白く滑らかな台座の上に、ふたつの透明なカプセルが、寄り添うように並んでいた。
その中には――
若き少年と少女の姿が、静かに、横たわっていた。
表情は穏やかで、苦しみの気配は微塵もない。まるで、やがて来るべき時を、永い夢の中で、静かに待っているかのようだった。
この空間の、この存在の、その意味を知る者は、ギルフェルドただ一人だ。
かつて、“あの方”がこの地に祈りを残した頃――この秘密は、静かにギルフェルドに託された。
「未来を繋ぐために。たとえ、すべてを失っても――この種子を、必ず守り抜くのです」
それは命令ではなく、“願い”だった。
ギルフェルドは、並び立つカプセルの前に歩み寄り、そっと横たわる“ふたり”を見つめた。
淡く蒼白い光が、眠るふたりの身体を包み込んでいる。その拍動は規則正しく、けれどどこか呼吸に似ていた。まるで、彼らの存在そのものが“空間を律している”かのようだった。
ギルフェルドは、しばらくその光に見入っていた。
言葉は交わさない。だが、カプセルから放たれる淡い瞬きは、ミテラと同調し、彼の心に静かに何かを伝えてくる。
それは、“あの方の祈り”と、それを守る者だけの、静かな約束だった。
この場所の存在を、ドウジンですら知らない。
いや――ギルフェルドは、あえて告げていなかった。
この重荷は、この罪は、自分がひとりで背負うべきだと…静かに決めていた。
━━✦━━
祈り――
それは、私の家系には存在しなかったものだ。
理論。因果。再現性。
フェルドの名が意味してきたものは、いつも“証明可能な真実”という一点だった。
昔から、私は“見えないもの”を測ることに執着していた。
父の振るう剣の鋭さよりも、彼が身につける補正装置の数値変動に目が向いた。
姉の捧げる祈りの敬虔さよりも、記録台に並んだ脳波グラフの揺らぎのほうが、何かを雄弁に語っているように思えた。
それは単なる知的好奇心ではなかった。
人の感情、忠誠心、祈り――それらがもし“定量的に記録できる”としたら、言葉では届かぬ想いも、別の形で、永遠に残せるのではないかと考えていたのだ。
私の祖国、ナヤールという国は、そうした発想に馴染みやすい場所だった。
脳科学と神経工学に秀で、あらゆる感覚や意志を“可視化”する技術に長けた民族。フェルド家はその中でも、最も王家に近い位置で“意思の補助”を担う家系だった。
父は、そんな家の中で剣と律を極めた。感情を整え、姿勢を保ち、忠を貫く。
言葉で教わることは少なかったが、「忠義とは、感情ではない。制御された意思だ」と、かつて一度だけ告げられたことがある。
その言葉が、私を科学の道へと導いたのかもしれない。
剣ではなく記録、声ではなく観測。
祈りさえも、もし測れたなら――私は、それすらも受け入れる準備ができる気がしていた。
けれど、それは科学の力を信奉する、幼い私の傲慢でもあったのだろう。
計測も、記録も、再現もできない“もの”が、確かにこの世にはある。
私はそのことを、時を経て、痛みと共に知ることになる。
いま、祈りの核の前に立つ私にとって、この沈黙は、ただの空白ではない。
測れないからこそ、触れられるものがある。あの頃の私には届かなかったものが、いま、確かに胸の奥で脈打っている。
私は、すべてを知っている。
この眠るふたりが“誰であり、誰でないのか”。
彼らが、いずれ何に繋がり、何処へ向かうのか。
そして、この場所が、何のために存在するのかも。
あの方の声は、今もなお私の中に、あの日のままに響いている。
私がこの場所に立つ理由は、それだけで十分だ。
誰にも知られずとも、語られずとも――この祈りの核を、正しく繋ぐこと。
私に課された“最後の仕事”――それだけが、いまの私をここに立たせている。
━━✦━━
手元の端末に、ひとつの通信ログが届いていた。
無音で開かれた画面には、ごく短い記録だけが並んでいる。
《 転送因子・固定化率:92.4% 》
《 コア同調波形:安定中 》
《 精神構造保全率:再評価中 》
ギルフェルドはそれをしばらく眺め、静かに画面を閉じた。
計画は、確実に進んでいる。
人類がふたたび地上に還るための、ガイア移住計画。ミレーネの生体循環系、神経ネットワーク、記憶保持構造……それらはすべて、ナヤールの科学と、ギルフェルドの手によって組み上げられたものだ。
すべてが明かされるのは、まだ先になるだろう。
信仰でも、使命感でもない。
ただ、残された意思を黙って繋ぎ、果たすべき役目を静かに続けるだけだった。
だがその核心に、ひとつの“祈りの種子”が据えられていることを、知る者は、ほとんどいない。
その場所を、いつか芽生える種子のため、未来へと繋げるその時まで、護り続けるのだと――
ギルフェルドは、確かな想いを独り、静かに誓う。
そして、これからも“時が来るまで”、彼は再び静かに歩き出すのだった。
第一部― 第10章、閉じ。