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【第11章:記録されぬ囁き】


『……言葉にならぬ記憶がある。

 名を持たぬ祈りは、ただ、魂に刻まれしもの……』


 ──『アルフェアノ』断章より(記録されぬ頁)


 ━━✦━━



 冷たい床を歩いているはずだった。けれど足元が霞かすんで見えた。

 天井の光が、脈打つように揺れている。まるで、自分の視界だけが“時間からずれて”いるような違和感。

「……また、来た……」

 ナオヤは立ち止まり、額を押さえた。

 鼓膜の奥が、きしむようにざわめいている。

 誰かの“記憶”が、自分の中で目を覚まし始めたかのように――


 澄んだ音なのに、どこかでひび割れているような不安定な響き。音ではない。意味のない囁きでもない。けれど確かに――“誰か”がそこにいる。


「……ドミネン……」

 その名を、ナオヤはまた口にした。

 呼びかけているのは自分なのか、それとも――呼ばれているのは、自分のほうなのか。


 胸の奥が軋む。誰かの感情が、自分の内側に“染み込んでくる”感覚。(なにかが……ずっと、ここにあった……)

 掌を胸に当てる。そこには、知らないはずの“想い”が確かに存在していた。誰かが、何かを、どうしても“伝えたがっている”気配。


「……オレは……誰かの……」

 言葉にならない。でも、自分の“輪郭”が揺らいでいるような感覚だけは、否応なく迫ってきていた。


 そして、まぶたを閉じたその瞬間――白く欠けた月が、脳裏に浮かんだ。

 黒い亀裂の走る球体。その中に、長い眠りのような“祈り”の光。

 それは、どこにも存在しないはずの風景。

 ナオヤは、まるで夢を見るようにそれを見つめていた。


“それは、自分に属している記憶ではない”――でも、拒めなかった。

 魂のどこかが、もう知っていた。

 自分の想いじゃないはずなのに、誰かの痛みが、自分の中を静かに通り過ぎていった気がした。


(……ドミネン……あれは……オレの……)


 次の言葉は出てこなかった。

 そのまま、意識の底へと、静かに引き込まれていった。





 まぶたを開けたとき、目の前にはただ白い天井が広がっていた。

 無機質な光がぼんやりと差している。見慣れない天井。――ここは……救護室?

 ゆっくりと視線を動かすと、その隣にひとつの影があった。


「……大丈夫か」


 静かな声が、やさしく響いた。

 仮想光に照らされたドウジンが、ナオヤを見下ろしていた。


「……先輩……ここは……?」


「ああ、君が倒れていたところを、ギルフェルド副長が見つけて……ここまで運んできた」


 ナオヤはまだぼんやりとしていた。

 胸の奥に残るのは、祈りのような、名もなき“感情の残響”。


 ドウジンはしばし黙ってから、ナオヤの様子を探るように視線を落とした。


「……何を感じた?」


 ナオヤは、ゆっくりと口を開いた。


「……“ドミネン”って、名前が……勝手に浮かんで……気づいたら……」


 ドウジンの瞳がわずかに揺れる。


「……その名前に、君が触れたということは――」


 一瞬、何かを言いかけたようだったが、その続きを飲み込むように、ドウジンは視線を逸らした。


「……その名、大切にしておけ」


 そのとき、背後から足音が近づいた。


「ドウジン様」


「……あぁ」


「やはり……」


 低く呟いたその声は、まぎれもなくギルフェルドのものだった。

 携えていた端末を操作しながら、彼は静かにナオヤを見やった。


「共鳴パターンが一致しています。過去、記録された“あの時”と……同じです」


「……そうか」

 ドウジンは静かに頷いた。


 ナオヤには、何を言っているのか理解できない。けれど、ふたりの間に流れる空気が、

 まるで長く失われていた“答え”に触れたかのように感じられた。


 ギルフェルドがゆっくりとナオヤのほうへ向き直った。


「その名は、祈りと共に託された“灯火”……

 それが今、ナオヤ。君の中で、ようやく目を覚まし始めているのです」


 ナオヤは思わず息を呑む。何もわかっていない。

 けれど、心のどこかが確かに“それを受け入れていた”。




 ふたりと別れた後、ギルフェルドは、もう一つの静かな計画の進行を確認していた。

 静かな室内で、背後の照明は落とされ、観測端末の光だけが一定のリズムで点滅している。

 ギルフェルドはその前で黙々と作業を続けていた。外界との接触を断つかのように閉じられた空間。


“本来、この計画に感情を持ち込むべきではない”

 ギルフェルドはそう考えていた。ただ粛々と、必要な人員を選び、技術を準備し、帰還の段取りを整える。

 ガイアへの移住は、全人類の希望をつなぐ、祈りそのものだ。

 ……だからこそ、“綻び”を許すわけにはいかない。


 通信機が震え、端末に通知が走る。ギルフェルドは音を鳴らさずに受信した。


「報告。標的グループ、指定座標にて確保。現場にて証拠資料の回収を実行中。被害なし」


 ごく短い文面。だが、それで十分だった。

 ギルフェルドは端末を閉じ、深く息をついた。


“反対派”とされるグループは、古い記録の一部を独自解釈し、

「ミレーネからの脱出は、禁忌の封印を破る行為だ」と主張していた。


 彼らの主張がすべて間違っているとは、ギルフェルドも思っていない。

 だが、彼らには足りなかった――

「……彼らには、“受け継ぐ覚悟”が、足りなかった」


 その言葉は、誰でもない自分自身への確認でもあった。


 ギルフェルドは誰よりも知っている。この移住計画が、どれだけの犠牲と秘密の上に成り立っているかを。

 だからこそ、それを脅かす者には、容赦しない。


 もう一つの画面に目をやり、波形を確認する。ミサキの共鳴は安定している。

 ナオヤの波長も、ドミネンの記録と一致し始めていた。


「祈りは、正しく託されるべきだ」

 誰にも届かないその言葉とともに、ギルフェルドは仄暗い室内で目を閉じた。



 ━━✦━━



 仮想空の空が薄暗くなったころ、ミサキはひとり、自室に居た。

 周囲は暗く、画面の反射光だけが、ぼんやりと壁を照らしている。

 ミサキは椅子にもたれたまま、何をするでもなく、ただ呼吸を整えていた。


 けれどその静けさの中に、確かに“何か”が揺れていた。


(……行かなくても、聞こえる……)


 記録の間ではない。アルフェアノに触れているわけでもない。

 けれど、あの祈りの波が――言葉にならない感情の流れが、彼女の中に確かに届いている。


 目を閉じると、浮かび上がってくる“光”。

 それは文章でも記号でもなく、ただ“想い”として形を持っていた。


「……誰……?」

 けれど、胸の奥には確かに“白い花の残像”が灯っていた。

 それは、かつて夢の中で出逢った、あの微笑みに似たぬくもり――。


 どこか遠くで、鈴のような音が鳴った気がした。


目を閉じると、浮かび上がってくる“光”。

 それは文章でも記号でもなく、ただ“想い”として形を持っていた。


「……誰……?」

 けれど、胸の奥には確かに“白い花の残像”が灯っていた。

 どこか遠くで、鈴のような音が鳴った気がした。


 それは、幼い頃に夢で出会った“誰か”のぬくもりに似ていた。

名を知らなくても、心のどこかが応えていた。

(あなたは……ずっと……ここにいたの?)


  問いかけるように、手を胸元に添える。

 鼓動が、わずかに強く打ち始めていた。


 そのときだった。どこかで、誰かの名を呼ぶ声が――ナオヤの声が、ふと心に重なった気がした。

(……ドミネン……)

 彼女は驚かなかった。なぜなら、その名にもどこか“共鳴する響き”を感じていたからだ。


 それが何なのかは、まだわからない。

 けれど確かに――自分は、今、誰かと繋がっている。


 ふと、扉の向こうに気配がした。ゆっくりと立ち上がり、そっと扉を開ける。

 そこには、廊下の奥に立つナオヤの姿があった。


 目が合った瞬間、言葉は交わさなかった。けれど、ミサキは微笑んだ。

 ナオヤも、わずかに頷く。


 言葉ではなく、記憶でもない。

 けれど、“伝わった”と感じられる祈りの残響が、ふたりの間を静かに満たしていた。


 ━━✦━━


 ミレーネの風に、雨の気配がまじっていた。

 それだけで、どこか記憶の奥が揺らぐ気がした。


 ――不思議と頬を撫でるような感触があった。


 ――ドウジンは、その中で静かに立っていた。


 ――視線の先、白い花が一面に咲き誇る庭の片隅に、彼女の姿があった。


 ――彼女は背を向けたまま、何かを静かに祈っていた。


 ――言葉ではなく、動きでもなく、ただそこに“在る”というだけの祈り。


 ――それが、ドウジンには何よりも尊く、美しいと感じられた。


(……このときのことを、忘れたくない)

 その想いだけが、深く胸に残っていた。


 ――彼女が振り返る。ほんの少しだけ年を重ねたように見えたが、それでも変わらない微笑み。


 ――「どうしたの?」


 ――彼女の声は、風よりも優しく響いた。


 ――「……いや。見ていただけだ」


 ――ドウジンはそう答えながら、一歩だけ近づく。


 ――ふたりの間にはまだ距離があったけれど、不思議とその距離が“ちょうどいい”と感じられた。


 ――「また、夢を見たの」彼女はそう言った。


 ――「とても静かな夢だった。……けれど、最後に――あなたがいなかったわ」


 ――「……そうか」


 ――ドウジンは、何も言えなかった。けれど、彼女の言葉の奥に“何かを悟っている”気配を感じた。


 ――「……それでも、目覚めたときに泣いてはいなかったわ。あなたがいなくても……私はちゃんと、祈っているの。ずっと、ずっと」


 ――その声に、ドウジンはそっと目を閉じた。


 ――この場所での時間はもう長くはないことを、ふたりとも知っていた。


 ――けれど、その短さを誰も責めることはなかった。


 ――「……ありがとう」それだけを、彼は告げた。


 ――彼女は優しく微笑み、そっと目を伏せる。


 ――その横顔は、永遠に覚えておきたいほどに静かだった。


 ――そして――風が、また吹いた。


 ――気がつけば彼女の姿は遠くにあった。歩いているのか、それともただ離れているだけなのか。


 ――けれど、ドウジンは追わなかった。


 ――彼女の姿が遠ざかるのを見ながら、ドウジンはふと理解した。もう、自分は彼女の傍にいるだけでは足りない時が来ているのだと――


(……ただ、きみだけが)

 誰より遠くて、誰よりも近い存在――

 ドウジンは、胸の奥でその名を呼んでいた。



 その祈りが、静かに遠ざかっていく頃――



 ナオヤの胸の奥に、またひとつ“響き”が流れ込んできた。


「……ワタシハ……キミニ……タクシタイ……コノ、トモシビヲ……」


 声ではなかった。言葉でもなかった。

 けれど、それは確かに“願い”として、ナオヤの中に灯った。


 ――いや、“ただの願い”ではなかった。

 それはもう、ナオヤの中に根を張りはじめた“誰かの意志”。

 輪郭のない想いが、ひとつの「名」を得て、静かに息づき始めていた。


 ━━✦━━


 ──記録の奥深く。誰にも届かぬ静寂の底にて。

 そこにひとつ、語られぬ頁が残されていた。


 名もなく、記録もなく。

 ただ祈りの残響だけが、そこに脈打ち続けていた。


 ……記録とは、語られた事実ではない。

 記録とは、誰かが“残そう”とした想いのことだ。


 それはときに、届かずに終わる。

 けれど、ときに、届かぬまま“誰かの中で”芽吹く。


 あの日、ふたりはそれぞれの祈りに触れ、

 魂のどこかで、それを受け入れる選択をした。


 カレらは名を継いだわけではない。

 ただ、心の奥で――“かつてそう呼ばれた誰かの想い”と、静かに共鳴した。


 そして、カレらは向かった。


 まだ誰も記録していない、欠けた月の裏側へ

 名を持たぬ祈りの残響を辿って。


 その地の名は、ネメシラ。

 ……罪と記憶が封じられた、月の影。

 記録からこぼれ落ちた、もうひとつの“真実”。


 記録されぬ囁きは、

 やがて“語られるべき記憶”として、

 過去の扉を、静かに開き始める。


 ゆっくりと、その頁をめくろう。

 誰にも語られなかった、祈りの始まりを――





 ―第11章、閉じ。


 ― 第一部[残響の扉]ー完。 



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