『……言葉にならぬ記憶がある。
名を持たぬ祈りは、ただ、魂に刻まれしもの……』
──『アルフェアノ』断章より(記録されぬ頁)
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冷たい床を歩いているはずだった。けれど足元が霞かすんで見えた。
天井の光が、脈打つように揺れている。まるで、自分の視界だけが“時間からずれて”いるような違和感。
「……また、来た……」
ナオヤは立ち止まり、額を押さえた。
鼓膜の奥が、きしむようにざわめいている。
誰かの“記憶”が、自分の中で目を覚まし始めたかのように――
澄んだ音なのに、どこかでひび割れているような不安定な響き。音ではない。意味のない囁きでもない。けれど確かに――“誰か”がそこにいる。
「……ドミネン……」
その名を、ナオヤはまた口にした。
呼びかけているのは自分なのか、それとも――呼ばれているのは、自分のほうなのか。
胸の奥が軋む。誰かの感情が、自分の内側に“染み込んでくる”感覚。(なにかが……ずっと、ここにあった……)
掌を胸に当てる。そこには、知らないはずの“想い”が確かに存在していた。誰かが、何かを、どうしても“伝えたがっている”気配。
「……オレは……誰かの……」
言葉にならない。でも、自分の“輪郭”が揺らいでいるような感覚だけは、否応なく迫ってきていた。
そして、まぶたを閉じたその瞬間――白く欠けた月が、脳裏に浮かんだ。
黒い亀裂の走る球体。その中に、長い眠りのような“祈り”の光。
それは、どこにも存在しないはずの風景。
ナオヤは、まるで夢を見るようにそれを見つめていた。
“それは、自分に属している記憶ではない”――でも、拒めなかった。
魂のどこかが、もう知っていた。
自分の想いじゃないはずなのに、誰かの痛みが、自分の中を静かに通り過ぎていった気がした。
(……ドミネン……あれは……オレの……)
次の言葉は出てこなかった。
そのまま、意識の底へと、静かに引き込まれていった。
まぶたを開けたとき、目の前にはただ白い天井が広がっていた。
無機質な光がぼんやりと差している。見慣れない天井。――ここは……救護室?
ゆっくりと視線を動かすと、その隣にひとつの影があった。
「……大丈夫か」
静かな声が、やさしく響いた。
仮想光に照らされたドウジンが、ナオヤを見下ろしていた。
「……先輩……ここは……?」
「ああ、君が倒れていたところを、ギルフェルド副長が見つけて……ここまで運んできた」
ナオヤはまだぼんやりとしていた。
胸の奥に残るのは、祈りのような、名もなき“感情の残響”。
ドウジンはしばし黙ってから、ナオヤの様子を探るように視線を落とした。
「……何を感じた?」
ナオヤは、ゆっくりと口を開いた。
「……“ドミネン”って、名前が……勝手に浮かんで……気づいたら……」
ドウジンの瞳がわずかに揺れる。
「……その名前に、君が触れたということは――」
一瞬、何かを言いかけたようだったが、その続きを飲み込むように、ドウジンは視線を逸らした。
「……その名、大切にしておけ」
そのとき、背後から足音が近づいた。
「ドウジン様」
「……あぁ」
「やはり……」
低く呟いたその声は、まぎれもなくギルフェルドのものだった。
携えていた端末を操作しながら、彼は静かにナオヤを見やった。
「共鳴パターンが一致しています。過去、記録された“あの時”と……同じです」
「……そうか」
ドウジンは静かに頷いた。
ナオヤには、何を言っているのか理解できない。けれど、ふたりの間に流れる空気が、
まるで長く失われていた“答え”に触れたかのように感じられた。
ギルフェルドがゆっくりとナオヤのほうへ向き直った。
「その名は、祈りと共に託された“灯火”……
それが今、ナオヤ。君の中で、ようやく目を覚まし始めているのです」
ナオヤは思わず息を呑む。何もわかっていない。
けれど、心のどこかが確かに“それを受け入れていた”。
ふたりと別れた後、ギルフェルドは、もう一つの静かな計画の進行を確認していた。
静かな室内で、背後の照明は落とされ、観測端末の光だけが一定のリズムで点滅している。
ギルフェルドはその前で黙々と作業を続けていた。外界との接触を断つかのように閉じられた空間。
“本来、この計画に感情を持ち込むべきではない”
ギルフェルドはそう考えていた。ただ粛々と、必要な人員を選び、技術を準備し、帰還の段取りを整える。
ガイアへの移住は、全人類の希望をつなぐ、祈りそのものだ。
……だからこそ、“綻び”を許すわけにはいかない。
通信機が震え、端末に通知が走る。ギルフェルドは音を鳴らさずに受信した。
「報告。標的グループ、指定座標にて確保。現場にて証拠資料の回収を実行中。被害なし」
ごく短い文面。だが、それで十分だった。
ギルフェルドは端末を閉じ、深く息をついた。
“反対派”とされるグループは、古い記録の一部を独自解釈し、
「ミレーネからの脱出は、禁忌の封印を破る行為だ」と主張していた。
彼らの主張がすべて間違っているとは、ギルフェルドも思っていない。
だが、彼らには足りなかった――
「……彼らには、“受け継ぐ覚悟”が、足りなかった」
その言葉は、誰でもない自分自身への確認でもあった。
ギルフェルドは誰よりも知っている。この移住計画が、どれだけの犠牲と秘密の上に成り立っているかを。
だからこそ、それを脅かす者には、容赦しない。
もう一つの画面に目をやり、波形を確認する。ミサキの共鳴は安定している。
ナオヤの波長も、ドミネンの記録と一致し始めていた。
「祈りは、正しく託されるべきだ」
誰にも届かないその言葉とともに、ギルフェルドは仄暗い室内で目を閉じた。
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仮想空の空が薄暗くなったころ、ミサキはひとり、自室に居た。
周囲は暗く、画面の反射光だけが、ぼんやりと壁を照らしている。
ミサキは椅子にもたれたまま、何をするでもなく、ただ呼吸を整えていた。
けれどその静けさの中に、確かに“何か”が揺れていた。
(……行かなくても、聞こえる……)
記録の間ではない。アルフェアノに触れているわけでもない。
けれど、あの祈りの波が――言葉にならない感情の流れが、彼女の中に確かに届いている。
目を閉じると、浮かび上がってくる“光”。
それは文章でも記号でもなく、ただ“想い”として形を持っていた。
「……誰……?」
けれど、胸の奥には確かに“白い花の残像”が灯っていた。
それは、かつて夢の中で出逢った、あの微笑みに似たぬくもり――。
どこか遠くで、鈴のような音が鳴った気がした。
目を閉じると、浮かび上がってくる“光”。
それは文章でも記号でもなく、ただ“想い”として形を持っていた。
「……誰……?」
けれど、胸の奥には確かに“白い花の残像”が灯っていた。
どこか遠くで、鈴のような音が鳴った気がした。
それは、幼い頃に夢で出会った“誰か”のぬくもりに似ていた。
名を知らなくても、心のどこかが応えていた。
(あなたは……ずっと……ここにいたの?)
問いかけるように、手を胸元に添える。
鼓動が、わずかに強く打ち始めていた。
そのときだった。どこかで、誰かの名を呼ぶ声が――ナオヤの声が、ふと心に重なった気がした。
(……ドミネン……)
彼女は驚かなかった。なぜなら、その名にもどこか“共鳴する響き”を感じていたからだ。
それが何なのかは、まだわからない。
けれど確かに――自分は、今、誰かと繋がっている。
ふと、扉の向こうに気配がした。ゆっくりと立ち上がり、そっと扉を開ける。
そこには、廊下の奥に立つナオヤの姿があった。
目が合った瞬間、言葉は交わさなかった。けれど、ミサキは微笑んだ。
ナオヤも、わずかに頷く。
言葉ではなく、記憶でもない。
けれど、“伝わった”と感じられる祈りの残響が、ふたりの間を静かに満たしていた。
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ミレーネの風に、雨の気配がまじっていた。
それだけで、どこか記憶の奥が揺らぐ気がした。
――不思議と頬を撫でるような感触があった。
――ドウジンは、その中で静かに立っていた。
――視線の先、白い花が一面に咲き誇る庭の片隅に、彼女の姿があった。
――彼女は背を向けたまま、何かを静かに祈っていた。
――言葉ではなく、動きでもなく、ただそこに“在る”というだけの祈り。
――それが、ドウジンには何よりも尊く、美しいと感じられた。
(……このときのことを、忘れたくない)
その想いだけが、深く胸に残っていた。
――彼女が振り返る。ほんの少しだけ年を重ねたように見えたが、それでも変わらない微笑み。
――「どうしたの?」
――彼女の声は、風よりも優しく響いた。
――「……いや。見ていただけだ」
――ドウジンはそう答えながら、一歩だけ近づく。
――ふたりの間にはまだ距離があったけれど、不思議とその距離が“ちょうどいい”と感じられた。
――「また、夢を見たの」彼女はそう言った。
――「とても静かな夢だった。……けれど、最後に――あなたがいなかったわ」
――「……そうか」
――ドウジンは、何も言えなかった。けれど、彼女の言葉の奥に“何かを悟っている”気配を感じた。
――「……それでも、目覚めたときに泣いてはいなかったわ。あなたがいなくても……私はちゃんと、祈っているの。ずっと、ずっと」
――その声に、ドウジンはそっと目を閉じた。
――この場所での時間はもう長くはないことを、ふたりとも知っていた。
――けれど、その短さを誰も責めることはなかった。
――「……ありがとう」それだけを、彼は告げた。
――彼女は優しく微笑み、そっと目を伏せる。
――その横顔は、永遠に覚えておきたいほどに静かだった。
――そして――風が、また吹いた。
――気がつけば彼女の姿は遠くにあった。歩いているのか、それともただ離れているだけなのか。
――けれど、ドウジンは追わなかった。
――彼女の姿が遠ざかるのを見ながら、ドウジンはふと理解した。もう、自分は彼女の傍にいるだけでは足りない時が来ているのだと――
(……ただ、きみだけが)
誰より遠くて、誰よりも近い存在――
ドウジンは、胸の奥でその名を呼んでいた。
その祈りが、静かに遠ざかっていく頃――
ナオヤの胸の奥に、またひとつ“響き”が流れ込んできた。
「……ワタシハ……キミニ……タクシタイ……コノ、トモシビヲ……」
声ではなかった。言葉でもなかった。
けれど、それは確かに“願い”として、ナオヤの中に灯った。
――いや、“ただの願い”ではなかった。
それはもう、ナオヤの中に根を張りはじめた“誰かの意志”。
輪郭のない想いが、ひとつの「名」を得て、静かに息づき始めていた。
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──記録の奥深く。誰にも届かぬ静寂の底にて。
そこにひとつ、語られぬ頁が残されていた。
名もなく、記録もなく。
ただ祈りの残響だけが、そこに脈打ち続けていた。
……記録とは、語られた事実ではない。
記録とは、誰かが“残そう”とした想いのことだ。
それはときに、届かずに終わる。
けれど、ときに、届かぬまま“誰かの中で”芽吹く。
あの日、ふたりはそれぞれの祈りに触れ、
魂のどこかで、それを受け入れる選択をした。
カレらは名を継いだわけではない。
ただ、心の奥で――“かつてそう呼ばれた誰かの想い”と、静かに共鳴した。
そして、カレらは向かった。
まだ誰も記録していない、欠けた月の裏側へ
名を持たぬ祈りの残響を辿って。
その地の名は、ネメシラ。
……罪と記憶が封じられた、月の影。
記録からこぼれ落ちた、もうひとつの“真実”。
記録されぬ囁きは、
やがて“語られるべき記憶”として、
過去の扉を、静かに開き始める。
ゆっくりと、その頁をめくろう。
誰にも語られなかった、祈りの始まりを――
―第11章、閉じ。
― 第一部[残響の扉]ー完。