──これは、記録の一頁より抜粋された、失われし王国の記録。
セリオン王国。
蒼き星に咲いた、白き祈りの血を宿す民の王国。
この世がまだ、語り得ぬ神々の記憶に繋がれていた頃。
月と星、祈りと魂の理は、確かにこの地に息づいていた。
空は高く、白き月は天の高みに凛と佇み、その輪郭は空に宿された記憶のごとく鮮やかに、
その光はまるで祈りのように、静かに地へと降り注いでいた。
人々は魂を重ねて祈り、花々は季節の記憶を咲かせていた。
だが、その王国の静けさに、誰も気づかぬ影が忍び寄ろうとしていた。
語り継がれし、護りの伝承『ネファリス』の血。
忘れられた過去より、その魂が再び命を受けようとしていたのだ。
──今、記憶の扉が静かに開かれる。
その先に綴られし祈りを、ともに紐解こう。
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王宮の長い回廊を、ドウジンは一人、俯きがちに歩いていた。
角を曲がった先で、侍女たちがひそひそと交わす声が、嫌でも耳に届いてしまう。
「……第三王子様も、もうすぐ10歳になられるというのに、いまだに剣の稽古もさせてもらえぬとは、お可哀想に…」
「仕方ないでしょう。あの方は、王妃様の命と引き換えに、お生まれになったようなものなのだから…」
――また、その話か。
びり、と心の表面が痺れるような感覚。
誰も、彼の前では口にしない。けれど、城の空気には、ずっとその「憐れみ」と「責め」の匂いが染み付いていた。
父上も、兄上たちも、自分を遠ざける。腫れ物に触るように、壊れ物を扱うように。
ドウジンは、侍女たちの前から逃げるように、足早に中庭へと向かった。
そこは、亡き母が愛したという、四季の花々が咲き誇る場所。
だが、今の彼の目には、その美しささえも、自分への当てつけのように映っていた。
「くそっ!クソ!!」
(どいつもこいつも、いつまでもオレを子ども扱いしやがって!)
(父上や兄上達も、腫れ物に触るようにオレのことを扱って…
オレは、そんなにやわな子どもじゃない!)
「クソっ!」
(この短剣だって、かぁ様の肩身だからって…オレは男だ!何故いつまでも女物の短剣しか持たせて貰えない!)
(どうせ城の誰もが、かぁ様が死んだのはオレのせいだと思ってるんだ!)
「こんな花ばっかり植えやがって!」
(かぁ様が好きだったからって…オレへの当てつけか!)
「全部散らしてやる!」
そう思って短剣を思い切り振り上げた時、その少女は突然現れた。
「ダメじゃない!お花達が泣いているわ、可哀想だからやめてあげて」
いきなり背後から声をかけられて振り向くとオレを見下ろす少女が立っていた。
「ん?…誰だ、おまえは!見かけない顔だな、何故ここにいる、ここはオレの庭だ、だからこの花達もオレの物だ!どうしようと、っ!」
指先に一瞬熱さを感じ手が止まる。
パタパタと赤い滴が千切れた花々の上に落ちた。
少女が駆け寄ってしゃがみ込む。
「ほら、この子達こんなに怪我をして…」
ーー何故か指先の痛みより、オレの心が傷ついたような気がして、一瞬言葉が出なかった。
「なっ、け…怪我したのはオレだ、そんな花達よりオレのキズを心配しろ!」
少女は、オレの存在を気にも止めず、花達を哀しそうに集めている。
その時、遠くでオレの知らない声でオレではない者を呼ぶ声がした。
「レイ様!…レディア様!どちらですか!」
重ねて今度は、聞き慣れた声が駆け寄ってくる。
「ドウジン様!」
「お怪我なさったのですか?!」
「ニーナ、こちらですわ」
少女は立ち上がって答える。
「レイ様…こんな所にいらしたんですか」
別々の主の名を呼びながら、それぞれの従者が慌てて駆け寄ってくる。
少女の従者がオレを見て、慌てて拝礼したが、少女は、キョトンとしている。
少女の従者が耳元で告げる。
「第3皇子のドウジン•エル=セリオン様です。ご挨拶を」
見知らぬ従者が全てを言う前に少女は言った。
「先が思いやられますわね」
そう言い放つと、少女は、オレに拝礼する事もなく背を向けて、オレが切り散らした花々を集め始めた。
「レディア様!」
少女の従者だけが慌てている。
「第3王子のドウジン様でございますよ!」
声を顰めているが、まる聞こえだ。
「だったら尚更、こんな小さな花々でさえ大事に出来ないような王子様なら、この国の民達は、おかわいそうね。」
「何がかわいそうだ!」
「そんなことも、お分かりじゃないんですの?」
「だから、何がだと言っている!答えろ!」
「ドウジン様、こちらは…」
「うるさい!カリム!おまえは黙っていろ!口を挟むな!」
「やっぱりですわ、ご自身の側仕えにさえ、その態度ーー」
少女は、そう言って大きく溜息をつくと、かき集めた花々をオレに無理矢理抱えさせた。
そんな事をしてくる者は、この城には誰もいなかった。
「花にも祈りが宿りますのよ」
そう言って少女は、悲しげに蒼い瞳で見つめてきた。
その吸い込まれそうな蒼い瞳から目が離せず、何も言い返せなかった。
「ドウジン様、陛下がお呼びです。直ぐに謁見の間に来るよう仰せですが、その前に傷の手当てを致しましょう。」
「うるさい!こんな傷、大した事はない!」
「いいえ、いけません。」
応急手当てをしようとカリムが近寄る。
「構うな!行くぞ!」
カリムも慌ててその見知らぬ少女と従者に拝礼し、オレの後をついてくる。
去り際、少女の顔を確認したが此方を見向きもしていなかった。
「クソ!」声にならない声で言い捨てた。
身に覚えのない感情が湧き上がる。
いったい、あの少女は何者なんだ…ドミネン兄上と同じ歳くらいに見えたから15歳くらいか…
オレより5歳年上だからといって、王子であるオレに対して、あの物言い。
本当に苛立たしい。
今度会ったら、問いただしてやる。
だが、その少女はそれ以来、姿を見せる事はなかった。
あの蒼い瞳が、頭から離れない。
なのに、苛立ちばかりが残るのはどうしてなんだ……この心に浮かんだ感情が分からないまま時が過ぎていった。
季節は巡りーー花の季節が終わる頃、ようやく父上から剣術稽古の許可が降りた。
先月の10歳の誕生祝いに父上から長剣を授かった。
但し、かぁ様の短剣は必ず身に着けるよう言われた。
この古めかしい短剣は、かぁ様の守り刀だったと聞いている。
それに何やら紋章らしきものも刻まれている。
何を意味する紋章なのか、その由来をまだ誰も教えてはくれないが、皆が口を揃えて肌身離さず持つよう言っているって事は、何か秘密が隠されているのかも知れない。
今度、カリムに調べさせようか…
「ドウジン様」
「ギル、この…」
言いかけたところをカリムに遮られた。
「ドウジン様、何度も申し上げております通り、その継承名でお呼びになるのはおやめください。その名は、我がフェルド家にとって王に仕える者が受け継ぐ名でございます。」
「うるさい!そんな事は分かっている。でも、おまえはオレのギルなんだから良いじゃなか!」
「いいえ、あなた様は王ではありませんので、それは罷り通りません。いくら、ドウジン様でも、それだけはお譲りできません。更に言わせて頂くと我がフェルド家を軽んじていらっしゃると思わなくてはならなくなります。お解りいただけますか?」
フェルド家――セリオン王国の属国であるナヤールの中でも、古くから王家に仕えてきた名門――それがフェルド家だ
この国は、剣術と医療科学に長け、知と技の両輪で治世を支えてきた背景がある。
その中でもフェルド家は代々、セリオン王家に忠誠を誓い続けてきた家柄で、王に仕えることを正式に認められた者にのみ、“ギル”の名が授けられる――それは誇り高き継承名であり、名誉の証でもある。
オレが幼い頃、ドルトン兄上からそう教わったことがあった。
けれど当時は、ただの堅苦しい決まりごとのようにしか思えなかった。
だが今は少し、わかる気がする。
カリムはフェルド家の三男だ。
本来はこの名を受け継ぐ立場にはないはずなのに、誰よりも誇り高く、自分の役目に真摯に向き合っている。
“ギル”という名を安易に口にしてほしくないというのも、当然のことかもしれない。
……それでも、オレにとってはやっぱり、“ギル”と呼びたくなる存在なんだ。
「わかった、もういい!それより今日から剣術の稽古だろ、早く教えろ!」
カリムは、呆れたように額に手を当て大きく溜息をこぼした。
「ドウジン様…ドウジン様には剣術の前に王子としての品格を…」
「あーもう、うるさい!小言は後で聞く、早く教えろ!」
「畏まりました。では、一切容赦は致しませんので、お覚悟下さい」
「ではまず、ーー構え!」
カリムの低く鋭い声が響いた瞬間、思わず背筋が伸びた。場の空気が一変する。
「違います、ドウジン様。動かすのは腕ではなく、心と軸です」
「力でねじ伏せる剣は、すぐに折れます。余白こそが剣を導くのです」
「立つこともままならぬ者が、剣を交えられるとお思いですか!」
それから数時間…カリムの稽古は本当に容赦が無かった。
「はぁ…はぁ…オレは…剣術を教えろと…言った…はぁ…はぁ…」
「構える事すら出来ないのに、何が剣術ですか、今日は、このくらいにしておきましょう」
「いや、まだだ!まだやれる!」
「ドウジン様、覚えておいてください。剣は心を映し、技に宿り、体に支えられて初めて命を持つのです」
「言われなくても知っている。ずっと……ドルトン兄上の稽古を見てきたんだ」
「構えも、気迫も、全部が真っすぐで強くて……いつか、ああなりたいって、ずっと思ってた」
カリムは静かに頷く。
「王太子殿下は、どんな時も周囲に信を示されるお方です。そのお姿に、兵も民も自然と従ってまいります」
「……うん。わかるよ」
「では、何故ドルトン様のように出来ないのか、理由はお解りですか?」
「うっ…それは… … …」
「ドウジン様、聞こえません。もう一度」
「オレが、まだ未熟だからだ!」
「何が未熟だと、ご自分で思われますか?」
「こころ…」
「お解りならこれ以上は、申し上げません。ただ、どうすれば良いかは、このカリムも一緒に考えますので…」
「いい、自分で考える。ちゃんと考える。だから…」
視界が歪む、だが以前、何があっても決して涙は流すまいと誓ったのだ。
「大丈夫です。カリムは、ドウジン様のお側におります」
オレはコクリと頷く事しか出来なかった。
ふと視線を落として、オレは続けた。
「ドミネン兄上のこたも大好きなんだ……オレには怒らないし、本が好きで、幼い頃、かぁ様が、居なかった分、ドミネン兄上が良く本を読み聞かせてくれたんだ。最近、お身体の調子が良くない事が増えて、あまり会えないんだ…」
すると、カリムは言葉を選ぶように、丁寧に言葉を紡ぐ。
「ドミネン様は、争いよりも和を重んじるお方。剣を交えるよりも、戦を避ける術を知ろうとされる。戦術、あるいは対話や理知の道にこそ、真の才をお持ちです」
「……兄上らしいね、それ」
その時、笑みを溢しながらカリムの兄、ルーベス•フェルドが近づいて来た。
「ドウジン様、ドミネン様からです」
ルーベスは、そう言って小さなメモを手渡してきた。
「え?兄上から?」
『親愛なるドウジンへ
早速、剣術の稽古を始めたんだね
窓から少し見ていたよ。
カリムは、容赦ないだろ
今日は、とても体調が良いから
後で、部屋においで
久しぶりに面白い本を読んであげるよ
今日、がんばったご褒美だ
待ってる
ドミネン』
「あ、兄上は、オレをいつまで幼子のように扱うんだ、ホントに」
そう言いながらも、内心ではとても嬉しかったのだ、ドミネン兄上は、いつもオレの事を気にかけてくれる。
「なんだ、おまえ達、人の顔を見てニヤニヤしやがって!」
「いえ、何も申しておりません」
ルーベスが肩を震わせながら答える。
「はい。何も…」
「カリム!何がおかしい!笑うな!」
「ドウジン様、剣術稽古が終わっても、心の精進を忘れてはいけません」
「うるさい、兄弟揃ってオレを笑いやがって」
「ドウジン様、お言葉が乱れておりますよ」
「うるさい、ルーベス、おまえは早くドミネン兄様の所へ戻れ」
「承知致しました。では、ドミネン様には夕食後、ドウジン様がお見えになるとお伝えしておきますね」
「オレは行くとは言ってない!」
「おや、ではいらっしゃらないのですか?それは、ドミネン様がお可哀想…」
「わかったわかった!行くと伝えてくれ」
「畏まりました。では、わたくしは先に下がらせて頂きます。カリム、頼んだよ」
「はい、兄上。後ほどドウジン様をお連れします」
去り際のルーベスの目がどことなく、まだ笑っているように見えた。
「ホント、おまえ達は…いつまでも笑ってるな、カリム」
「失礼致しました。でも笑っていたのではありません。微笑ましく思っていただけですよ」
「ものは言いようだな、もう暗くなってきた、汗を流しに行くぞ」
「はい、仰せのままに、ドウジン殿下」
何故か、カリムの物言いが小馬鹿にされているような気分になった。
せっかく初めての剣術稽古で高揚していたのに、台無しだ…
「ドウジン様、明日は…」
「あぁ、わかっている。準備を頼む」
「畏まりました」
先程とは打って変わって、静かな時間が訪れる。
明日は、亡き妃、つまりオレの母のリュミナ•アマセリウスの命日である。
夕焼けに映し出された影が伸びる。
母の思い出はオレには何もない。
オレを産み、亡くなるまでの数週間何度か母の胸に抱かれたらしいが、当然記憶は無い。
兄弟の中でドミネン兄上が、母の面影を色濃く残しているらしいが、それさえもオレには知り得ないことだ。
オレが10歳という事は、母が亡くなってからも10年という事だ。
誰もオレを口に出して責めるわけでは無いが、使用人が多いこの城では、嫌でも色んな陰口が耳に入ってくる。
母が、生きていたなら、自分はもう少し他人に対し、優しくなれたのだろうか…
ふと、そう思う事がある。
「ドウジン様…」
「なんでもないよ……夕飯を食べたら、兄上のところへ行こう」
「そうですね」
カリムは、珍しく、あえて畏まらず返してきた。
きっと彼なりにオレが孤独感を味合わないように気を使っているのだろう
夕暮れが迫る庭には、もうすぐ花の季節が終わる気配がした。
けれどその静けさの中で――何かが、目には見えぬかすかな気配を
それが何かを変えてゆく兆しであると気づくには、まだ幼いオレには早すぎた。
第二部― 第1章、閉じ。