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第二部【過去編 第2章:夜の再訪】

──記録の断片より/月暦の空白に綴られし記述。


 時は巡れど、時は癒さず。

 再び交差するはずのなかった、記憶の残像。

 空白を抱えた二つの魂が、静けさの夜にふたたび擦れ合う。

 その再会が、やがて世界の形すら変えてゆくことなど、この時の少年はまだ知る由もなかった。


 ━━✦━━


 夜更け、自室で書物を読んでいたドウジンは、ふと顔を上げた。

(ん? なんか廊下が騒がしいな…)

 その気配が、自分の部屋の前で止まったのを感じて、彼は警戒して立ち上がる。


 カタッ!

「誰だ!誰か居るのか!」

 ドアに駆け寄ろうとした彼の背後から、か細い震えた手で、ふわりと口を塞がれた。


「シっ!お願い少しだけ人を呼ばないで」

 花の香りが、ふわりと鼻をかすめる。侵入者は、歳若い女の声だとすぐに分かったので、害はないだろうと黙って頷き、そっと振り返る。

 すると、そこには5年前に庭で会った、あの少女が怯えた瞳で立っていた。


「オマエは…」


 その時、ドアがノックされた。

 コンコンコン!

「ドウジン様、お休みのところ失礼いたします」

 少女が潤んだ瞳で、懇願するようにこちらを見ている。

 俺はベッドの方向を指差し、あちらに隠れるよう少女を促した。

 慌てて隠れる少女を確認してからそっとドアを開けた。


「どうしたカリム、騒がしいぞ」


「申し訳ございません。お客様のお嬢様が、お一人いらっしゃらないと、お連れの方から連絡がありまして、屋敷中探しているのですが見当たらず、念のためをと思い、殿下にもお伝えに参りました。」


「知らん!誰も居ないぞ、明日は兄上達と早朝から狩りに出るんでもう休んでいたんだ」

 いつになく饒舌になっている自分に、カリムの片眉が少し跳ねたのを、ドウジンは見逃さなかった。


「はい。お起こしして申し訳ございません」

 カリムの声が、わざとらしく少し大きくなる。

「もし、お見かけされましたらお連れ様が大層ご心配されている、とお伝えください」


「分かった!見かけたら伝える!もう休ませてくれ!」


「では、失礼いたします。おやすみなさいませ殿下」


「あぁ、おやすみ、カリム」


 ドアを閉め、しばらく廊下の様子を伺い、人気がなくなってからベッドの方へ近づいた。

「もう大丈夫だ」

 俺はそっと手を差し出し、少女が手を添え立ち上がるのを待った。


 少女が立ち上がると、5年前、俺を見下ろしていた瞳が、今は同じ高さにあった。あの時の、吸い込まれそうな澄んだ蒼い瞳が、そこにある。

 一瞬、時が止まったように、二人は見つめ合った。


 少女はありがとうと礼を言った。

「何があったか知らんが、恐らくカリムにはバレていた。早く部屋に戻った方がいいーー送っていこう…」


「ごめんなさい。初めて会っていきなりこんな迷惑をかけてしまって…」


(……俺のことは覚えていないようだ…)

「……構わない…」

 俺は、何も言わず少女の手を引いた。少女の指は、驚くほど冷たかった。


 僅かな庭の照明だけが少女の不安げな表情を写し出していた。

 別棟の客間近くまで送り、そっと手を離そうとした時、また、ほんの数秒見つめ合った。少女はもう一度“ありがとう”と瞳で言った。月明かりに照らされたその時の瞳は、一層蒼く、輝いて見えた。


 俺は黙って頷き、身を隠して彼女が部屋に入るまで見送った。

「あれなら、もう大丈夫だろう」


 少女が離れていく時、夜風と共に花の香りがした。

 それは、庭に咲く花なのか、少女の残り香なのか、どちらだったのだろう。

 俺は、一度だけ客間の方を振り返り自室に向かって歩き出した。


「カリム、居るんだろ、戻るぞ」

「はい。殿下」

 やはり、カリムにはバレていたようだ。


 そういえば、今度会ったら問いただしてやろうと思っていた、かつての自分の幼心を思い出し、ドウジンは小さく失笑した。

「いかがなさいましたか?ドウジン様」


「いや、ただの思い出し笑いだ」


「お珍しい。何かいいことでもありましたか?」


「うるさい、戻るぞ」


「承知いたしました。明日の狩、楽しみでございますね」


「ああ…」

 そう言いながら、自分の返事がどこか上の空なのを、ドウジンは自覚していた。カリムも何も言ってこなかったので、ただ、月明かりの影を追うように歩みを進めた。

 その夜、ドウジンはなかなか寝付けず、月明かりに照らされた天井を眺めながら、あの蒼い瞳と、花の香りを、何度も思い出していた。


 ━━✦━━


 翌朝。

「カリム!カリム!」

「はっ、ドウジン様、こちらにおります」

「馬の用意は出来たぞ、出発しよう」


「お待ちください、ドウジン様、本日はアクタス家の姫君達も同行されるとのこと、ご用意が整うまで待つよう、ドルトン様から仰せつかっております。」


「なんだと、女達も一緒に行くのか!」

「ドウジン様、“姫君方”です。」

「姫は女だろ、何も間違ったことは言っていない」

「ドウジン様。再三、わたくしは申し上げておりますが」

「うるさい、うるさい!今日は小言は無しだ。カリム、せっかくの楽しい狩が台無しになってしまう」

「ーーはぁ、ではわたくしが小言を言わなくて済む様、お気をつけください」

「分かっている。客人の前ではちゃんとする」

 カリムの表情は全く信用していない様子だった。


「もう待てない、これ以上、陽が高くなれば大物が狙えなくなってしまう。俺は先にいく。おまえは、後から“姫君達”と来い!」

「いけません、ドウジン様、お一人で行動されては、わたくしも参ります。ドウジン様!…行ってしまわれた・・・」


 カリムは、いつになくはしゃいでいる主の背中を、ため息混じりに追いかけようとした時、背後から声が掛かった。

「すまないな、カリム、ドウジンが世話をかける。」

 ドルトンが馬上から、その様子を見て声をかけた。


「これは、ドルトン様、とんでもない事でございます。至らないのはわたくしの方でございます。すぐに追いかけますので、ここで失礼させていただきます」

「ん、頼んだ」


「ドルトン様、我が弟が何か?」

 すぐそばにいたレノヴァンが、弟の失態を案じるように、静かに声をかけた。


「いや、カリムにも苦労をかけているなと思っただけだ。――姫達の準備は整ったか?」

「はっ、出立できます」


「では、参ろう」


 朝日が森の木々を黄金色に染め上げる。この時間帯が一番、水場へ向かう大物が出歩きやすいんだ。

(今日こそ、俺が一番大きい獲物を仕留めて兄上を驚かせる。ドミネン兄上への土産話しにもなる)


 その時、木々の向こうに巨大な影が動いた。

(ん?あれは…片目の無い大鹿だ!)

 やったぞ!滅多にお目にかかれない大物に一発目から出くわすなんて、俺はついてる!


「ドウジン様」

 追いついてきたカリムが、小声で近づいてくる。

(シッ!止まれ、そこで待機していろ)

 俺は、指と視線で合図を送る。


 そっと弓を構える。心臓の音が、やけに大きく聞こえた。

 めいっぱいに引きつけて――シュッ!一矢を放つ。

 しかし、大鹿が気配を察して振り返ったため、矢は顎先を掠めただけで逸れてしまった。


(くそっ、浅かったか!)

 よし、次の矢だ、と構えようとした時、カリムが叫んだ。

「ドウジン様いけません!こちらへ!」


 カリムの声かけが一歩遅かった。怒り狂った大鹿が、地面を蹴って俺目掛けて迫ってくる。

「ドウジン様!」

 叫びながら、カリムが向かってくる大鹿へ威嚇の矢を放つ。しかし大鹿は構わず、一直線に突進してくる。


 その時、シュタッ!と鋭い音を立てて、別の矢が俺の頬を掠め、大鹿の急所に深々と突き刺さった。


 俺は、バランスを崩したまましがみついていた手綱を、強く引いてしまった。馬が驚き、いななきながら前足を高く上げる。為す術もなく、俺の体は宙に投げ出された。


「ドウジン!」「ドウジン様」

 四方から、幾人もの声が同時にかかる。

 薄れゆく意識の中、最後に見たのは、駆け寄ってくるカリムの、焦りを浮かべた顔だった。

 遠くで自分を呼ぶ声が、いつまでも頭の中で谺した。


 ━━✦━━


 翌朝、目が覚めると自分のベッドに横たわっていた。

「俺は…いったい…」

 その時、カリムが変えの夜着を持って入ってきた。


「ドウジン様!お気がつかれましたか!良かった…、すぐに医官を呼んで参ります」

 まだ自分でも意識がぼーっとしていることがわかった。


 その後の、医師の診察でも異常はなく、一時的な脳しんとうだろうということだった。

 カリムは「もっとちゃんと調べろ」と医師に噛みついていたが、俺には他人事だった。


「カリム、もうよせ。俺は大丈夫だ…。それより大鹿は?誰か仕留めたんだ?」

「はい…」

「兄上か…」

「はい。しかし、あそこでドルトン様の矢が間に合っていなければーー」

「もういい、わかった。もう少し寝る。おまえも下がれ」

 カリムは、何も言わず黙礼だけして部屋を出ていった。


(くそっ、みっともないところを見せてしまった)

 俺は必死で熱いものが込み上げてくるのを耐えた。

(あの少女は、俺の無様な姿を見ていただろうか…)

 薬のせいか、現実と夢との境目にいるような錯覚を覚えながら、俺は無理やり眠りについた。


 しばらくして目が覚めるとドルトン兄上がベッドサイドに座っていた。

「頬の傷は大丈夫か?」

「大丈夫です。かすり傷です。問題ありません」


「そうか。なら良い」

 優しくて大きな手で頭を撫でられた。

「兄上、もう子どもではありません、やめてください」


「ははっ、ついついな…許せ、ドウジン」

「いえ…ーー父上は何か仰ってましたか?」

「いや、何も」

「そうですか…」

「案ずるな、ドウジン。父上はおまえの事もちゃんと見守ってくださっている。ただ…」

「兄上、大丈夫です。そのことも、別に気にしていません」


「ドウジン…」

 兄は何かを言いかけたが口をつぐみ、もう一度俺の頭の上に手を置くと部屋を後にした。


 そのすぐ後、見計らったように、レノヴァンが入ってきた。

「ドウジン様、失礼致します。」

「国王陛下と王太子殿下より、次回の晩餐会には、ドウジン様もご出席されるよう、お伝えするようにと承ってまいりました。」


(兄上は何故さっき言わなかったんだ?)


「それと、カリムですが今回のドウジン様のお怪我の件につき、責任の所在を問われーー2週間の謹慎となりました。ですので、その間わたくしが、お側に就かせていただきます」


「何?!謹慎?」

「はい」

「なぜだ!カリムは何も悪く無いではないか!悪いのは俺だ!俺がカリムが言うのも聞かず勝手に」

「ドウジン様!」

 レノヴァンの一喝に、ドウジンは言葉を失った。


「わたくしども、フェルド家の者にとって、お側でお仕えする王家の方々には、絶対に、何があっても、命を張ってでも、お守りするという長年の信頼がございます。今回、カリムはその職務怠慢で謹慎となりました」


「そんな…俺のせいで…」


 少しの沈黙の後、レノヴァンが続けた。

「ドウジン様、少しでも我が弟、カリムを思う気持ちを頂けるなら、今後、今回のような無茶は、お控えください。今回は、ドルトン様の証言もあり、温情を賜り謹慎となりましたが、今後、同じようなことがあれば、カリムの首が飛ぶと、ご承知おきください」


「……」

 圧倒されたのと、急に恐怖が襲い、何も言い返せなかった。


「それと」


(まだ続くのか…)

「聞いていらっしゃいますか!」

「聞いている!」


「コホンっ、ドウジン様も来年は16歳におなりです。即ち、ご成人されるという事です」


「うん…あ、はい。」

(いちいち睨まないと話せないのか?)


「お分かりでしたら、そろそろご自分の事も“俺”と仰るのはおやめください。王家の品位が下がります」


「今後は、大人の仲間入りとしてご自分のことも“私”と仰いますよう、いいですね」


「う、はい。」


「はい。ではいけません。“わかった”と仰りませ。下の者に、へり下る必要はありません」


「わかった」


「では、明朝より5時起床、朝食の前に剣術稽古を行います。」

「え===!」

 レノヴァンが鋭く視線で諌めてくる。

「わかった…」


「では、本日はこの辺で失礼致します」

 そういってさっさと部屋を後にしていった。


「はぁっぁあああ!」

 一気に精神的にやられた気がした。怪我の方がマシだと思った。


「俺、前々からレノヴァン苦手なんだよな…フェルド家の長男怖ぇよ。もし、父上に何かあって兄上が王位を継いだら、あのレノヴァンが、次のギルってことか…なんか変な制度だな…俺には関係ないけど」


 ふと窓から月が臨めるのが見えた。思わずカリムが恋しくなった。

「カリム…おまえの小言が可愛く思えるよ、出てきたらちゃんと言うこと聞いてやろう」

 明日からは、しごかれそうだし、もう寝よう。

 ベッドに横になり、窓へ目線をやると今日の月は、一層大きく感じられた。長い1日だった。


 ━━✦━━


 数ヶ月が経った頃、初めて正式に、兄から彼女を紹介された。

「ドウジン良く来てくれた。紹介するよ、彼女が私の妃になる姫、レディア•アクタスだ」

「レディア、これが末の弟のドウジンだ」


「初めましてドウジン様」


(初めましてだと?良く言う…)


「レディアと申します。仲良くしてくださいね」

 穢れを知らない笑顔で少女は、そう言った。


 数秒、少女の吸い込まれそうな蒼い瞳に見惚れ、時が止まった。


「ドウジン?ははは…美しいだろレディアは」

「いえ、いや、はい」

 慌てて妙な返答になってしまった。顔が火照っているのが自分でもわかった。


 少女がクスリと笑っている。

「もうお怪我は宜しいのですか?」

 やはり、あの狩の時、見ていたのだ。誰かに対して「恥ずかしい」と思ったのは、この時が初めてだった。


「今夜、両家揃って食事をする。お前も楽しみにしていてくれ」

「はい、兄上――それでは一度失礼致します」

 壇上の二人に拝礼し素早く振り向きドアへと歩き出した。

 自分の鼓動が早るのがわかった。なんだコレは!


 両家の顔合わせの食事会では、終始和やかに過ぎていったが、俺はとても退屈だったし、苛立っていた。

 談笑が続いていたが早々に退席を願い出て一人庭へ下りた。

 気がつくと初めて少女と出逢った場所に佇んでいた。


(何故だ、なぜこんなに苛立つんだ。兄上の幸せを、喜ぶべきなのに。彼女が兄上の隣で微笑む姿が、なぜか、ひどく、胸を締め付ける……)


 この頃の私は、それが恋だとは気づいておらず、言葉にできない感情の嵐に、ただ戸惑っていた。

 ただ…あの澄んだ蒼い瞳ともう一度、見つめ合ってみたい。

 兄上への、罪悪感と共に――。




 第二部― 第2章、閉じ。


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