「王太子殿下、このごろは、わたくしが来てもドウジン様は全然お顔を見せては下さらなくなりましたわね。もうおひとりの弟王子のドミネン様は体調が優れていれば、必ずご挨拶に来てくださいますのに…」
レディアは、ドルトンと中庭を散策しながら、少しだけ寂しそうに言った。
「ん?あぁ、アレは最近温室に篭って何やらしているらしい」
「まぁ!こちらのお屋敷に温室がありますの?!」
「いや、此処にはない。西の森を抜けた先に湖があるのだが、そのほとりに母のお気に入りだった温室があるのですよ」
「まぁ!まぁ!きっと素敵なんでしょうね!」
「今ではアレと側近のカリムくらいしか出入りしていないと聞いています」
「どんな所かわたくしも行ってみたいですわ」
「それが、どうやら誰も近づくなとアレが言っているようなんだ、申し訳ない」
「どうされたのでしょう、何か抱えてらっしゃる事でもおありなのでしょうか」
「それは、わからないが…アレは母の記憶がほとんど無い分、あの場所で母を感じているのかもしれないとわたしは思っているのです。なに、心配することはありません。アレももう子どもではないのだから」
その時、近侍がドルトンを呼びに来た。
「王太子殿下、陛下が急ぎお呼びです」
「わかった、直ぐに行く。レディア姫、申し訳ない、いつも呼びつけておいてあまり時間が取れなくて」
「いいえ、お気になさらないでください。王太子様は陛下の右腕としてお忙しいことは重々承知しております。それよりお身体をお厭いください…」
「ありがとう。君と過ごせる僅かな時間がわたしの原動力となっている…」
そう言って王太子は、わたくしの髪を一房手に取り、口づけをされ足速に去って行った。
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その光景を、ドミネンは自室の窓から、静かに見つめていた。
兄ドルトンと、その隣で花のように微笑む少女、レディア。
(……微笑ましい光景だ)
素直に、そう思う。太陽の下を、迷いなく歩けるあの眩しさが、兄にはよく似合っていた。
だが、同時に、胸の奥がちくりと痛む。兄上が羨ましい。隣に立つことを許された、あの健やかさが。
それに比べて、自分はなんだ。どうも近頃、体調が優れぬせいか、思考に靄がかかったようだ。時折、自分のものとは思えぬ、冷たい感情が心をよぎる。
手を伸ばすことすら、許されない。
ドミネンは、兄の背中が見えなくなると、そっと窓のカーテンを引き、部屋の薄闇へと身を戻した。まるで、光から逃れるように。
━━✦━━
一人残されたわたくしは、今しがたの会話を、胸の中でもう一度反芻していた。
(西の森の、温室……)
ドルトン様は「心配ない」と仰っていたけれど、あの少年の、どこか苛立ちと寂しさをないまぜにしたような瞳が、脳裏に焼き付いて離れなかった。
「ニーナ」
「はい、レイ様」
「わたくし、先ほど仰ってた、温室に行ってみますわ」
「レディア様、お待ちください。先ほどドウジン様が誰も近付くなと言っておられると王太子殿下は仰っていたではありませんか」
「大丈夫ですわ、わたくしなら。ドウジン様は、お優しい方ですもの」
そう、わたくしには、そんな不思議な確信があった。
「姫様!お待ちください!」
追いかけるニーナを他所(よそ)に、わたくしは馬車を準備してもらい、早速、西の湖のほとりにあるという温室へ向かった。
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湖を迂回し、西の森までは馬車でも幾許かの時間がかかった。
湖のほとり、一層木々が生い茂る場所に、その温室は、まるで忘れられた記憶のようにひっそりと佇んでいた。
(なんて寂しいところなのかしら…)
そう思いながら、一歩、温室に足を踏み入れると、そこは、噎せ返るほどの花の香りで満たされていた。
外の寂寞(せきばく)とした空気とは裏腹に、中は生命の喜びに満ち溢れている。暖かく、湿った空気がやさしく肌を撫でた。名前も知らない花が、まるで生命を謳歌するように、色とりどりに咲き誇っていた。一見、雑然と花で埋もれているようだが、その実、一本一本が慈しむように、手入れが行き届いているのがわかった。
小道を抜けた先に、そこだけ他とは違う空間があった。
一段と白き花々に埋もれるように、中心に女神の像が立っていた。
白く、滑らかな質感の像は、穏やかな微笑みをたたえ、わずかに伏し目がちに佇んでいた。その表情は、慈愛に満ち、何かを静かに祈り続けているようでもあり、同時に、深い哀しみを湛えているようでもあった。
「なんて美しい女神様なの…」
思わず、そう声が漏れた。
「それは、母上だ」
突然背後で声がして、心臓が跳ねた。振り返ると、少し怒りがこもった瞳で、彼が立っていた。
最後に会った時よりも、少しだけ背が伸び、少年から青年へと移ろうとする、危ういバランスの上に彼はいた。
「どうして此処にいるのですか。此処には誰も近づかないよう、言ってあったはずなんですが…」
その声には、拒絶と、ほんの少しの戸惑いが混じっているように聞こえた。自分の聖域に、踏み込まれたことへの苛立ち。
「ここはまるでお花の香水の館ですわね」
わたくしは、わざと話を逸らして微笑んでみせた。彼の怒りを、この花の香りで、少しでも和らげられたら、と。
「はぁ… アナタはいつも話が通じないな…」
彼が、呆れたように、でもどこか諦めたように、小さなため息をついた。
「え?」
「いや、いい、なんでもない」
「こちらのお花達はドウジン様がお手入れをなさっているのですか?」
「あぁ、オ… 私ひとりではありませんが」
彼が、自分のことを「私」と言い直したことに、わたくしは気づいていた。王族としての、彼の小さな成長。
「とても素敵ですわね」
「ありがとう…」
目も合わさずポツリと言った彼の耳が、少しだけ赤く染まっていた。
(お恥ずかしいお年頃かしら…)
その初々しい反応が、とても微笑ましかった。彼の纏う、刺々しい空気が、ほんの少しだけ、和らいだ気がした。
「お母様…素敵な方だったんですね。本当に女神様だと思いましたもの」
「これは、父…陛下が、母上が亡くなった時に作らせたもので、当時は大層悲しまれてこれを作らせたそうですが、今では父上も他の誰も此処には来なくなってしまった。だから…」
彼は、そのまま黙ってしまった。その横顔に、彼がずっと抱えてきたであろう、深い孤独の影が落ちる。
ドルトン様が言っていた。「母の記憶がほとんど無い分、あの場所で母を感じているのかもしれない」その言葉の意味が、今、痛いほどにわかった。
「きっと国王陛下や他の王子様方は、思い出して余計に悲しくなってしまわれるのかも知れませんね…」
わたくしがそう言うと、彼は何も言わなかった。
ただ、その沈黙が、肯定よりも雄弁に、彼の心を物語っているようだった。
「レイ様、そろそろ…」
物陰から、心配そうにニーナの声がする。
「あぁ、そうね…ドウジン様、わたくしとてもここが好きですわ、また来てもよろしいですか?」
気づけば、自然とそんな言葉が出ていた。
「兄上がいいと仰るなら、かまわない」
やはり、彼はなかなかこちらを見てくれない。その素っ気ない返事に、少しだけ胸がちくりと痛んだ。
「ふふっ、ありがとうございます。それでは今日は、これで失礼致しますね」
「もう暗くなってきています。屋敷までお送りします。」
やっと、彼がこちらを向いてくれた。その瞳には、先ほどの怒りではなく、不器用な優しさが滲んでいた。
「やっとこちらを見てくださったわね、ふふっ」
わたくしがそう言うと、彼はパッとまた目を逸らしてしまう。
「ありがとうございます。でも大丈夫ですわ、今日は、このまま一度国へ帰ることになっていて迎えが来ていますの」
「えっ!」
彼は、明らかに動揺した顔で、もう一度こちらを見た。その瞳が、行かないでくれと、そう言っているような気がして、わたくしの心臓も、とくん、と小さく跳ねた。
「暫くは、来れませんが…」
そう言いながら、自分でも驚くほど、離れがたく寂しい気持ちになっていることに、わたくしは気づいていた。
「レディア様…」
ニーナが再び声をかける。
「えぇ、わかったわ。名残惜しいけど…ではドウジン様、お邪魔致しました」
入ってきた方へ歩き出すと、彼が無言でついてきた。表まで見送ってくれるつもりらしい。
温室を出たところで振り返ると、「お気をつけて」と、今度はしっかり目を見て言ってくれた。
「ありがとうございます。」
彼は、わたくしたちの姿が見えなくなるまで、ずっとそこに佇んでいた。
(まだドウジン様が幼かった頃、私は彼に会っている…あの、花を切り散らしていた少年が、あんなにお花を大事にするようになっていたなんて…)
その変化が、わたくしの心の奥に、ほんの小さく、温かいものを灯した。
もう一度、小窓から温室の方を見ると、夕暮れの光の中に、彼の人影がまだそこにあった。
その姿が、なぜか、ひどく、愛おしいものに思えた。
馬車に揺られながら、ふと隣に座るニーナを見ると、彼女は窓の外を眺めながら、そっと涙を拭っていた。
(……ニーナ?)
彼女がなぜ涙しているのか、わたくしにはわからなかった。けれど、その涙が、ただの悲しみから来るものではないことだけは、なぜか、感じ取ることができた。
わたくしは何も言わず、ただ静かに、彼女の肩にそっと寄り添った。
やがて、ニーナがいたたまれなさそうにこちらを見る。
「どうしたの?ニーナ」
「レイ様、今回もアルシアに戻るためには馬車で3日はかかります」
「ニーナ、その幼名で呼ぶのは、もうあなただけよ。ふふっ」
「レ…レディア様…そんなことより、途中のセリオン国の城砦で宿泊させてもらうことになっておりますが、今回、セリオンからは護衛の方が同行頂いておりません。これは、一体どうゆうことなんでしょうか…ニーナは、レイ様の今後が心配でなりません。」
その声は、いつになく切実だった。ニーナは、ただの侍女ではない。かつて、若き日のリュミナ妃がセリオンへ嫁がれた際、ほんの短い間ではあったが、新人侍女としてお仕えした過去があった。だからこそ、彼女は知っている。このセリオンという国の、光と、そして深い影を。
「ニーナ、大丈夫よ」
「またそんな…またレイ様の“予知夢”でございますか?ですが、リュミナ様も、そう仰って…」
言いかけて、ニーナははっと口をつぐんだ。
「……リュミナ様のことを、何か知っているの?」
わたくしが静かに問うと、ニーナはゆっくりと首を横に振った。
「いいえ、わたくしのような者には、何も…。ただ、あの方も、あなた様のように、全てをその身に背負っておられるように、お見受けしておりました。だから、心配なのです」
わたくしは、ニーナの手に、そっと自分の手を重ねた。
「ありがとう、ニーナ。でも、本当に大丈夫。今回の帰国に関しては、何も見ていないもの」
ニーナの言う通り、私の見る夢は、時折“予知夢”となる。そして今回は、不穏な気配は何一つ感じていなかった。
(それに……)
ふと、数年前、ドウジン様のお部屋に忍び込んで対面した時の、彼の戸惑った顔を思い出す。
(きっと、驚かれていたんでしょうね。5年前に出会った少女が、変わらずの姿で目の前にいたことが…)
わたくしが、常人より遥かに遅く成長する「伝説の巫女」であること。彼がそれを知るのは、もう少し先のことになる。
セリオンへ嫁ぐまでは、まだ1年以上ある。それまでは、巫女として果たさなければならない祭祀がいくつもあって、明日からまたしばらくは、巫女としての日々が始まるのだ。
わたくしは、静かに目を閉じ、遠いセリオンの地にいる、あの少し気難しくて、でも優しい少年のことを、そっと心に思い浮かべていた。
第二部― 第3章、閉じ。