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第二部【過去編 第4章:魂の揺らぎ】

 静かに、朝露が石畳を濡らしていた。

 神殿の高窓から射す光は、まだ微かに白く、夜の冷気を払うように、清浄な空気を満たしている。一陣の風が、祭壇に焚かれた香の煙を、祈りの軌跡のように棚引かせていった。


 わたくしは、この神殿の“祈りの継ぎ手”である姉ギリアの前に、ゆっくりと膝をついた。

 荘厳な空気の中、姉上の凛とした祈りの言葉が、神殿の隅々にまで響き渡る。


「……星よ、魂よ、まだ名を持たぬ者たちよ……」

 姉上が、わたくしの頭上に手を翳かざし、告げる。


「“伝説の巫女”レディアよ、祈りなさい。この世の理ことわりを見定め、行末の人々の担い手となるよう…祈り、導き、共に歩むのです」

 その声は、水面を渡る風のように、静かで、けれど揺るぎない。


「アルフェアノと共に…」


“Ἀστέρας ἐνώνει ψυχάς.”

(アステーラス エノネイ プシュカース)

 ――星は、魂を繋ぐ。


 わたくしは、姉上の言葉を受け、復唱する。胸に刻むように…

 その言葉を口にするたび、魂の深い場所が、微かに共鳴するのを感じた。


“Ἐγήγερται ἡ ὥρα.”

(エゲーゲルタイ エー ホーラ)

 ――目覚めの時来たり。


“Ὄναρ ὄνομα καλεῖ, σκιὰ κινεῖται.”

(オナル オノマ カレイ スキアー キネイタイ)

 ──夢は名を呼び、祈りの影が動く。


 姉上に続いて復唱するたび、わたくしは、より深い祈りへと導かれていく。

 外界の気配が遠のき、ただ、姉上とわたくしの間で交わされる言の葉の振動だけが、世界の全てとなる。わたくしの魂が、まるで古の言葉を記憶する器のように、その神聖な響きで満たされていくのを感じた。


 漂う香の煙が一筋、導かれるように天窓へと昇る。

 姉上が、わたくしの肩に祈りの紋章が刻まれた杖をあてる。

 その瞬間、施された星の雫が、まるで夜空に溶けてゆく灯火のように、淡く温かな光を放った。


 わたくしは、より深い祈りへと導かれる…


 古来より、アルシア国には、数々の星にまつわる逸話が伝承されている。

 その中でも、姉様が持つ祈りの杖に施されている、”星の雫”と呼ばれているものもそのひとつで、伝承によれば、この神殿を築いた際、地中から見つかったとされているもので、星のような光を放っていたという。


 アクタス家の祖先にはその後、夢見の巫女であったり、伝説の巫女を排出する一族になったと言い伝えられている。よって代々、神殿の祈りの繋ぎ手としての役割を担ってきたらしい。


 そういえば、ドウジン様が持ってらした短剣の紋章が、これに似ていた気がするんだけど…


 厳粛な祈りの最中さなかであっても、何故がわたくしは気になる事があると、そちらに意識が向いてしまう為、姉ねぇ様に叱られてしまうことが多いのです。


 今日もきっとお叱りを受けてしまいそうね。


 そういえば、妹のミアリも最近夢見が悪いって言ってたわね…後で確認しておかなくては…


 いけない、また別のことを考えてしまったわ。

 集中…集中…


 姉上の声が、波のように意識を洗い清めていく。散らばっていた思考は、やがて一本の祈りの糸となり、天へと昇っていくようだった。香の匂いが感覚を研ぎ澄ませ、現実の神殿と、魂の内にある神殿との境界が、ゆっくりと溶け合っていく。どれほどの時が経っただろうか。遠くで、夜明けを告げる鳥の声が聞こえた気がした。


 日の出とともに厳粛な儀式は終わる。

「ニーナ、レディアは?」

「ギリア様、それが、ミアリ様にご用がおありとかで、早々に戻られまして…」


「逃げたわね…」

「と、言いますと…」

「あの子、また儀式の間、集中していなかったのよ。ホントに、伝説の巫女の自覚をもう少し持ってもらわないと」

「申し訳ございません」

「ニーナが謝ることではないわ、それに庇い立ては無用よ。後で私のところへ来るよう伝えてちょうだい」

「かしこまりました」


 太陽が昇るにつれ、澄んだ空気とともに朝日の柔らかい日差しがセリオンとの国境の山脈の間から扇状に広がる。

 わたくしは、アルシアを一望できる、この神殿の星見台からの眺めをこよなく愛しいと感じる。


“伝説の巫女”と呼ばれるわたくしは、恐らくこのアルシアの中で誰よりも長く行く末を見守ることになるだろう…

 ――元来、アルシアの民は、近隣の国々の民より、時の流れが緩やかだ。わたくしに至っては、巫女の中でも数百年ぶりに生まれたという“先祖返り”。他国の人の五年が、わたくしの一年にしかならない。それ故に“伝説の巫女”と呼ばれ、最も長命であるわたくしが、やがてセリオン王家に嫁ぐことは、古よりの定め…


(そのまま、わたくしの命が尽きるまで、世界の安寧を思い、祈り続けることができればいいのだけれど…)


「ねぇさま!レディアねぇさま!」

 背後から、小さな足音が駆けてくる。


「ミアリ!どうしたの!こんなに朝早く、こんなところまで!しかもそんな薄着で!」

「あのね、お星様がね、お話ししてるの!」

「ミアリ、落ち着いて、お星様がどうしたの?」

「わかんないの、でも…怖かったの…」

「また何か夢を見たの?」

 ミアリはわたくしにしがみつきながらコクリと頷く。


「まぁ、こんなに身体が冷えてしまって…また熱が出るわよ」

「コンっ、コンっ」

「ほら、咳も出てるじゃない、すぐにお部屋に戻りましょうね」


 妹のミアリは、幼くして“夢見”の兆候が見られていた。

 時折、怖い夢や、気候の荒れる前など、決まって熱を出す。

 まだ、本人が幼い為、正確に夢の話が伝えられない。もしくは、はっきりとそれが“夢見”であると自覚がないようだ。


 わたくしでさえ、10歳までは普通に成長していた。

 しかし、ミアリは成長が緩やかになるのが通常より早くから現れているようだった。

 産まれて8年も経つのに彼女は、未だ5〜6歳児のような成長度合いだった。


「ねぇ様、一緒にお部屋まで来てくれる?」

「もちろんよ、せっかくのこの時間ですし、お庭を通ってお部屋に戻りましょ。きっと朝露を浴びてお花たちがとってもキラキラしているわよ」


 そう話すわたくしの顔を見上げながらミアリの瞳は嬉しそうに輝いていた。

 この幼子の妹の行く末もどうか幸多きものとなるよう、祈らずにはいられなかった。


 ミアリの部屋まで戻り、もう少しベッドに入るよう言い聞かせ、添い寝していると、祭祀のため、眠っていなかったわたくしもいつの間にか眠りに着いてしまった…



━━✦━━



 その頃、セリオンでは――

 王宮の一室が、息の詰まるような静寂と、薬草の匂いに満たされていた。

 第二王子、ドミネンの高熱が、もう三日三晩、ナヤールに伝わるあらゆる医術を試しても、一向に引く気配を見せなかった。


 蝋燭の炎が、まるで彼の命の灯火のように、頼りなく揺れている。

 ベッドの傍らに立つ側近ルーベスの顔を、その光が青白く照らし出していた。


「……なぜだ。なぜ、原因すらわからんのだ!」

 絞り出すような声が、部屋の隅で薬を煎じている医師長へと突き刺さる。


「申し訳、ございません……。あらゆる手を尽くしてはおりますが、これほど脈拍も呼吸も安定している中で、ただ熱だけが上がり続けるなど、前例がなく……」

 医師長の声は、自信のなさからか、か細く消え入りそうだ。


「我がナヤールの医療技術を以てして、解明できぬ病など、この世に存在するとでも言うのか!」

 ルーベスの拳が、ぎり、と白くなる。

 主君の、熱に浮かされた苦しげな寝息を聞くたびに、己の無力さに、心臓を直接握り潰されるような痛みが走った。


 その、張り詰めた空気を切り裂くように、静かに扉が開かれた。

「――それ以上、彼らを責めても詮無いことだ、ルーベス」

 声の主は、兄であるレノヴァンだった。

 彼は、まるでこの部屋の熱気など意に介さないかように、冷静な、氷のような瞳で、ベッドに横たわるドミネンを見つめている。


「兄上! ですが、ドミネン様は…!」


「落ち着きなさい。お前が一番に取り乱してどうする。ドミネン様は、お前のそんな不安な顔を見たいとお思いか?」

 その静かな言葉は、どんな叱責よりも、ルーベスの心を抉った。

 彼は、ぐっと唇を噛み締め、やり場のない怒りと悲しみを、ただ飲み込むしかなかった。


「……申し訳、ありません……」


「お前の想いも理解できる。だが、今はただ、ドミネン様の気力に懸けるしかない」

 そう言いながらも、レノヴァンの脳裏には、ここ数ヶ月で城下から複数上がっている、奇妙な報告が浮かんでいた。

 “魂を抜かれたように、虚ろになる者”

 “黒い霧を見た、と怯える者”

(これは、ただの病ではない……。もっと、根源的な……)


 レノヴァンは、決断した。

「ルーベス、ドミネン王子を私の研究所にお運びするぞ」


「えっ?! 兄上の研究所に、ですか?」


「そうだ。何もせず、手をこまねいているよりは、何かの要因が見つかるやもしれん。お前も、ただここで無力感に苛まれているより、よほどいいだろう」


「……承知、いたしました」

 ルーベスの瞳に、わずかに、希望の光が宿る。


「では、私は陛下と王太子殿下にご報告と許可をいただいてくる。その間に、ドミネン様をお運びする準備を進めておけ。……いいな」


「はっ!」

 ルーベスは、力強く頷くと、急ぎ移動の準備に取り掛かった。


 一人、部屋を出たレノヴァンは、謁見の間へと向かう長い廊下を歩きながら、静かに思考を巡らせていた。

(この原因が、病でないとすれば……それは、我々の科学が、最も不得手とする領域だ)


 その、思索に沈む彼の前方から、一つの影が、息を切らしながら駆けてくるのが見えた。

「……ドウジン様」


「レノヴァン!」

 ドウジンは、レノヴァンの姿を認めると、その行く手を阻むように立ちはだかった。その瞳には、焦りと、隠しきれない怒りの色が浮かんでいる。

「兄上の容態は、どうなのだ!なぜ、誰も私に何も教えてくれない!」


「……落ち着かれませ、ドウジン様」

 レノヴァンの声は、氷のように冷静だった。

「ドミネン様は、今、安静が必要です。どなた様も、お通しすることはできませぬ」


「なぜだ!私も弟だろう!顔をひと目見るくらい、許されるはずだ!」


「なりません」

 レノヴァンの返答は、短く、絶対的だった。彼の瞳には、何の感情も浮かんでいない。ただ、冷徹な事実だけが、そこにあった。

「これは、ドミネン様ご自身を、お守りするため。……そして、ドルトン様からの厳命でもあります。ご理解ください」


 ドルトン兄上の名前を出され、ドウジンはぐっと唇を噛み締めた。目の前の男は、ただの側近ではない。兄たちが、全幅の信頼を寄せる、フェルド家の次期当主。その鉄壁の理性の前では、自分の感情的な訴えなど、何の意味もなさないことを、彼は痛感していた。

 まただ。また、自分だけが、何もできずに、蚊帳の外。

 ドウジンは、固く拳を握りしめると、悔しさに顔を歪め、何も言わずにその場を走り去った。


 レノヴァンは、その小さな背中を、一瞥いちべつするでもなく、再び、謁見の間へと、静かに歩みを進めるのだった。


(だが、それでも。解明できぬものなど、この世にはないと、私は信じている)

 その横顔には、科学者としての、冷徹な覚悟が浮かんでいた。



━━✦━━



 ……声が、する。


 熱に浮かされたドミネンの意識は、暗く、冷たい、水の底へとゆっくりと沈んでいく。

 体の感覚は、もうない。

 ただ、魂だけが、揺蕩っている。


 (……キコエ……ルカ…

 キイ…テ…イル…ノカ…)


 音ではない。言葉でもない。

 ただ、意味の塊が、思考の隙間に、じわり、と黒いインクのように染み込んでくる。


 (……ボクノ…コエ…ガ……キコエル…モノヨ……)


(誰だ……? 誰が、私を呼ぶ……?)

 抗おうとする。だが、その声は、なぜかひどく懐かしく、抗いがたい引力で、ドミネンの魂を、さらに深い場所へと引きずり込んでいく。


 (……モウ…マモナク……トキ…ガ…クル……)


 その声が響くたび、彼の魂は、まるで古い硝子のように、ぴしり、と軋みを上げた。

 自分という輪郭が、少しずつ、溶けていく。

 誰かの記憶と、誰かの感情が、自分のものと混じり合っていく、言いようのない恐怖。


(やめろ……私の中に入ってくるな……!)


 だが、その声は、もう彼の一部だった。

 それは、まだ誰にも気づかれていない、決して逆らえない、魂の寄生者。

 薄れゆく意識の片隅で、彼は、自分ではない「何か」に、魂の主導権を、静かに奪われていくようだった。




 第二部― 第4章、閉じ。


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