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第二節 お嬢様と婚約破棄

 それから間もなく、私はアルゼンティア伯爵家のお屋敷へと招かれました。


 お嬢様専属のメイドとして、常にそのお傍に仕えるのがお役目です。幼い私はまだ何ひとつ役に立たぬ存在だったはずですが、それでもお嬢様のご指名により、屋敷に上がらせていただくことになりました。こうして、あの方との日々が始まったのです。


 年が近かったこともあり、お嬢様は私に何でも話して下さいました。それこそ、姉妹のように。あるいは、親友のように。


 お嬢様はたいへん聡明な方で、いつも難解な書物を手にしておられました。政治、政策、帝王学。そうした分野に強い関心をお持ちで、寝室には分厚い書籍が山のように積まれており、寝る間を惜しんで熱心に読んでいらっしゃいました。


 時に私に教えて下さることもあり、雄弁に未来の国の姿を語っておられましたが、当時の私には、その難しい言葉を何一つ理解することができませんでした。それでも、あの方が話されていたのは、きっと世界を変えるような、人を救うような、そんな理想だったのだと私は信じて疑いません。



     ◇



 成人なされたお嬢様には、すでに婚約者がおられました。この国の第一皇子であられる、皇太子殿下でございます。


 殿下はたいへんな美男で、お顔立ちはお嬢様にも劣らぬほどに整っておられました。美男美女。おふたりの並ぶ姿は、まるで絵画から抜け出したかのようにお似合いでした。


 このご婚約は、伯爵家と王家との縁を結ぶためのものでございました。いわば、貴族の政治の一環として交わされた縁。けれど私は、それもまた仕方のないことと受け止めておりました。お嬢様が笑って過ごしてくださるならば、それ以上を望むつもりはなかったのです。


 ですが、旦那様も私も、お嬢様という方の本質を見誤っていたのかもしれません。


 お嬢様はやがて、婚約者という立場を用いて皇太子殿下を介し、国の政策や政務に意見を述べるようになられました。当時の王国は政の乱れが目立ち、不正や汚職の噂が民の口にも昇る日々。お嬢様はそうした有様がどうしても看過できなかったのだと、私は思っております。


 しかし、その振る舞いは、官僚や王族方の間で次第に疎まれるようになり、皇太子殿下もまた、たびたび政治に意見なさるお嬢様に、明らかにご不満を抱いておられるようでした。


 そうして下されたのが、『婚約破棄』の通達……。それは理屈で言えば、あまりに自然で、あまりに残酷な結果でございました。


 お嬢様ご自身は婚約破棄の知らせにも、さしてお気になさっている様子はありませんでした。むしろ動揺していたのは、旦那様をはじめとするご家族の方だったように思います。このままでは当初の政略が立ち行かず、伯爵家の威信にも傷がつきかねない。そんな声が、屋敷の中でひそやかに、けれど確かに囁かれていたのを私は覚えております。そして旦那様は、お嬢様に代わって、妹君をあらたな婚約者に据えることを決められました。伯爵家と王家の縁を、何としても繋ぎとめるために。女は政治の道具ではないというのに……。


 お嬢様の妹君、『シルヴィア・フォン・アルゼンティア』様は、お嬢様より二つ年下のご令嬢でございました。色白で線が細く、華奢なお姿はまるでお人形のようで、愛らしさという点では、誰もが一目で目を奪われるようなお方でございました。ですが……シルヴィア様は、その外見とは裏腹に、内と外とを見事に使い分けられる、たいへん器用な方でもありました。皇太子殿下や外部の男性、親類縁者の前では、まるで深窓のご令嬢のように、優雅で、お淑やかで、どこか憂いを含んだご表情をなさいます。今にも風に揺れて散りそうな、手折れてしまいそうな儚さを漂わせ、庇護欲と言うのでしょうか、男性であれば誰しも「守ってあげねば」と思うような印象を与えておられました。


 けれど、お屋敷の中ではまるで別人のようなお方でした。使用人を折檻なさることも多く、わたくしたちの間では、恐れの対象でございました。人種や身分によってあからさまに態度を変え、特に私のような孤児院出身のメイドなどには、まるで汚物でも見るかのような冷たい目を向けられることもございました。嫌がらせや理不尽な命令も数多く……そんなときは、いつもお嬢様が間に立ち、静かに取り成してくださったのです。


 お二人は姉妹でありながら、そのご性格はまるで正反対でございました。お嬢様は、内と外を使い分けるということがどうにも苦手なご様子で、むしろ、まっすぐなお心が原因で何かとご苦労をされていたように思います。


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