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第三節 お嬢様の気になる男性

 お嬢様と皇太子殿下との婚約は解消されましたが、だからといってお嬢様が男性に関心をお持ちでなかったわけではございません。実際、お嬢様にはひそかに心を寄せておられる方がおりました。


 そのお方の名は『カミル・グランヴィル』辺境伯様。かつて私が孤児院にいた頃にまでさかのぼるご縁でございました。お嬢様と同じく、カミル様も『貴族の義務』という建前のもと、孤児院を訪れておられたのです。そのときに、ふたりは出会い言葉を交わされました。互いにまだ幼く、立場も違えば住む世界も違っていたはずなのに、あの邂逅を経てお嬢様の中に何かが静かに灯ったのだと、私は感じております。


 お嬢様はこのことについて、詳しく語ってはくださいませんでした。けれども、お話の端々から、言葉の選び方から、互いに惹かれ合っていたのだと。その空気だけは、私にもはっきりと伝わっておりました。


 婚約破棄の直後という時節柄、お嬢様に別の殿方とのご縁があると知られては、伯爵家のみならず、王家との関係にも禍根を残しかねません。そのため、お二人の想いは、当人同士と私だけが知る、ごく密やかなものでございました。


 お手紙のやりとりは、すべて私の手で担っておりました。わざわざ街まで赴き、配達人から直接それを受け取り、誰の目にも触れぬよう、そっとお嬢様のもとへとお渡ししておりました。


 正直、とても骨の折れる務めでしたが、カミル様からの手紙を両の手で大切そうに開き、ひと文字ずつ噛み締めるように読み耽るお嬢様のご様子を見れば、疲れなどあっという間に霧のように消えてしまうのでした。


 都にお立ち寄りの折などには、お忍びでの逢瀬の手筈を整えることもございました。必要とあらば、お嬢様の影武者として私が姿を晒し、そっとお時間を稼ぐなどということも……。もしこの一件が露見すれば、私自身ただでは済まぬことは分かっておりました。それでも構わなかったのです。あの方がほんのひとときでも幸福でいてくださるならば。その願いだけを胸に、私は動いておりました。


 そう言えば、カミル様から珍しい茶葉を頂戴した折には、妹君様とご一緒に、お茶会を催されて楽しんでいらっしゃいました。そのときのお嬢様のお顔は、まるで少女のように柔らかく、いま振り返っても、あれほど自然な微笑みを浮かべたお姿は数少ないものでございました。


 ご婚約が破談となった直後は、私も内心どうなることかと案じておりましたが、ほどなくして、お嬢様は以前にも増して穏やかで、幸せそうに過ごされるようになりました。


 いずれお二人はご結婚なされて、身分や政略などに縛られない、心からの絆を育まれるのだと。私は、それを疑うことなど一度もありませんでした。


 けれど。


 転機は、思いもよらぬかたちで訪れたのです。


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