その日は、王家主催による盛大な舞踏会が催される日でございました。皇太子殿下もご臨席なさる格式高い夜会であり、貴族階級の面々が多数参列する催しでございます。
当然のことながら、お嬢様はご出席をひどく倦厭なさっておりました。けれど、妹君様が皇太子殿下のご婚約者であられる以上、姉君としての立場から欠席することは叶いません。とりわけ今回は、妹君様の強いお申し出もございまして、お嬢様はしぶしぶながらも御身を整え、会場へと足を運ばれることになりました。お付きの身である私もまた、お嬢様の側に控えたまま、鈍く煌めく王都の宵へと、馬車に揺られて向かったのでございます。
会場は、まさに豪奢の極みでございました。色とりどりのドレスを纏った貴族たちが、優雅に舞い、微笑みを交わしながら歓談に興じておられました。
私はメイドとしてその会場の隅に控えておりました。他の使用人たちと同様、主の傍らで指示があれば動く。それが、私に許された『そこにいること』のすべてでございました。
メイドでなければ、このような場に足を踏み入れることなど、一生叶わなかったでしょう。孤児院で育った私には、もともと縁のない世界でございます。そしてそのことが、まざまざと教えてくれるのです。貴族と平民のあいだに横たわる、冷たく深い隔たりの存在を。美しく飾られた空間ほど、その違いはむしろあからさまに浮かび上がっておりました。
しばらくすると、会場の中央が何やら騒がしくなったのに気がつきました。ざわめきが波のように広がり、誰かが名を呼ぶ声が混ざっておりました。
何事かと、私はまず真っ先にお嬢様のお姿を探しました。そして、目を疑いました。お嬢様が、騒ぎの中心におられたのです。床にうずくまり、肩を震わせておられました。
その場にいた貴族たちは、遠巻きにして口々に何かを囁き合い、誰ひとりとして手を差し伸べる者はおりませんでした。
私は咄嗟に駆け出し、お嬢様のもとへと向かいました。その身に触れた瞬間、かすかに震えているのがわかりました。優しく肩を抱き起こすとお嬢様の左の頬が、真っ赤に腫れ上がっていたのです。
誰かに叩かれた? この場で、貴族の令嬢に手をあげるなどという行為があってよいはずがない。
一体、誰が?
誰がこのような仕打ちを……お嬢様に、こんな辱めを!
お嬢様がそっと顔を上げられました。その視線の先……皇太子殿下が、妹君様と並んで立っておられました。片腕はしっかりとシルヴィア様の背に回されていて、二人の距離は貴族の場にはあまりに近すぎるものでございました。
まさか、このお二人が……? 頭では否定しようとするのに、胸の奥が嫌な予感で冷たく強ばりました。
「……何をなさいますの、殿下!」
お嬢様の声が、会場に響きました。震えは微塵もなく毅然とした声でした。
「うるさい! この悪女め! お前の魂胆など、すべて見抜いているのだ!」
皇太子殿下が吼えるように言い放ちました。
魂胆……? 何のことでございましょうや。
頬を打ったのは、やはり殿下だったのでしょう。その場の誰もが目を逸らし息を潜め、けれど、その怒声に満ちた言葉だけは、確かにすべての耳に届いておりました。
「何のことでしょうか殿下」
「しらばっくれるのか! 貴様が王家に対して反乱を画策しているのは、すでに明らかになっているのだぞ!」
反乱!
そんなこと、あってよいはずがない。確かに、お嬢様はこの国の在り方に憂いておられました。けれど、それはあくまで真摯な願いと知性によるもので、反乱などという、恐れ多いことをお考えになる方ではない。決してそんなことを……。
「……反乱? 私はそのような……」
「お姉さま! 証拠はすべて揃っておりますのよ!」
その声は、妹君様……シルヴィア様のものでございました。涼やかに澄んだ声で、一片の迷いもなく姉を告発なさるお姿。
なぜ。
どうして、シルヴィア様がこのようなことを……。
「シルヴィア? あなたまで、何を言い出すの……」
お嬢様の声はかすかに揺れていました。信じたくない。けれど目の前に立っているその妹の表情は、あまりにも冷たく無慈悲で……。
「シルヴィアから、すべて聞いているぞ! お前は決起のため、諸侯と内密に書状を交わしていたそうではないか!」
殿下の声は、怒りというよりも確信に満ちておりました。決めつけ、糾弾し、退路を断つための言葉。それは、裁きの場に似た冷たさでした。
「それだけではありませんわ! 夜な夜な、こっそりと屋敷を抜け出して、誰かに会っていらっしゃいましたわよね? 反乱の準備と見られても、仕方のない行動ですわ!」
シルヴィア様の声は澄んでいて、語尾にはわずかに勝ち誇った響きがありました。それがどれだけ残酷な言葉であるかなど、微塵も意に介していない。
そんなこと、あるはずがない!
手紙のすべては、恋文でございました。屋敷を抜け出していたのも、あの逢瀬のため……。ああ、すべてを知る私がこの場で証言できれば、どれほど良かったことでしょう。けれど、メイド如きの口から語られる言葉が、この場で『真実』として認められることは、まずないのでございます。どれだけ誠を尽くしても、下賤の妄言と断じられてしまう……それが、この世界の、現実。
「そんなわけないでしょう! 殿下! 濡れ衣でございます。私は……」
お嬢様の声は震えていませんでした。否定ではなく、正しさそのもののような響き。けれどその声は、殿下の怒声に呑まれてしまいます。
「ええい、黙れ黙れ! 聞けばシルヴィアには、茶に毒を盛って殺害を画策しようとしたらしいな! たったひとりの妹を、毒で葬ろうとするなど何事であるか! 恥を知れ!」
毒……? 殺意……?
ああ、そんなこと、あるはずがございません! あのお茶は、確かに私が淹れたものでございました。カミル様から頂いた異国の茶葉……独特の香気と渋みに慣れず、妹君様のお口に合わなかっただけのこと。
けれど、今この場でそれを申し上げたところで、私の言葉など、誰の耳にも届くはずもありません。貴族たちの視線は冷ややかに、メイドの言葉などただの雑音としか映らないのでございます。どうして、こんなにも簡単に真実がねじ曲げられてしまうのでしょう。この場にいる誰もが、虚構に頷き、沈黙の裡に刃を携えている。それが、いま目の前で起きているすべてでございました。
「そんなことしておりません! 第一なぜ私が反乱など企てねばならないのですか!」
「大方、私への当てつけだろう! 気位ばかり高い貴様は、婚約破棄されたのがどうにも許せなかったのだ! 私への復讐ならまだしも、肉親にまで手をかけようとは……なんたる外道か!」
「殿下! そんな、無体な……!」
「ええい、もうよい! 衛兵! この愚か者を、牢へとぶち込め! 命令である、早くせよ!」
「殿下! お願いです、もう一度だけ……! これは誤解でございます! 殿下ッ!」
甲冑に身を包んだ衛兵が、有無を言わせずお嬢様の両肩を掴み、そのまま引きずるようにして、煌びやかな会場の外へと連行していきました。ざわめきも、拒絶も、哀れみもなかった。赤絨毯だけが、足音に合わせてわずかに揺れておりました。
残されたのは、私と、皇太子殿下と、そしてシルヴィア様。
その時です。
妹君様の口元に、ふと浮かんだのを私は見ました。……あれは、嘲りの笑みでした。その瞬間、私の中に一つの確信が芽生えたのです。
すべては、妹君様……シルヴィア・フォン・アルゼンティア様の、精緻に仕組まれた奸計だったのだと。
私は、すぐさま会場を抜け出しました。そして、その足で早馬を借り、迷うことなくカミル辺境伯様の領地へと駆け出したのです。
お嬢様の周囲は、もはや敵だらけでございました。妹君様があのように振る舞われた以上、旦那様がお嬢様の味方となってくださるはずもありません。
思い至ったのは、ただお一人。お嬢様のために立ってくださる方は、カミル様をおいて、他におられない。その思いだけを胸に、私は風を裂いて馬を走らせました。