第1章
第1節|BLOOD & BREAD
第1項|BLOOD & BREAD morning
今日の日も 昨日と変わらぬ 空なれど
明日も変わらぬ とは限らず
BLOOD & BREADの朝は早い。
午前3時、街はまだ深い眠りの中にある。夜の静けさを破るのは、パンを捏ねる音と、低く響く機械の動作音だけだ。
店の奥では、飽君が巨大なボウルの中で生地を捏ねていた。筋張った腕が力強く生地を押し、折りたたみ、また押し込む。リズムよく繰り返される動作は、彼にとってはもはや無意識の領域だ。指先で生地の粘り気を確かめ、手のひらで弾力を測る。パンの命はここで決まる。彼の手が生み出す生地は、夜明けとともに店を満たす香ばしい香りへと変わる。
一方、奥のオーブン前では、優愛が焼き上がりをチェックしていた。鉄板の上に整然と並ぶパンの表面は、うっすらと黄金色に輝いている。
彼女は素早く手袋をはめ、焼き加減を確かめるようにパンの裏を軽く叩く。乾いた音が響けば、焼き上がりは上々。ふわりと立ち上る湯気の中で、彼女は一つ一つのパンを丁寧に並べていく。
午前4時。外の世界はまだ暗く、店内だけが小さな灯りに照らされている。ラジオから流れる古いジャズが微かに響く。
倉庫の奥では、仕込み用のバターを切る音、コーヒーマシンが温まる音が混ざり合い、無機質なはずの時間にわずかな温もりを添える。
第2項|パンの耳
午前5時。外から聞こえる、一定のリズムを刻む足音。片足を軽く引きずるようなその音に、飽君と優愛は自然と顔を上げた。
「来たな。」
飽君がぽつりと言う。優愛はカウンター越しに外を見やる。街灯に照らされ、ゆっくりと近づいてくるのは
「袋、用意してるよ。」
優愛がさりげなく囁き、カウンターの下から食パンの耳の入った袋を取り出した。そして、ふと手を止めると、そばのバスケットから出来たての小さなパンをいくつか取り、袋の中にそっと加える。軽く微笑みながら、袋を丁寧に折りたたんでから、扉をそっと開け、祭蔵に手渡した。
「おう、悪いな。」
「いいってことよ。」
飽君は手を止めずに応じる。祭蔵は袋を受け取りながら、店内を見回した。
「昔ぁ、ワシの店にもよぉ、毎朝パンを届けに来る奴がいてなぁ……。まさか、今度はワシがもらう側になっちまうとはな。」
その声に、飽君が少しだけ目を上げる。
椅子に座った祭蔵に茶を出しながら、言葉を続ける。
「昔、商売やってたんだろ? 何を売ってたんだ?」
「色々よ。花翁町の夜は賑やかだったもんよ。酒、女、芸……、そういうのをまとめてさばくのがワシの仕事だった。」
遠い目をして語る祭蔵に、店内の空気が一瞬だけ静まる。
だが、次の瞬間、彼はふっと笑った。
「まぁ、今となっちゃ、ワシの取り分はこのパンの耳だけだがな。」
そう言って袋を抱え、ゆっくりと店を後にする。その背中を見送りながら、優愛はふっと微笑んだ。
「それでも、また明日も来るんでしょう?」
祭蔵は振り向かずに、片手を軽く挙げるだけだった。
第3項|想い
「もうすぐ夜が明けるね。」
午前6時。遠くの空が薄紫色に染まり始め、街の輪郭がぼんやりと浮かび上がる。店の前を新聞配達のバイクが走り去る頃には、BLOOD & BREADの棚には焼き立てのパンがずらりと並ぶ。窓の向こう、開店を待つ人々の姿がぼんやりと見えた。
「さて、始めるか。」
飽君が前掛けを直し、優愛がドアの鍵を回す。
パンの香りとともに、今日という新しい一日が始まる。
暫くすると、店の外から元気な声が響いた。
「優愛ちゃん、飽君、おはよう!」
70歳の細身の女性とは思えないほどの力強さに、飽君は思わず苦笑する。
「相変わらず元気だな、藺草さん。」
飽君は藺草から大きな箱を受け取り、バックヤードの冷蔵庫へと保管していく。
藺草は、ほとんど奉仕かと思えるほど野菜や果物の代金を受け取らない。「どうせさ、殆どうちの畑で出来たもんだから」と笑っている。
「しかしまぁ、あれだよ!出来たてのパンは毎日来ても本当に美味しそうだねぇ!今日は、ウグイスパンを貰おうかしら。」
優愛がカウンターの奥から出来たてのウグイスパンを取り出し、藺草に手渡す。藺草は嬉しそうに微笑みながら、パンを大事そうに受け取った。
「昔さ、うちの亭主が好きだったんだよ、ウグイスパン。朝になると、よう買いに行ってたっけねぇ。」
ふと、懐かしそうな眼差しを向ける藺草。彼女の優しい笑顔の裏に、遠い日の記憶が滲んでいた。
第4項|町のパン屋
BLOOD & BREADのパンは、至ってシンプルなものが多い。バターや砂糖をたっぷり使ったリッチなパンを求める者にとっては、些か物足りなく感じるかもしれない。
しかし、一口食べればわかる。生地の風味、噛むほどに広がる小麦の甘さ――余計な装飾を排したからこそ、素材の良さが際立つのだ。
昼を過ぎると、多くの町民がBLOOD & BREADへと足を運ぶ。子どもを連れた母親、昼休憩の合間に立ち寄る職人たち、そして遠方から噂を聞きつけた客達。
それぞれが、自分好みの一品を見つけ、店内に漂う香ばしい匂いに満足げな表情を浮かべる。
第5項|午後4時の男
午後4時。夕暮れも近づいて来るこの時間帯に、BLOOD & BREADの入口から差し込む陽の光を遮るように、大きな人の影がひとつ。
「よぅ。」
低く太い声が響く。
飽君がふと手を止め、入口へと目を向けた。
「よぅ、
大きな影の正体——それは、かつて極優會の幹部だった壱圓である。
壱圓――かつて極優會の幹部として名を馳せた男。その名は、かつての裏社会では知らぬ者はいないほどだった。
222cmの巨体に、銀色の坊主頭。頭には大きな刀傷が走り、首から腕、手の甲にかけては鮮やかな刺青が刻まれている。かつての彼を知る者なら、今の姿を見れば驚くかもしれない。なぜなら、今の壱圓は、キッチンカー「壱圓販売車」の店主として、街の人々に料理を振る舞っているのだから。
「壱圓を笑う奴は壱圓にしばかれる」――豪快な笑みとともにそう語る彼は、見た目の威圧感とは裏腹に、子供の笑顔が大好きな面倒見のいい男だ。
第6項|山ほどのパン
壱圓は言う。
「おうよ!!出来てるか?」
飽君はニヤリと笑いながら、カウンターの奥に目をやった。
「あぁ、山ほどあんぞ!ほらよ!!」
そう言って飽君が壱圓に渡したのは、山ほどのいろんな種類のパン。水曜日のこの時間に合わせて焼き上げた、特別な焼きたてのパンだった。
普段、壱圓はキッチンを携えた車、キッチンカー「壱圓販売車」でキューバサンドやテキサスバーベキュー、ベニエ等を作って販売している。
BLOOD & BREADのパンとは対照的に、彼の料理はかなり濃い味付けが特徴だ。パンの自然な風味を活かした飽君の店に対し、壱圓の店は言わば「大人の味」として町民からの支持を得ている。
しかし、水曜日の夕方は違った。壱圓は早めに店仕舞いをして、BLOOD & BREADのパンを山ほどトラックに積み込んでいく。
パンの積み込みを手伝う優愛と飽君。
第7項|トラックの向かう先は
壱圓が声を張る。
「おっしゃ!そしたら行って来るぜ!!」
「壱圓、事故らないでよ!気を付けてね!!」
優愛が念を押す。
トラックはゆっくりと出発する。
飽君は、遠ざかるトラックを見つめながら呟いた。
「今日も、喜んでくれたら良いな。」
「そうね・・・私達の後輩達・・」
優愛の声には、かすかに感傷が混じる。
向かう先は、花翁なかよし園。
親の居ない孤児を受け入れている園である。
第8項|花翁なかよし園
壱圓の作るパンや料理は、その味の確かさにおいて疑いの余地はない。長年の経験と鋭い舌が生み出す味は、まさに職人技の賜物だ。
しかし、それが万人向けかと言えば話は別だった。彼の料理は、スパイスや燻製香、肉の旨味を存分に活かした濃厚な味付けが特徴であり、それはまさに「大人の味」だった。
食べ応えがあり、酒との相性も抜群だが、子どもや年配者、優しい味を好む者にとっては、やや刺激が強すぎるのも否めない。
一方で、BLOOD & BREADのパンは、よりシンプルで親しみやすい味わいだった。余計な装飾を加えず、素材そのものの風味を活かしたパンは、子どもから老人まで誰もが安心して食べられるものだった。
だからこそ、壱圓は自らの料理だけでなく、より広い層に受け入れられるBLOOD & BREADのパンを提供することに決めたのだ。ただ美味いだけではなく、「誰にとっても美味い」ものを届ける為に。
50年もの間、園長はただ只管に身寄りのない孤児の親として支えてきた。無償の愛――それは言うは易く行うは難し。時に食糧が足りず、寒さに凍える夜もあった。だが、それでも園長の笑顔は変わることがない。
彼の笑顔は、決して作り物ではなく、そこに生きる子どもたちの命が続いている限り、何よりも大切なものだった。
今もこうして、「美味しい!」とパンを頬張る子供達を見つめながら、園長は微笑むのであった。彼らが空腹を感じずに眠れるだけで、それだけで十分だった。
そして、そんななかよし園を支える為に、卒園生を中心として多くの支援者が居る事を、忘れてはならない。かつて園長に救われた子供たちが、今度は支える側に回っている。その輪は静かに、しかし確かに広がっていた。
夜の帳が降りる頃、町のどこかで、また誰かが灯りを求めて歩き出す。その歩みが、どこへ向かうのか。それを決めるのは、今を生きる者たちの手に委ねられているのだ。
いつか、いつの日か、偽物は生き絶え、
人の真実心は、いつか・・きっと・・
闘う者の物語
a story dedicated to you··
第1章主題歌
https://youtu.be/VTtlMZ4DF0w?si=-5xEbkiSMpdQsjo2