第2章
第1項|秋の訪れ
第1節|秋の風
秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども
風の音にぞ おどろかれぬる
秋の訪れを告げるように、乾いた風が町を吹き抜ける。祭蔵は店先の暖簾を整えながら、空を仰いだ。見上げた先の空は、まだ夏の名残を留めた蒼穹だったが、肌を撫でる風は確かに季節の変わり目を感じさせる。
「秋来ぬと 目にはさやかに 見えねども 風の音にぞ おどろかれぬる……か」
ぽつりと詠んだ言葉に、隣で棚の整理をしていた藺草が微笑を浮かべる。
「風の音に驚くより、さっさと仕込みを終わらせなさいな、坊や」
「あんたに言われる筋合いはねぇよ」
軽口を叩きながらも、祭蔵は素直に店の奥へと足を向ける。七福商会の朝は早い。祭蔵にとっても、藺草にとっても、この時間は特別なものだった。静かな町の中、二人はいつものように準備を進める。
七福商会の一日は、午前4時から始まる。まずは店内の清掃だ。夜のうちに溜まった埃を払い、床を箒で掃き、入口のガラスを拭き上げる。
野菜くずや前日の売れ残りの整理も欠かせない。使えないものは廃棄し、まだ使えるものは仕分けて加工品用に回す。不要になった段ボールを潰し、決められた場所にまとめる。
その後、店内の棚を整え、野菜を陳列するためのスペースを確保する。発泡スチロールの箱に氷水を張り、葉物野菜を新鮮に保つ準備をする。
冷蔵庫内の在庫を確認し、足りないものをリストアップ。朝の仕入れがスムーズに進むよう、必要なものをメモしておくのも重要な作業だ。
5時になると、祭蔵は一旦店を抜け、飽君と優愛が経営するパン屋「BLOOD & BREAD」へ向かう。店に入ると、焼きたてのパンの香りが鼻をくすぐる。奥の厨房から飽君が無言で紙袋を投げてよこす。
「ほらよ、貧乏人のセット」
「言い方よ。せめて“常連向けサービス”とかにしろ」
「ただのパンの耳だろ」
「うるせぇな、ありがたくもらっとくわ」
紙袋を受け取り、団地に戻ると、そのまま朝飯にする。静かな部屋でパンの耳を齧りながら、一息つく時間。質素だが、これが祭蔵の日課だった。
その間、藺草は店でお茶を淹れ、休憩を取る。仕入れ前のひととき、店先の椅子に腰掛けて湯呑みを傾ける。温かい茶の湯気が立ちのぼり、静かな時間が流れる。
6時頃、祭蔵が戻ると、再び作業を再開。店頭に並べる籠を拭き、値札を新しく書き直し、朝の陳列の準備を整える。
第2節|聖都東卸売市場
6時半過ぎ、壱圓の運転するトラックが市場から戻ってくる。エンジン音とともに、ぎっしり詰まった段ボールが荷台に揺れている。運転席から降りてくるなり、壱圓はあくび混じりで祭蔵に言った。
「はい、今朝のプレゼント」
「お前が運んできたものを“プレゼント”とは言わねぇ」
「いや、俺の手間賃考えたら、プレゼントみたいなもんだろ?」
「じゃあ、ありがたく受け取ってやるよ」
そう言いながら、祭蔵と藺草は壱圓から段ボールを受け取り、手際よく仕分けを始める。野菜の状態を確かめつつ、適切な場所へと並べていく。
野菜を冷水に漬け、売り場のバランスを見ながら配置する。新しく届いたものを古いものと入れ替え、鮮度を維持するために微調整する。
「今日は大根がいいやつ入ってるぞ」
「へぇ、大根の目利きもできるようになったのか?」
「当たり前だろ。俺を誰だと思ってる」
「ただの肉屋だと思ってた」
「肉屋は野菜も見れるんだよ、勉強しとけ」
段ボールを降ろし終えると、壱圓は手を軽く払って、またトラックへと戻る。
「じゃ、次は肉のせり行ってくるわ」
「ちゃんといい肉持ってこいよ」
「もちろん。お前が買える値段ならな」
そう言い残し、壱圓はトラックを発進させた。祭蔵と藺草は無言で作業を続けながら、わずかに笑みを浮かべる。
こうして、町の朝は静かに、しかし確かに動き始めるのだった。
第3節|淡く白い粉の味
BLOOD & BREADの店内には、焼きたてのパンの香りがまだほのかに漂っていた。朝のラッシュが終わり、ようやく訪れた静寂の時間。
外から差し込むやわらかな光が、店内の木のカウンターを優しく照らしている。オーブンの余熱がわずかに残る厨房の奥では、静かに漂う粉塵が陽の光を受けてふんわりと舞っていた。
飽君は厨房の隅に置かれた大きなバットから、シンプルなカンパーニュを一切れ手に取った。表面はこんがりと焼かれ、中はしっとりとした質感。指先には自然と小麦粉がついており、それが彼の毎日の営みを象徴するかのようだった。
隣では優愛が軽くトーストされたバゲットを持ち、ナイフの背で丁寧にバターを塗っている。薄く伸ばされたバターが、じんわりとパンの表面に染み込んでいく様子を見つめながら、彼女は静かに微笑んだ。
「朝のラッシュ、思ったより早く終わったな」
飽君がぼそっと呟くと、優愛はコーヒーメーカーから淹れたてのコーヒーをカップに注ぎながら、「今日は涼しいから、みんな温かいパンを求めてたのかもね」と穏やかに返した。
二人にとって、この言葉少なに過ごす時間は特別なものだった。どんなに忙しくても、この10時のひとときだけは、店の主としてではなく、一人の人間としてゆっくりと息をつける時間だった。
カウンターに並べられたマグカップからは、湯気がふわりと立ち昇る。その香ばしく、ほのかに酸味を含んだ香りが、店内の静寂にじんわりと溶け込んでいく。
飽君はカンパーニュをひとかじりし、噛みしめるたびに歯ごたえのある生地の奥から小麦粉の自然な甘みが広がるのを感じた。優愛もまた、バターがじんわりと染みたバゲットを口に運び、静かに目を細めた。
「……この時間が一番落ち着くな」
飽君がぽつりと呟くと、優愛はカップを両手で包みながら、小さく頷いた。
「そうね。店の音も、街のざわめきも遠くなる感じがする」
確かに、外からはまだ微かに人々の足音や車のエンジン音が聞こえる。しかし、このカウンターに座っている二人にとって、それらはまるで別世界の出来事のように感じられた。
忙しなく動く朝の喧騒の中にあって、まるで時間だけがゆっくりと流れているかのような錯覚さえ覚える。
飽君は、カンパーニュの表面に残る淡い白い粉を指先で払う。小麦粉の感触が指先に残り、それを無意識のうちに擦る。
パン屋の仕事は、単なる商売ではなく、彼の手のひらの中で生きているものなのだ。パンを捏ね、焼き、そして誰かに届ける。その一連の営みが、彼の日常の一部になっていた。
そんな静けさの中、店の前に1台の車が止まる音がした。エンジンが小さく唸り、やがて止まる。扉が勢いよく開き、そこから元気な声が響く。
「よっ、ご両人!おはようさん!!」
その声に、飽君は無言のままコーヒーを一口飲み、優愛は苦笑しながらカップを置いた。店のガラス越しに、見慣れた男の姿が映る。オート三輪の荷台に大きな粉袋を積んだ男——
蝉丸は、聖都東地区・花翁町出身の20歳の青年で、製粉所「良水製粉」の若き所長を務めている。身長184cm、体重75kgの引き締まった体躯を持ち、明るい茶髪を長く伸ばして後ろで一つに結んでいるのが特徴。
仕事中は、小麦の刺繍が施された肌色の法被に太めのハチマキ、前掛け、そして草履という、どこか古風ながらも小麦愛が滲む装いをしている。
一方、プライベートでは、小麦柄が入ったGジャンをさらりと着こなすラフなスタイル。
首から下には小麦の模様をあしらったタトゥーが彫られており、その徹底した“麦”へのこだわりは、ファッションにも表れている。ネックレスやピアス、リングなどのアクセサリーも全て小麦柄。メイクは常にバッチリ決めており、その姿はまるで製粉業界のファッションリーダーのようだ。
普段は「俺」と一人称を使い、軽快かつ自信に満ちた口調で話す。信条は「上物の小麦、どうだい?」という一言に集約されており、良質な素材と仕事への誇りを誰よりも重んじている。
飽君はカウンターから立ち上がると、
店の入口へと歩み寄りながら、ぼそりと呟いた。
「来たな、淡く白い粉の運び屋」
「おいおい、やべぇ呼び方してんじゃねーすよ!」
蝉丸は苦笑しながら、荷台の上の大袋を軽々と肩に担ぐ。
優愛はカウンター越しに二人を眺めながら、くすりと笑った。今日もまた、変わらぬ日常が流れていく——それが、何よりも愛おしいものに思えた。
第2項|以ての外
第1節|午後3時。
BLOOD & BREADの店内には、時計の針が刻む静かな音と、焼きたてのパンの香りがわずかに残るだけだった。
外の通りは、昼の喧騒が落ち着き、ぽつぽつと通りを歩く人影もまばらになっている。午後の陽射しがガラス窓を通して差し込み、店内の木製カウンターに長い影を落としていた。
カウンターの奥で腕を組みながら、飽君は目の前のバゲットを見下ろしていた。
通常のバゲットは60cmから80cmほどの長さだが、目の前のバゲットはその何倍もの長さを誇る。
その長さ、実に6メートルを超える。
一般的なバゲットが細身の剣のような印象を持つのに対し、この特注バゲットは、まるで巨大な槍のように堂々と横たわっている。
普通のオーブンでは焼き上げることすら不可能なため、特別に設計された石窯を使い、数回に分けてじっくりと焼かれている。そのため、生地の端から端までムラなく焼き色がつき、黄金色のクラストが美しく輝いていた。
「……これがあるとさ、場所取るから他のパンが置けないんだよなぁ……」
飽君がぼやくように呟くと、その隣で優愛もため息をついた。
「そうねぇ。でも、もうこれはBLOOD & BREADの木曜日の風物詩みたいなものだし」
事実、この「めちゃくちゃ長いバゲット」は、店の常連客の間でもすでに有名だった。
毎週木曜日になると、このバゲットの登場を楽しみにしている客も多く、写真を撮る者までいる。時にはSNSに「#木曜のバゲット」なんてタグ付きで投稿され、「BLOOD & BREADの名物パン」として密かに人気を博していた。
「……今日、木曜だよな」
ぽつりと呟く飽君に、優愛も同じように視線をバゲットに向けた。
「うん。間違いなく木曜日」
「コレがあるからなぁ……」
「診察が長引いてるのかもね」
「緊急手術とか……」
二人はしばし黙り込んだ。
このバゲットの注文主は、毎週木曜日に必ず訪れる常連客だった。朝一番に予約を入れ、特注の超ロングバゲットを受け取りに来る。だが、今日は姿が見えない。
飽君は軽く首を回し、カウンターに置いたマグカップを手に取った。中のコーヒーはすでに冷めている。
「……連絡とか、なかった?」
「ないねぇ。いつもなら昼過ぎには来てるんだがなぁ」
優愛は店の奥にある電話機をちらりと見やるが、受信履歴に変化はなかった。
「まさか……ほんとに手術とかじゃねぇよな」
飽君のぼそっとした言葉に、優愛も少しだけ眉をひそめる。
「うーん、あるかもね。あの人、仕事柄、急に呼び出されることもあるって言ってたし」
「まぁ、あの歳で現役バリバリの医者ってのもすげぇよな」
このバゲットの注文主は、町の総合病院で働く外科医だった。歳は七十を超えているが、いまだに現場でメスを握っている。体力勝負の仕事なのに、毎週木曜日の午後には、必ずここへ来て、この特注バゲットを抱えて帰るのだった。
——そして、16時過ぎ。
ようやく、めちゃくちゃ長いバゲットの発注者がBLOOD & BREADに姿を現した。
「間に合ったわい!!」
真面目な顔でピースサインをする発注者。
「もう夕方だぜ、先生……」
「うむ、知っておる。ガハハ!最近は流行病の患者が列をなしておってのぅ。いやぁ、間に合ったわ!!誰かに買われてはいないかと……」
「誰も取らないって……」
発注者、それは花翁町病院院長、
「さてもさても、朝から何も食っとらんからの、腹がペコペコじゃ!早速持ち帰って食うとするか!!」
玄斎は、疲れた身体を宥めるかのように、めちゃくちゃ長いバゲットを担いで満足げに病院へと帰っていった。
店の外では、彼がバゲットを肩に担ぐ姿を見て、何人かの通行人が足を止め、スマホを構えて写真を撮っている。
「やっとスペースが出来たけど……」
「あぁ……もう置くパンもねぇや……」
優愛が苦笑しながら棚を見渡す。木曜日のBLOOD & BREADは、こうしていつもとは少し違う、特別な空気に包まれるのだった。