第3章
第1項|「BLOOD & BREAD?」
第1節|寝不足の飽君、仕込み中にやらかす。
前日の夜。
飽君はビールを片手に話題のネット配信映画 「103人斬りの侍」 を観ていた。悪者たちをバッタバッタと斬り捨てる主人公に、気分は最高潮。
「いけーー!!!ぶった切れ!!」
思わず声を上げながら観ていたが、明日も仕事だ。適当なところで止めよう…と思っていた。……が、結局、最後まで観てしまった。
結果、寝不足である。
第2節|土曜日 午前10時過ぎ。ブランチタイムの仕込み
「ふわぁぁ……」
大きなあくびをする飽君。
「優愛、何そのあくび。」
呆れたような目を向ける優愛。
「いや、昨日さ、話題の映画 、103人斬りの侍を観てたら面白くて、最後まで観ちまったんだよ……ふわぁぁ……」
「103人ってなんか中途半端ね。」
「いやいや優愛よ、聞いておくれでないかい。その3人ってのがさ…」
「はいはい、終わったら聞いてあげるから、まずは仕込みが先!」
「ぁぃ……ふわぁぁ……」
寝ぼけながらも仕込みを始める飽君。
しかし、この後 大惨事 が待っていた。
第3節|パンの仕込み中、道具を壊す
優愛がちょっと外に出たタイミングを見計らい、飽君は 寝不足ハイなテンション のまま仕込み道具を手に取る。
「この棒……こう持ったら、まるで刀じゃねぇか…!」
昨夜の映画の余韻が抜けず、つい侍のように構えてみる。
「こんなもん、こうやって持てば…おっ、カッコいいじゃん!」
そして――
「これ、剣みたいに振り回したら…うわっ!?」
――バキッ!!
静寂。
飽君は呆然と目の前の光景を見つめる。
手に持っていたパン捏ね棒は、真っ二つに折れていた。
「……ヤベェ。」
冷や汗が流れる。
この棒は 優愛が長年愛用している大切な道具 だ。
「優愛にバレたら、確実にシメられる……」
動揺しながら、壊れた棒をそっと元の場所に戻そうとする。
しかし、折れた部分が パカッ と開いてしまう。
「ダメだ、誤魔化せねぇ!!」
飽君は一瞬の判断で、優愛が戻る前に 新しい道具を買いに行くことを決意!
エプロンを脱ぎ捨て、全力疾走で雑貨屋へ向かう。
第4節|花翁町の雑貨屋へ
パンの仕込み道具を壊してしまい、優愛が戻ってくる前に新しい道具を手に入れようと、飽君は 寝不足の体にムチ打って 雑貨屋へ走る。
「
「小物・生活用品・生鮮食品以外なら何でも揃う」 と言われているが、店主が無口でクセがあるため、町民たちはできるだけ避けているが、信用・信頼はピカイチだ。
ちょうど昼前で、店は開いていた。
飽君は扉を勢いよく開け、店内に飛び込んだ。
「すんません…ちょっと道具が必要で…!」
店の奥に座っていた店主 「
ただ、無言で棚を指差した。
飽君はゴクリと唾を飲み込み、恐る恐る指示された棚を見る。
そこには、新品のパン捏ね棒 があった。
「……(あった!)」
すぐさま手に取り、カウンターへ。
「これ、ください!」
店主は相変わらず無言のまま、レジを打つわけでもなく、ただじっと飽君を見つめる。
「えっと……代金は……?」
すると、店主は静かに口を開いた。
「……ツケでいい」
飽君は思わず驚いた顔をする。
「え?マジ?」
店主は無表情のまま、ポツリと一言。
「……ただし、返済遅れたら優愛ちゃんに言う」
飽君は背筋をゾクリと震わせた。
「ぁわわ……絶対すぐ払います!!」
無言のまま、店主はほんの少しだけ口角を上げたように見えた。
代金も払わず雑貨屋を飛び出す飽君。
汗を流しながら急いでBLOOD & BREADに戻る。
第5節|優愛が戻ってくる直前
ギリギリ間に合った飽君は、何事もなかったかのように新しい道具を元の位置にセット。
「ふぅ……バレてねぇな?」
そこへ、優愛が戻ってくる。
「ん?なんか汗かいてない?」
「い、いや、気のせいだろ!」
優愛は道具を手に取り、特に疑うことなく仕込みを再開。
ホッと胸をなでおろす飽君だったが、ふと優愛の口から衝撃の一言が飛び出す。
「……これ、新品じゃない?」
――― これぞ、一巻の終わり。
第2項
第1節|眠気に包まれた日常
吉岡は、いつも眠い。
夜にしっかり寝ても、朝から眠い。昼も夜も、ずっと眠い。まるで、眠ることが義務であるかのように、意識が夢の世界へと引きずり込まれていく。
図書館で働く日々は穏やかだが、気がつけばカウンターで突っ伏し、気づけば誰かに声をかけられて目を覚ます。
「また寝不足?」
「……ううん、ちゃんと寝てる」
けれど、自分でもおかしいと思っている。
ただの疲れでも、病気でもないはずだ。
では、なぜこんなにも眠いのか――?
第2節|記憶の捏造
睡眠中、脳は「必要な記憶を整理し、不要な記憶を削除する」。海馬が短期記憶を長期記憶に変換し、特にレム睡眠の間に記憶の定着が促される。
だが、もし――
眠るたびに、脳が何かを「作り変えている」としたら?
幼い頃の記憶に、ぽっかりと空いた穴があることに気づいたのは、月を眺めていたある夜だった。
「姉ちゃん、あの月さ……俺らを見てるのかな?」
ふいに蘇る声。
優しくて、小さくて、それでいて頼り甲斐のある声。
「……誰?」
何度思い出そうとしても、すぐに眠気が襲ってくる。
まぶたが重くなり、意識がぼんやりしていく。
忘れたくないのに、思い出せない。
まるで、誰かが「違う記憶を埋め込んでいる」かのように――。
第3節|かすれた痕跡
吉岡はずっと、母と二人で生きてきた。
……そんなはずだった。
しかし、母はもう長いこと病院で生活している。
毎週のように顔を見に行っているが、長く話せる日は少ない。
「お母さん、昔のこと、覚えてる?」
「昔……?」
母の顔にふっと影が落ちる。
沈黙が続いた後、母はかすれた声で言った。
「……お父さんが亡くなった時、私たち、二人きりになったのよ」
二人きり――?
吉岡は違和感を覚えた。
父は突然死だった。
ある日、何の前触れもなく命を落とした。
その時、母と二人で泣いていたはずなのに。
「二人きり」という言葉が、妙に引っかかった。
「私たち……二人きり……本当に?」
母は、父が亡くなった後、しばらく何かに怯えるような顔をしていた。けれど、その理由は決して語らなかった。
それなのに、なぜか吉岡の中には、小さな影が残っている。
「おい!姉ちゃんをいじめんな!!」
幼い頃、誰かが自分をかばってくれたことがあった。
自分より小さな体で、ためらうことなく相手に飛びかかっていった。
「バカ!やめて!大丈夫だから!!」
その背中を、確かに知っている。
でも、顔が思い出せない。名前も、声も、すべてが霞んでいく。
もし、本当にそんな人がいなかったのなら――
なぜ、この胸の奥はこんなにも締めつけられるのだろう?
第4節|現実と夢の狭間で
ある日、母の病室を訪れた際、古びた封筒がベッドの横に落ちていた。宛名は消えかかり、開封された形跡がある。
中には、一枚の便箋。
「姉ちゃん、元気?」
それだけ。差出人の名前はない。
でも、その文字はどこか懐かしく感じた。
心臓が早鐘を打つ。
母は、何かを隠しているのではないか?
それとも、自分が勝手に存在しない記憶を作り出してしまったのか?
「私は……本当に、弟なんていたの?」
現実と夢の狭間で、吉岡は立ち尽くす。
目を閉じれば、あの温もりが蘇る。
目を開ければ、世界は変わらず、何もなかったかのように続いている。
真実を知るのが怖い。
だから、また眠る。
まどろみの向こう側に、
まだ消え切らない記憶を抱えて――。
第3項
第1節|夢
光安は、55歳にして聖都大学を目指し続ける浪人生だ。彼は聖都東地区の花翁町に生まれ育ち、幼少期から「聖都大学に入ることが夢だ」と語っていた。彼にとってそれは、ただの目標ではなく、人生のすべてだった。
しかし、聖都大学の入試は難関だった。毎年のように受験に挑むものの、結果はいつも不合格。だが、彼は諦めなかった。何度失敗しようとも、「来年こそは」と気持ちを新たにし、再び試験勉強に励むのだった。
第2節|深夜の勉強仲間
夜、光安が勉強していると、隣の部屋から小さなすすり泣きが聞こえてきた。隣に住んでいるのは、小学生の男の子とその母親。
母親は病に伏せており、生活保護を受けながら静かに暮らしている。貧しい生活の中、男の子は母親を支えるために、今自分にできること——勉強を頑張っていた。
だが、その生活は厳しく、男の子は学校にも満足に通えないほどの貧しさに苦しんでいた。新しい教科書を買うこともできず、ボロボロになった古いドリルを抱えて、一人で学び続けていた。
その夜、算数の問題に行き詰まり、涙を流していた。
「僕も勉強中だから、一緒にやろうか?」
光安はそっと部屋をノックし、男の子の隣に座った。ノートを開き、丁寧に式をなぞってみせる。
「ここが分かれば、次も出来るようになるよ」
「……ほんとだ!」
目を輝かせる男の子。その姿に、光安は自分の幼い頃を重ねた。
「おじさん、先生みたい!」
「いやぁ、まず大学に入らないとね」
それからというもの、その子が困る度に光安の部屋のドアがノックされた。
「僕、ちゃんと勉強して、お母さんを助けたいんだ」
男の子の言葉に、光安は深く頷いた。
「じゃあ、一緒に頑張ろうな」
彼の勉強は、誰かの役に立っていた。
第3節|工事現場でのトラブルと意地
午後六時、光安は工事現場へ向かう。
「お、光安の兄貴。今日も元気か?」
「……受験生に“兄貴”はおかしいでしょう」
「いやぁ、ここのベテランだからな」
現場では、彼は「ミツ」と呼ばれていた。最初は「なんでこんなおっさんが受験勉強してんだ?」と笑われていたが、毎日図書館に通い、夜になれば現場で黙々と働く姿を見て、誰もが彼を認めるようになっていた。
「ミツ、ちょっとこっち手伝ってくれ!」
「分かりました!」
手際よく資材を運び、足場を組み、夜の街に響くトンカチの音に混じって彼の掛け声が飛ぶ。
そんなある日、新入りの若いバイトがやってきた。
「年寄りが、こんなきつい仕事やってんすか?」
光安を見て馬鹿にするように笑う。だが、光安は何も言わず、黙々と資材を運び続けた。
「なあミツ、たまには言い返せよ」
「いや、時間の無駄です。それよりきつい仕事でも、早く覚えた方が良い」
夜が更けるにつれ、若いバイトは疲れ果てていた。
しかし、光安はペースを落とさず動き続ける。
「……あの人、バケモンか?」
翌日、バイトの態度が変わった。彼は光安を真似して手際よく動き、休憩中には申し訳なさそうに話しかけた。
「すみません、俺、ミツさん舐めてました」
「いいんですよ。僕もまだ勉強中ですから」
第4節|町の住人たちの「ささやかな応援」
試験の数日前、町の空気が少しだけ変わった。
朝、パン屋「BLOOD & BREAD」に立ち寄ると、
飽君が無言で袋を突き出してきた。
「……?」
「試験前の限定品だ。頭に糖分がいるだろ」
受け取った袋の中には、見慣れないパンが入っていた。
「脳活パン……?」
ナッツやドライフルーツがぎっしり詰まった、エネルギー満点のパン。いつも無愛想な飽君が、わざわざ特別なパンを用意してくれていたことに気づき、光安はじんわりと胸が温かくなった。
「……ありがとうございます」
飽君は何も言わず、煙草に火をつける。
次に立ち寄った八百屋「七福商会」では、
藺草が当たり前のようにリンゴを2つ、袋に入れる。
「1個は試験の前に、もう1個は終わった後に食べな」
「えっ、でも……」
「いいから持っていきな。ミツちゃん、今年こそだよ」
藺草の大きくてしわの多い手が、袋を優しく押し出してくる。断る理由などなかった。
その夜、工事現場でも何かが違っていた。
作業が終わると、いつもはすぐに帰る仲間たちが、珍しく光安を囲んで座る。
「ミツ、ちょっと付き合え」
仲間の一人が差し出したのは、温かい缶コーヒーだった。
「お前が受かるかは知らねぇが、来年もこの現場にいたら笑うぞ?」
「いや……、受かりますよ!!」
いつもは軽口ばかり叩く連中だったが、今夜は妙に真剣だった。
「なんだよ、そんな顔すんな。受験勉強なんて、俺らには分かんねぇけどよ」
「でも、お前が毎年頑張ってんのは知ってるからな」
ゴツゴツした手が肩を叩く。
光安は手の中の缶コーヒーを見つめると、軽く笑って一気に飲み干した。
「……ありがとう、ございます」
第5節|試験当日の事件
試験当日。光安は飽君の「脳活パン」をかじりながら気持ちを落ち着ける。
「大丈夫、大丈夫……」
試験会場へ向かう途中、通学路で泣いている子どもを見つけた。
「お母さんがいないの……」
時計を見ると、試験開始まであと30分。
迷ったが、この子を放っておくわけにはいかなかった。
「……よし、一緒に交番まで行こう」
交番に到着し、警察官に事情を説明すると、ようやく子どもは安心したように涙を拭った。
「おじさん、ありがとう!」
時計を見る。試験開始まであと10分。
「間に合うか……?」
光安は全力で試験会場へ走る。
息が切れ、足が重くなる。それでも、止まるわけにはいかない。
ポケットに手を突っ込み、藺草からもらったリンゴを握る。
(……町の皆が、応援してくれてる)
飽君が無言で差し出したパン、工事現場の仲間たちの笑い声、藺草の優しい言葉…………
町の人々の暖かい顔が、脳裏を掠める。
握りしめたリンゴが、ほんのりと温かい気がした。
第6節|運命の試験
光安は席に座り、深呼吸をする。
「願いは叶う、今年こそ……」
静寂に包まれた試験会場で、彼は静かにペンを握った。
この日、光安の長い浪人生活に、ついに一つの答えが出る――
第4項|「新たなる決意」
第1節|冷えたビール
午後6時過ぎ。
パン屋「BLOOD & BREAD」の暖簾を下ろす。
「じゃ、先帰りまーす」
優愛がエプロンを外し、ひらひらと手を振りながら2階へ上がっていく。
飽君は軽く片手を上げて応えた。
店内にはもう誰もいない。
冷蔵庫を開け、ビールを一本取り出す。
カシュッ、と栓を開ける音が静かな店内に響き、ひと口。
喉を通る冷えた苦味が、仕事終わりの体に心地よく染み込んでいく。
ふと、昨日のことを思い出す。
——玄斎先生の特注で焼いた、やたらと長いバゲット。
蝉丸が「最長記録だぜ」とニヤついていたっけ。
そして、光安のために作った脳活パン。
「普通のパン屋じゃねぇな」
小さく笑い、もうひと口ビールを流し込む。
第2節|新たなる決意
だが、そんな「普通じゃねぇパン屋」をやっている自分が、最近どこか物足りなさを感じていることに気づく。
光安は28年間、聖都大学合格を目標にしがみついている。
夢を追い、必死に挑戦し続けている姿は、まるで過去の自分を見ているようだった。
——今の俺は、どうだ。
店は順調。客もついている。不自由はない。
だが、挑戦することもない。
極優會にいた頃、毎日はスリルと緊張の連続だった。
街を守るため、信じる道を貫くため、命を張る価値があった。
目の前に立ちはだかる壁を、拳と気迫でぶち破ってきた。
あの頃の俺は、確かに生きていた。
今は——どうだ?
穏やかで、静かで、何の波風も立たない日々。
それは確かに平和で心地いい。
だが——
「まだまだ、終わっちゃいねぇ」
飽君は空のビール瓶をカウンターに置いた。
冷蔵庫にはまだ何本か残っている。
だが、今日はもう飲まない。
店の片隅、新しいメニューのレシピが書かれたノートが目に入る。挑戦なら、ここにある。
極優會時代のようなスリルはなくても、まだやれることはある。
ゆっくりと立ち上がり、ノートを手に取る。
飽君の夜は、まだ終わらない。