第5章
第1項
第1節|土曜日の午後6時過ぎ
「BLOOD & BREAD」の店内には、焼き立てのパンの香ばしい香りがまだほんのりと残っていた。飽君はカウンターの奥で片付けを始め、優愛もそろそろ店仕舞いの準備に取り掛かる。
そんな時、店の扉がゆっくりと開いた。
「ボ、ボ、ボクはパ、パンが好きなんだな…」
不意に聞こえたのは、どこかのんびりとした、間の抜けた声。
飽君は眉をひそめ、入り口に立つ男を見た。
丸刈り頭にくたびれた半袖シャツ、短パンのポケットには色とりどりの画材が無造作に突っ込まれている。足元は裸足同然で、リュックサックは年季が入りすぎて形が崩れていた。
第2節|放浪の画家
「……なんだ? このこ汚いのは……」
飽君がぼそりとつぶやく。
しかし、優愛はその男の顔をじっと見つめた後、
「待って、この人って……あの人じゃない?」と何かに気づいたようにスマホを取り出す。
「誰だよ、あの人って?」
飽君は面倒くさそうに腕を組む。
優愛は器用にスマホを操作し、画面を飽君に見せた。
「あーーっ! やっぱそうだわ!!」
飽君は画面を覗き込む。そこに写っていたのは、
街角で絵を描く男の記事。
放浪の画家・精一。
流れ行く筆先が描く、幻の風景。
「……精一……放浪の絵描き……」
飽君が軽く舌打ちしながらスマホを返すと、精一は相変わらずのんびりした表情で、ぽつりと言った。
「ボクはお腹がすいたら、パンを食べるんだな…」
優愛はパン棚から、適当に選んだクロワッサンを手に取り、精一に渡した。
「ほら、食べな」
「い、いただきます」
精一は両手でパンを受け取り、大事そうに見つめた後、一口かじった。
「んんっ……!」
口いっぱいに頬張りながら、目を閉じて味わう。その表情は、まるで天にも昇るかのような幸福に満ちていた。
「お、おいしいんだな……!」
「ボクは、パンが……だ、大好きなんだな!」
はち切れんばかりの笑顔。
だが、次の瞬間、精一は申し訳なさそうに目を伏せ、しどろもどろになりながら言った。
「ボ、ボクはお金を、もっ、持ってません……」
飽君は腕を組んだまま、静かに言った。
「……だろうな」
「そ、その代わりに、え、え、絵を描きます!」
その言葉に、優愛がクスッと笑った。
「ふふふ! そりゃ楽しみだねぇ!」
第3節|精一の絵
精一はリュックからスケッチブックを取り出し、
カウンターに座ると、さっと鉛筆を走らせた。
スラスラスラ――
驚くほど滑らかな動き。筆を握るように鉛筆を持ち、迷いなく線を引いていく。
飽君は腕を組みながら、その手の動きをじっと見つめた。
静寂の中で、紙の上を滑る鉛筆の音だけが響く。
そして数分後――
「こ、これで、か、完成」
精一はスケッチブックのページを破り、飽君に差し出した。
飽君は半信半疑で受け取り、ゆっくりと視線を落とす。
「……まじか……」
そこに描かれていたのは、店内の風景ではなかった。
目の前に広がるのは、麦と希望、夢、そして未来を感じさせる、圧倒的な光景。
黄金色に輝く麦畑が風に揺れ、その一本一本が生きているように描かれている。遠くには朝日が昇り、空には希望の光が差し込んでいる。
まるでその風を感じられるようなダイナミックな筆致――だが、一本一本の麦の穂には繊細な線が施され、まるで絵の中で本当に呼吸しているかのようだった。
光の表現は幻想的でありながらも現実味を持ち、見る者の心を引き込む。まるで、まだ見ぬ未来の情景を映し出しているかのように。
「……これは……」
飽君は言葉を失ったまま、その絵を見つめ続ける。
優愛も横から覗き込み、しばらく無言だった。
そして、ゆっくりと口を開く。
「すごい……この絵……なんか、未来が見えるみたい」
精一はにっこりと笑った。
「こ、これが、ボ、ボクの、ありがとう…なんだな」
飽君はしばらく黙ったまま、絵をじっと見つめた。
やがて、静かに口を開く。
「……こいつ、ただの放浪者じゃねぇな」
第4節|別れと贈り物
優愛はパンの袋を手に取り、精一に手渡した。
「ほら、お土産だよ。お腹がすいたら、また食べな!」
「ボ、ボクに……? い、いいのかな?」
「当然!こんな素敵な絵をもらったんだから、これはお礼だよ!」
飽君は腕を組んだまま、精一をじっと見つめる。
「……花翁町に来ることがあったら、また来いよ」
精一はにっこりと笑い、パンの袋を抱えながら店を後にした。
そして、彼の残した絵は――
「BLOOD & BREAD」の店内に、今も飾られている。
第2項|「有り得ないパンへの挑戦」
第1節|日曜日午後6時過ぎ。BLOOD & BREAD、閉店。
パンの焼けた香ばしい匂いが、まだ店内にほのかに残っている。外の通りは、人通りもまばらになり、街灯がゆっくりと夜の支度を始めていた。
飽君は、カウンターの奥で腕を組み、静かに考え込んでいた。
翌日は月曜日――BLOOD & BREADの定休日。しかし、パン屋にとって”休み”とは名ばかりだ。長時間発酵のパンを焼くため、前日から仕込みが必要になる。
実際のところ、週に唯一の完全休業日は日曜日だけだった。月曜日を開けるとすれば、前日の仕込みを日曜日にしなければならないが、それは現実的ではない。
だからこそ、新作の試作をするなら月曜日しかない。
そして今、飽君の目の前には、一枚の絵があった。
精一の描いた麦畑。そこには、しっかりと根を張り、風に揺れながらも決して折れない麦が描かれていた。
それは、単なる植物ではなかった。生命そのもの――強く、大地に根付いた存在。
何より、その麦は黄金の光を放っていた。
大きな青空ですらかき消すほどの輝き。それは、ただの陽の照り返しではない。麦という存在が持つ、生命の力そのものだった。
飽君は、拳を握った。
光安が28年もの間、挑戦を続けてきたように。
精一が魂のすべてを込めて、一本の麦に命を吹き込んだように。
「……俺は、本当にパンにすべてを賭けているのか?」
その問いが、胸の奥でじわじわと広がっていく。
これまで、焼く事に満足していたか?職人としての誇りを持っているつもりだったが、それはただの自己満足ではなかったか?
だが、答えはもう目の前にあった。
この絵の光を、そのままパンに宿らせる。それが「有り得ないパン」への第一歩。
飽君はゆっくりと立ち上がり、袖をまくると、粉袋に手を突っ込んだ。
「……やるか。」
月曜の仕込みと共に、このパンを試作する。
黄金に輝く、生命そのもののパンを焼く。
第2節|夜の前祝い
優愛が階段を降りると、飽君はカウンターに肘をつき、何かをじっと考え込んでいた。普段の飄々とした雰囲気とは違う、真剣な表情に少し圧倒される。
久しぶりに、いい顔してんじゃん…
心の中でそう思いながら、軽く笑って声をかける。
「ねぇ!飽君!」
飽君が顔を上げると、優愛は楽しげに続けた。
「今日、天屋碗屋!飲みに行こうよ!明日は休みだし!」
飽君は少し考えたあと、心の中で「試作を前に、いっちょ景気付けて行くか!!」と決めた。そして、ニヤリと笑いながら力強く宣言する。
「おっしゃ!!前祝いじゃ!!」
「え?何の?何の祝いよ??」
優愛が怪訝そうに尋ねるが、飽君はふっと口角を上げる。
「へへ、いいからいいから!!」
適当に誤魔化す飽君を見て、優愛は肩をすくめる。
「その前に俺達、粉まみれだ。昌樹んとこできれいにして行こうぜ!!」
「良いね!大賛成!!」
飽君は伸びをしながら、軽く服についた粉を払う。
「ちと、着替えて来るわ!!」
言葉を残し、飽君は勢いよく階段を駆け上がっていく。
タッタッタ…
優愛はそんな彼の後ろ姿を見ながら、小さく笑った。
やっぱり、いい顔してんじゃん…
第3項
第1節|戦場にて候
湯気が立ち込める銭湯「孤狼」。
木製の引き戸を開けた瞬間、懐かしい石鹸の香りと、微かに混じる薪の香りが鼻をくすぐる。
「カランコロン……」
木の引き戸を開けると、湿った熱気とともに、微かに薪の香りが漂ってきた。
「御両人、お久方で御座います。」
番台の上で腕を組み、鋭い目つきで迎えるのは、孤狼の主・
超短髪の白髪が光を反射し、青と金色の法被には狼の刺繍が鮮やかに踊る。
痩せているが無駄のない筋肉質な体つき、無駄のない言葉。そして、無駄のない動き。
「昌樹、誠に、しかるであります。」
俺は懐から小銭を取り出し、番台に置く。
「優愛と俺の銭湯代だ。良い湯を頂こう。」
昌樹は無言でそれを掴むと、カチリと勘定箱に放り込んだ。
「誠に、然るべき事あいなり候。」
「しかり、畏まりまして御座る。」
その言葉に、優愛がクツクツと笑う。
「相変わらず硬ぇな、昌樹。まあ、ここの湯は硬派な男にゃちょうどいいか。」
「言わずとも、拙者の湯は
昌樹の目がギラリと光る。
戦場か――確かに、湯に浸かるその一瞬すら、気を抜くことはできない。
俺と優愛は互いに無言のまま、暖簾をくぐった。
湯気が立ち込める浴場へと足を進める俺と優愛。
こうして二人で銭湯に来るのは久しぶりだ。
「しかし、久々だな。こうやってゆっくり湯に浸かるのも。」
「そうだな。最近はパン屋のことばっかだったしな。」
優愛が肩を回しながら答える。
「お前、肩凝ってんじゃねぇの?」
「まあな。パンの仕込みも力仕事だし……あと、お前が適当にやってる分、あたしが色々やらなきゃいけねぇからな?」
「……聞こえねぇな。」
「ハッ、都合の悪いことは聞こえねぇんだろ?」
優愛が呆れたように肩をすくめる。
「ま、今日はそんな話は置いといて、ゆっくりしようぜ。」
「おう。」
のれんの前で立ち止まり、俺と優愛はそれぞれの方向へ向かおうとする。
――ふと、悪戯心が芽生えた。
「なぁ、優愛。」
「ん?なに?」
「……覗いてもいいか?」
一瞬の静寂。
それが嵐の前触れだと、俺はすぐに理解した。
「殺すぞボケ。」
次の瞬間、俺の視界がぐるりと回り、衝撃と共に背中が銭湯の壁に叩きつけられた。
「ッ……お、おい……ちょっとした冗談だろ……?」
「冗談で済むと思ってんのか?」
優愛は拳を鳴らしながら、こちらを冷ややかに見下ろす。
「……湯に入る前に血を流すところだったな。」
「おう、ありがとな……風呂上がりのビール、お前の奢りな。」
「ふざけんな。」
俺が壁に叩きつけられた衝撃がまだ身体に残る中、優愛は何事もなかったようにのれんをくぐり、湯気の向こうへ消えていった。
俺は壁に背を預けながら、ぼんやりと天井を見上げる。
――やりすぎだろ、マジで。
そんな俺の様子を、番台の上からじっと見下ろしていた昌樹が、腕を組みながら低く唸るように一言。
「うむ。」
……なんだその納得したような顔は。
第2節|振り返る、湯
「ザバァ……」
静かに湯に沈み、肩まで浸かると、じんわりと身体が温まり、湯気が肺の奥まで染み込んでいくようだった。
久々の銭湯。やはりこの瞬間は、何にも代えがたい。
目を閉じる。
最近、忙しかったな……。
パン屋の仕事、町の騒動、昔の知り合いとの再会――
色々なことが重なり合って、息をつく暇もなかった。
気づけば、ずっと優愛と一緒にいる。
昔からだ。
あいつがいなかったら、俺はもっと無茶な生き方をしていたかもしれねぇ。
「……考えすぎか。」
湯の表面が波を立てる。
一方、女湯では――
優愛もまた、静かに湯に浸かりながら、ぼんやりと天井を見上げていた。
湯気の向こうで、小さく反響する人の話し声と、湯が流れる音。
「……たまには悪くないね、こういうのも。」
呟きながら、そっと目を閉じる。
パン屋の毎日。
無茶をしながら突っ走る飽君を支える日々。
笑ったり、怒ったり、時には殴ったりしながら、それでも今まで一緒にやってきた。
「……アイツも少しは落ち着いたのかねぇ。」
いや――たぶん、これからも変わらないだろう。
きっと、また無茶をやらかす。
でも、それを止めるのが、あたしの役目なんだろうな。
目を開ける。
ぼんやりと湯気の向こうを見つめながら、深く息を吐いた。
最高の湯だった。
男湯でも、女湯でも、それぞれの想いを抱えながら、二人はしばし静寂を楽しんでいた。
湯から上がり、しっかりと身体を拭いた俺と優愛は、浴場を出ると同時に、夜の冷たい空気を感じた。
「ああ……すっかり、身体も心も汚れが落ちたな。」
優愛がタオルで髪を拭きながら、深く息を吐く。
「やっぱり風呂はいいな。特に、ここの湯は最高だ。」
「おう、そうだな。」
第3節|銭湯上がりの一杯
俺も肩を回しながら同意する。やはり、たまにはこういう時間も必要だ。
すると、優愛がクイッと指を立てて、番台の昌樹に向かって声を張った。
「優愛、昌樹!アレちょうだい!」
昌樹は、一瞬も迷うことなく、深く頷く。
「畏まりまして御座る!」
次の瞬間――
スタタタタタタ……!
昌樹は番台を飛び越え、冷蔵庫へ一直線に走る。動きが無駄なく、速い。
戻ってくると、手には一本の瓶。
「優愛殿、これに。」
「うむ!!」
優愛は勢いよく瓶を受け取り、
キャップをポンと外すと、一気に喉へと流し込んだ。
ゴクゴクゴク……
喉を鳴らしながら、一息で飲み干す。
「……ぷはっ!」
そして、満足げに瓶を掲げた。
「昌樹よ!これは上物じゃな!」
昌樹は誇らしげに笑う。
「はは!花翁乳業直送のソレで御座います。」
「うむ!」
優愛は満足げに頷く。
そんな様子を見ながら、俺もひとつ指を立てた。
「昌樹よ、わしにはアレをくれい。」
すると――
昌樹の表情が一瞬で引き締まる。
「……。」
静かに、しかし確実に、危険の匂いを察知する昌樹。
――まさか、まさか、アレとは……。
ほんのわずかに、彼の額に汗が滲んだ。
「ん?どうした昌樹よ。ほら、アレじゃ!」
俺は期待に満ちた眼差しで昌樹を見る。
しかし、昌樹は苦渋の表情を浮かべ、僅かに後ずさる。
「いや、しかし……優愛殿も居られますし……」
彼の視線の先では、優愛がドライヤーで髪を乾かしている。ブォォと響く風の音が、俺たちのやりとりを遮っている。
これを逃す手はねぇ。
俺はズイッと昌樹に詰め寄り、低く囁く。
「うむ!!!昌樹よ!隠密じゃ!!」
昌樹の喉がごくりと鳴る。
「な、なんと?」
「うむ!!死して屍拾う者無しじゃ!!」
堂々たる言葉を残し、俺は手を差し出す。
昌樹は目を閉じ、長く深いため息をついた。
……そして、心の中で叫ぶ。
(飽君、今後一切来なくて良いのでは?)
(いや、むしろてめぇが屍になれや!!)
(何が隠密じゃ!!バレたら確実に死ぬのは拙者である!!)
しかし、俺の決意を知る男、昌樹は、
ゆっくりと冷蔵庫へ向かった。
ゴクリ……
慎重に扉を開け、中から一本の瓶を取り出す。
極限まで冷えた、金色の液体――
「ビール」
昌樹は、まるで時限爆弾を手渡すかのように震えながら、俺にそれを差し出した。
「……飽君、これに御座る。」
「うむ!!」
俺は迷うことなく受け取り、栓を開けると、一気に喉へと流し込んだ。
「……クゥゥゥゥッ!!!」
五臓六腑に染み渡る!!
これこそが、風呂上がりの至高!!!
その時――
「……あんたら、なにコソコソやってんの?」
――ドライヤーの音が止んだ。
優愛が振り返り、目を細める。
昌樹の顔は一瞬で蒼白になり、俺もまた、瓶を持ったまま硬直した。
「……。」
「……飽君?」
「……。」
……死して屍拾う者無し。
この言葉が、まさか己に向けられるとはな。
第4節
夜の花翁町に、提灯の灯りがぼんやりと揺れる。商いを終えた職人や商人たちが、憩いの場として足を運ぶのが、この「天屋碗屋」だ。
店の暖簾をくぐると、焼き魚の香ばしい匂いと、煮込みの深い香りが鼻をくすぐる。賑わう店内には、常連客たちの笑い声が響いていた。
「ほら、入るぞ。」
飽君が無造作に暖簾を押し上げると、後ろにいた優愛が鼻で笑いながらついてくる。
「ちょっと、もうちょい丁寧に入りなさいよ。」
「知ったこっちゃねぇ。」
そんなやり取りをしていると、カウンターの奥から元気な声が響いた。
「あぁーーー!!!優愛姉ちゃん!!っと飽君!!!」
威勢よく手を挙げるのは、この店の店長
「しゃっせぇー!!さぁ座りない!今日もいい酒と肴用意してっから!」
環はぱっと笑顔を見せながら、二人をいつもの席へと案内する。その手際の良さは見事なもので、すでに冷えたジョッキのビールと、小鉢のつまみが並んでいた。
「……相変わらず、いい店だな。」
飽君が静かに呟くと、優愛がふっと笑った。
「当たり前でしょ。ここは、あたしたちが安心して飲める場所なんだから。」
環がニヤリと笑う。
「さて、今日はどんな話が聞けるのかねぇ? 楽しみにしてんよぅ、飽君、優愛姉ちゃん。」
賑やかで、温かい夜が始まる。
飽君がぐいっとジョッキを傾け、一気に喉を鳴らす。冷えたビールが喉を流れ、胃に染み渡る感覚に思わず声が漏れた。
「ぷはぁぁーーー!!!最初の一口は最高だの!うぃうぃ!」
環がニヤニヤしながら、ジョッキを拭きつつ口を挟む。
「おいおい、飽君、それもう“最初”じゃなぃでしょ?」
すると、すかさず優愛がツッコミを入れた。
「てめぇは、さっき飲んだだろが。」
飽君は気にした様子もなく、にやっと笑いながらジョッキを軽く揺らす。
「細けぇことはいいんだよ。ビールは毎回が、最初の一口みてぇなもんだろ?」
環は腹を抱えて笑い、優愛は呆れながらも自分のビールを口に運ぶ。
「まったく、呑兵衛ってのは……。」
こうして、天屋碗屋の夜はいつものように賑やかに、更けていくのだった。
杯を重ねるごとに、二人の会話はどんどんくだらない方向へ流れていった。
環が横で聞いていても、なんの話をしているのか分からないような、どうでもいい内容ばかり。
けれど、それが心地よかった。
酔いが少し回り、ふっと沈黙が訪れたとき、飽君がぽつりと呟く。
「……明日、新作に挑戦しようと思う。」
優愛がジョッキを持ち上げかけた手を止め、ちらりと飽君を見た。
「ん?そか……。」
それだけ言って、また静かにビールを飲む。
けれど、優愛は分かっていた。
さっきから飽君の表情がどこか晴れやかだったのは、きっとこのことだったんだ、と。
考え事をしている顔じゃない、期待と少しの高揚感が混じった、あの 良い顔 は。
「……そっか。」
微笑みながら、優愛はジョッキを置いた。
「手伝えることあったら、連絡してね。」
飽君は一瞬だけ優愛を見て、照れ臭そうに笑いながら、
「……あぁ。」
そう短く返す。
二人の間に流れるのは、言葉にしなくても分かるような、不思議な空気だった。
環が突然、後ろから元気な声を響かせる。
「はいーーーーー!!今日の常連さんのサービスです!!」
バンッと勢いよく置かれた皿には、山盛りの唐揚げ。
外はカリッと、中はジューシーに揚がった黄金色の唐揚げが、熱気とともに立ちのぼる香ばしい香りを放っている。
「おぉ、これは……!」
飽君が目を輝かせ、思わず身を乗り出す。
「うちの自慢の特製唐揚げ!今日は多めに仕込んだから、サービスしちゃうよ!」
環がニヤリと笑い、優愛もくすっと笑いながら箸を手に取る。
「こりゃ、ありがたいね。いただきますか。」
「おう、いただくぞ!!」
飽君が一つつまみ、熱そうにしながらも一口かじると、ジュワッと肉汁が溢れた。
「……くぅっ!相変わらずうめぇな!!」
「でしょ?」
環が誇らしげに腕を組む。
「この味がある限り、うちの店は安泰よ!」
二人は笑いながら唐揚げをつまみ、酒をぐいっ!と煽る。
こうして、ますます杯が進み、天屋碗屋の夜はさらに賑やかに更けていった。