ヴィルヘルム通りに面する大聖堂では、ミラが精力的に教皇の仕事に取り組んでいた。
彼女は自分の父が失墜させた教皇の権威の回復を、またその贖罪の日々を過ごしていた。
そのおかげもあり、少しずつ教会という組織自体に対する信頼は戻り始めていた。
「ご命令通り、教会に対する民衆の声を集めてまいりました」
「ありがとう。そこに置いてくれるかしら。後でじっくりと見るわ」
「畏まりました。では失礼いたします」
「ええ、ご苦労だったわ」
ミラの元にやってきた修道女は一礼し、部屋を去った。
彼女が出ていったことを確認し、ミラは彼女が置いていった資料に手を伸ばした。
資料をパラパラと読む彼女の目には、真剣な光が根ざしていた。
「……私たち教会に対する信頼は、少しずつ、でも確実に回復できているようね。しかしまだ完全には回復しきっていないのが事実。教会は困っている人の拠り所となるべき場所だから、まだ対策を講じる必要があるわね。教皇というのは、大変な仕事ね。ヨーゼフ猊下の偉大さを、改めて実感しているわ……」
ミラはそっと資料を閉じ、机の上に置いた。
そのまま彼女は立ち上がり、本棚に格納された分厚い本を一冊取りだす。
それは一般人向けに編纂されていない、原典そのままの聖書の写しに注釈をつけたものであった。
ミラが教皇になってから、初めて閲覧を許されることになった原典の聖書。
そこには、今までの彼女が知らなかった、驚きの連続のような内容が多く書かれていた。
その中に彼女は、問題解決の鍵となる案を探していた。
「きっと、教会の権威を回復するにはルフレイを利用するのが手っ取り早いでしょう。でも、彼は神の使徒とは言え、旧来の教会制度の枠からは逸脱した存在、簡単に当てはめるわけにはいかないわ。ルフレイの神権を最大限に発揮するには、やはり聖書の改定が必要……でも、その根拠となる事実が必要なのよね」
ミラは重たいその原典を元の棚に直し、小さくため息を付いた。
彼女が教皇になったときより画策している、神聖イレーネ帝国皇帝と教皇の権力の統合。
教会をも神聖イレーネ帝国の下に置くことで、その地位を皇帝に、神の使徒に守られた不変のものとしようとしたのであった。
「国教会」構想……皇帝と教皇を共同首長とし、共同で指導に当たる……。
これにより国民の皇帝への信頼も更に強くなり、神聖イレーネ帝国は揺るぎないものとなるであろう。
帝国にとっても、教会にとっても、双方にとって利益のある話なのであった。
「そう言えば、普段は異端として見ることなんて無いけど……」
そう言ってミラが手を伸ばしたのは、古い紙を束ねたみすぼらしい書であった。
だが、それは作成年代から何まで不明な幻の書物であった。
それと同時に、代々の教皇によって隠匿、忌避されてきたものであり、誰も内容を知らなかった。
古い表紙に、消えかかったインクで書かれたアルファベット。
そこには『New Testament Apocrypha』、直訳すると『新約聖書外典』であった。
殆どが剥げ落ち、破れ、不完全な姿である新約聖書外典は、数多の時へて再び開かれようとしていた。
「全部神聖文字ばっかり……何も読めないわね。解読を頼まないといけないわね」
神聖文字……それは教会におけるアルファベットの呼び名であった。
この神聖文字を鋳型として、簡素化して現在の文字が成り立っている。
だが、その逆を行うことはもはや誰にも不可能であった。
新約聖書外典……その名が示す通り、この本は新約聖書、つまり彼女の前にある聖書の原典の外典である。
教会で正典として認められていないのでこのような扱いになっているが、外典であろうとれっきとした宗教の本であった。
そして新約聖書……これは旧文明世界にもまた旧約聖書があることを指し示しているのだが、ミラがそのことに気がつくことはなかった。
新約の約とは神との契約、つまり新約とは新たなる、神との契約を意味する。
それは旧時代の契約である旧約と比較されるものであり、キリスト教とユダヤ教の間にも見て取れることができる。
そしてこの新約における契約とはルフレイとイズンの契約を、そして旧約は……始祖王とイズンの契約を意味していた。
これらの断片の多くは、ハインリヒ聖王国近くの洞窟の中で、素焼きのツボに入った状態で発見された。
その後一部は各地に分散してしまっていたが、ミラの代に於いてその全てが再び合集された。
彼女はこの恐ろしくも魅力的な書物に、並々ならぬ期待を寄せていたのであった。
「ルフレイであれば分かるわよね、きっと。後は国防軍の人の中にも神聖文字を読むことができる人がいるらしいけれども、どうやって学んだのかしらね? 私も自らの手で読むことができるようになりたいわね……教えてもらおうかしら?」
ミラはそう言いながら、宮殿に持っていくために厳重な鍵をかけたうえでトランクにしまい込んだ。
歴代の教皇たちにとって見れば外典は忌避すべきものであったが、彼女にとっては関係ない。
むしろ神の使徒による解釈と説明が、今後の教会、ひいてはイズン教においても有意義に働くと考えていた。
そしてその結果がどうであろうと、ミラは全てを現実として受け止める覚悟ができていた。
例え今までに学んできた全ての協議、道理がひっくり返されようとも。
新約聖書外典はそれほどの魅力をミラに与えたのであった。
「覚悟は決まったわ。さぁ、今こそ秘匿された外典のヴェールを剥がし、イズン教に新たな光を取り入れるときよ。大丈夫、私は上手くやれるはず。そうよね、ペトラ姉さま?」
ミラは覚悟を決めながらも、最後は少し寂しそうに姉の名を呼びながら窓の外を見上げた。
だがそんな不安な気持ちを振り切り、彼女は解読への第一歩を踏み出すのであった。