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第11話 泉のほとりにて

 森の奥へと進むにつれ、空気が静まり返っていく。鳥の声も、風の音も、まるで息を潜めたようだった。

 歩くたびに足音がやけに大きく感じられて、誰かに見られているような心細さを覚えていた。


 ──だけど、突然だった。


 視界が開けた瞬間、神秘的な光景が広がった。


 澄み切った泉。透明な水面には木漏れ日がきらきらと反射し、優雅に泳ぐ小魚たちがその下を流れていく。岸辺には草花が揺れ、色とりどりの木の実が、風に落ちてはやさしく地面に転がっていた。


りこ「わぁ〜……きれ〜い!」


 莉子の歓声が森に響いた。さっきまでの緊張も、疑いも、悲しい出来事も、その声で洗い流されたようだった。れいは、莉子の無邪気な表情を横目に見て、少しだけ微笑んだ。


母山羊「ここが泉です」


 母山羊が、静かにそう言った。


母山羊「私はこれから食べ物を探しに行きますので、皆さんはここで体を流して、休んでいてください」


 れいは母山羊を心配して、声をかける。


れい「あ、あの、大丈夫ですか?」


 なんとも言葉足らずで気も利いていない聞き方に、れい自身も、

れい(な、何聞いているんだ…そんなの大丈夫なわけ…ないじゃないか…)


 そう思っていると母山羊が


母山羊「…気をつかっていただいて、ありがとうございます。でももう大丈夫ですよ」


 母山羊は優しい声でそう返すと、子ヤギたちの方に向き直り、穏やかに微笑んだ。


母山羊「おかあさんは食べ物をとりに行ってくるから、いい子にしてここで待っているんだよ」


子ヤギ(水色)「はーい!」

子ヤギ(黄色)「おかあさんもきをつけてね!」


 子ヤギたちは一斉に声を揃えて返事をし、母山羊は満足そうに頷いて、森の奥へと消えていった。


 残された子ヤギたちは、自然と道後のまわりに集まり、ぴょこぴょこと首をかしげて問いかけてくる。


子ヤギ(桃色)「パパたちは、これからなにするの?」

子ヤギ(黄色)「ねぇねぇ! なにするのーパパ?」

どうご「だから! パパって言うんじゃねぇ!」


 道後が叫んでも、誰もツッコまない。すでにその呼び名が定着しているようだった。


りこ「これから私たちは水浴びするんだよ〜」


 莉子が笑顔でそう言うと、子ヤギたちの瞳が一斉に輝いた。


子ヤギ(黄色)「えっ!いいな〜!いいな〜っ!」


 しっぽを振って跳ね回る子ヤギたち。そんな様子に音羽が微笑み、静かに声をかける。


おとは「……よろしければ、一緒に水浴びしますか?」


子ヤギたち「するーーーっ!!!」


 全員が揃って叫び、わらわらと跳ねるように泉の方へ向かおうとする。


 莉子はくすくすと笑い、音羽の手を取って小さく振った。


りこ「じゃあ私たち、先に体を流してくるから」


 それを聞いた幸人が静かに立ち上がる。


ゆきと「あぁ。僕たちは泉に背を向けて、この周囲を警戒してるよ。もし何かあれば呼んでくれ」


 だが莉子は、じっと男性陣を睨みつけるように見渡し、声を潜めて凄んだ。


りこ「……わかってると思うけど…。もし、覗いたら、私の《代価の契約(バーストレード)》で何を犠牲にしてでも呪うからね」


どうご「んなチンチクリンな体、誰が見んだよ」


 道後が呆れたように言うと、莉子は静かに言った。


「………道後、ちょっとそこの木に《守護輪廻(ガーディアンリレー)》かけてくれない?」


どうご「あ?なんでだよ…」


りこ「まぁ、いいからいいから」


どうご「……守れ!《守護輪廻(ガーディアンリレー)》!ってこれになんのい……」


 道後が木に能力を発動したその瞬間──


どうご「っが……!!?」


 目の前で、道後が股間を両手でおさえて崩れ落ちた。


れい「ど、どうごくんっ!?」


 れいが慌てて駆け寄ると、道後は地面に膝をつき、白目を剥いてうめいていた。


どうご「き、きたねぇぞ……りこ……」

りこ「ふん、覚えておきなさい!」


 莉子がさも当然のように言い放つ。


 神威が首をゆっくりと振って小さく息を吐いた。


かむい「……莉子殿、音羽殿。ここは俺が見張っておくから、安心して水浴びをしてきてくれ」


 神威の静かな申し出に、莉子も音羽も素直に頷いた。


りこ「じゃ、じゃあ……お願いしようかな。終わったら声かけるね」


 そのまま莉子は音羽と視線を交わし、手を引きながら泉のほとりへと歩いていく。

 ふたりの後ろには、ちょこちょことついてくる子ヤギたちの姿があった。


 泉の水面は静かに揺れ、木漏れ日の粒が反射して、まるで無数の宝石が踊っているようだった。


おとは「……まぁ、本当に綺麗ですわ……!」


 音羽が思わず息を呑む。普段の凛とした雰囲気からは想像もできないほど、ウキウキしているのがわかる。


 莉子もまた、そっと靴を脱ぎ、裾をまくりながら泉に足を入れる。冷たい水が肌に触れた瞬間、思わず小さく声が漏れる。


りこ「ひゃっ……つめたっ!」


 だがその声すらも、少女らしい明るさが滲んでいた。


 音羽も続いて水に足を浸けた。驚いたようにわずかに眉を上げたが、すぐに表情を緩める。


おとは「……けれど、気持ちいいですわ」


 澄んだ水が、二人の足元を優しく撫でていく。草花に囲まれた泉は、外界とは切り離された聖域のようで、風も光もどこか柔らかい。


 子ヤギたちはもう、我慢できないと言わんばかりに、ぴょーん!と飛び跳ねて泉へ入っていった。


りこ「きゃっ、ちょ、子ヤギちゃんたち、はしゃぎすぎ〜っ!」


子ヤギ(水色)「おみず、ぴちゃぴちゃしてる〜っ!つめたくてきもちい〜!」

子ヤギ(桃色)「お姉ちゃんたちも、もっとお水かけてー!」


 子ヤギたちが前足で水を跳ね飛ばし、まるで噴水のように水しぶきが弧を描いた。その水は莉子の頬に当たり、髪先からしずくが伝う。


りこ「もぉ〜……あははっ! やったな〜、こっちもやり返しだよ〜っ!」


 莉子が小さな両手で水をすくって子ヤギたちにかけ返す。水しぶきと笑い声が泉いっぱいに広がっていく。


 音羽は少し離れた場所で、そっとスカートの裾をまくり、膝まで水に浸かったまま子ヤギたちの様子を微笑ましそうに見つめていた。その表情はどこか母性的で、心の底から楽しんでいるようだった。


 だが──子ヤギ(桃色)が、ぴょこんと近づいてきて、音羽の手をぺろっと舐めた。


おとは「ふふっ……くすぐったいですわ」


 思わず口元を押さえて笑う音羽に、他の子ヤギたちもじゃれつくように寄ってきて、音羽の両足の間でばしゃばしゃと遊びはじめる。


おとは「ちょ、ちょっと……あ、あまりはしゃがないでくださいませ……!」


 音羽が、慌てて声を上げる。その姿を見た莉子が吹き出した。


りこ「あははっ、音羽ちゃん、顔真っ赤になってるよ〜!」


おとは「なっ……なっていませんっ!」


 頬を膨らませて否定する音羽だったが、濡れた髪が頬に張り付き、その白い肌は確かに薄紅に染まっていた。


 やがて、子ヤギたちが少し疲れてきたのか、泉の浅瀬に寝転びながら、ごろごろと水面を漂わせるように遊び始めた。


 莉子は髪を後ろで束ねて、音羽の隣に腰を下ろす。


りこ「……ちょっとだけ、時間を忘れちゃいそうだね」


おとは「……ええ。こんな穏やかな時間……なぜか久しく感じますわ」


 二人の間に、静かで柔らかな時間が流れる。

 風が揺らした木々の葉が、きらきらとささやくように揺れていた。


 ──この瞬間だけは、恐怖も、疑念も、すべて遠く感じられた。


 音羽はふと、隣で笑っている莉子を見つめる。その笑顔は、どこまでもまぶしく感じた。


 音羽はそっと水をすくい上げた。冷たい水が、指の隙間から音もなく流れ落ちていく。


 子ヤギたちも水遊びに満足したのか、水辺から上がり始めたのを見て、


りこ「幸人たちの所に戻ろっか」

おとは「えぇ。そうですね」


 そう言い、子ヤギたちを連れ、泉を後にした。


 そして──その時間を少し遡る。


 ▽▽▽▽▽


 彼女たちの足音が聞こえなくなったくらいに

 泉に背を向けたまま、幸人が道後に言った。


ゆきと「……バカだな」


どうご「うるせぇ……」


 呻きながら地面を這う道後を見て、神威はため息をついた。


 やがて数分が経ち、ようやく道後が立ち上がった。


どうご「……ひでぇ目にあった……」


 れいが心配そうに「だ、大丈夫……?」と声をかけると、道後はやれやれと肩をすくめる。


 そんなやり取りを終えた頃、幸人がぽつりと呟いた。


ゆきと「なぁ……今日も、狼は来ると思うか?」


 静かな一言が、空気を引き締めた。


どうご「来ても、俺がまるっと全員守ってやるよ」


 強くそう言い切った道後だったが──


どうご「……チッ」


 次の瞬間、唇を噛んで目を伏せる。


どうご「今度こそは……守ってみせる」


 れいはその言葉に、確かに滲む覚悟を感じた。


れい「も、もし……狼が来たら、ど、どうするの?」


ゆきと「……戸を開けてみようと思う」


 静かに、しかし決意を込めて幸人が答える。


ゆきと「その戸を開ける前に、道後。皆に《守護輪廻(ガーディアンリレー)》をかけてほしいんだ」


 それを聞いた道後は下を向き、険しい顔で答えた。


どうご「……俺の力には、弱点がある」


 道後の言葉に、れいは首を傾げる。


れい「……じゃ、弱点?」


どうご「ああ……多分だが、守る対象が多くなると、守る力が弱くなるんだ。それに、俺よりでかい対象には力が薄まる。昨日、小屋全体を張ったときに気づいた」


れい(……僕と同じだ。自分の力を知ろうとしてる)


 れいの胸に、微かな共感が芽生えた。


ゆきと「そうか。───それなら、戸に近い者だけを守ってくれ」


どうご「……ああ、それならできると思うぜ」


ゆきと「……あと、神威。お前には最後の切り札を頼みたい」


 神威は無言で頷いた。


 ──そのときだった。


 △△△△△


 現代に戻る────


 ───足音と共に声が聞こえてくる。


りこ「ふわぁ〜っ、さっぱりしたー!」


おとは「とても気持ちよかったですわ!」


 泉の方から莉子と音羽の声が響いた。


 濡れた髪を拭きながら戻ってくる莉子と音羽。

 子ヤギたちはぶるぶると水を震わせながら駆けてくる。


れい「わっ……!」


 れいは跳ねた水滴に思わずよろける。


 皆が少し濡れた程度だったが、なぜか道後だけがびしょ濡れだった。


どうご「……おい」


 にじむ怒気に、全員が吹き出す。


どうご「わらってんじゃねぇぞーー!!」


 怒鳴る道後の声も、笑い声にかき消された。


りこ「あははっ!あんたたちも濡れたついでに水浴びしてきたら?」


 莉子の冗談に、音羽も微笑んで言う。


おとは「次は、私たちが見ててあげますわ」

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