ゆきと「……少し、話をしないか」
その声に、小屋の中の空気がぴんと張る。れいは幸人の顔を見る。いつも冷静で理性的な彼が、珍しくわずかな焦りを滲ませていた。
ゆきと「今の状況を、皆で整理したい。違和感とか、気になったこととか……ほんの些細なことでもいい。能力で気づいたことでも、なんでもかまわない」
全員が静かに頷く中、幸人は言葉を続けた。
ゆきと「俺もいくつか気づいたことはある。でも、それだけじゃ……たぶんこのままじゃ、“完結できない”」
その言葉に、音羽は一瞬呼吸が止まりそうになる。
音羽の隣で莉子が、眉をひそめて手を挙げた。
りこ「……狼がなんで襲ってこないのか?みたいなこと?…童話だと、戸を開けるとすぐに食べられちゃうってイメージあるけど……」
ゆきと「ああ、そうだ。俺の知ってる童話の展開とも……初日からズレてた」
莉子が唇に指を当てて考え込む
りこ「…んー…」
すると、道後が面倒くさそうに頭をかく。
どうご「なぁ、難しく考えすぎなんじゃねぇの?さるが言ってたじゃねーかよ。これは、じょ…なんたらで、比較的簡単な物語だって。狼をぶっ倒しゃ終わりだよ」
その言葉に、幸人は目を伏せたまま内心で呟く。
ゆきと(……たしかに、さるは「完結の難易度は高くない」と言っていた。だが……)
そんな幸人の思考を挟むように、音羽が静かに声をあげた。
おとは「私も童話は存じておりますが……たしかに私の知る『狼と七匹の子ヤギ』では、一日のうちにすべてが終わるはずですわ。今の状況は、明らかに違いますわ」
ゆきと「そう。童話では、母山羊が小屋を出ている間に狼が二度か三度目この小屋にやってきて……子ヤギたちは戸を開けてしまう。そして──」
そこまで語ると、幸人は少しだけ言葉を切った。
ゆきと「……一瞬で、ほとんどの子ヤギたちが食べられてしまう。小屋の中で最後に見つからなかった一番小さな子ヤギだけが生き残る。そして母山羊が帰ってきて……狼が眠っている間に腹を裂いて子ヤギたちを助ける。お腹に石を詰められた狼は、目覚めて水を飲みに行き、重さで転んで溺れて死ぬ」
ゆきと「この話はそういう構成になっていると思う」
どうご「三度……?だったら、もう来ねぇじゃねぇか。さっききたのが三回目だぜ。だったら……もう待ってりゃ終わるんじゃねぇのか?」
ゆきと「……わからない。完結がどの段階で認められるのか、もう完結しているのか、あるいは…まだ物語は継続していて、何かをすれば完結できるのか…」
幸人の言葉に、れいは心の中で言い知れぬざわつきを感じていた。
れい(…幸人くんも、焦っている…)
ゆきと「…あるいは、もう完結の道は閉ざされているのか…」
莉子と音羽が顔を見合わせた。
りこ「え、まってよ…じゃ、じゃあ……完結できないってこと……?」
おとは「……もし、このまま何も起きなかったら……?」
顔色を失っていく二人に、幸人はそれ以上何も言わず、ただ皆の顔を順に見回した。
ゆきと「……まだ間に合うかはわからないが、この物語の進め方や、どうすれば完結するか。皆の考えを聞きたい」
皆が各々考え、しばらく沈黙が続く───。
りこ「…あーもう、ぜんっぜんわかんない…この後どうすればいいのよ…」
おとは「そうですわね…いったいなにをどうすればいいのでしょう…」
れいと神威は黙ったまま話を聞いていて、声を発さなかった。
時間だけが刻々と過ぎていた───。
そんな中、幸人が道後の方へ目を向けた。
ゆきと「……道後、君にひとつ確認したいことがある」
どうご「……ん?なんだよ急に」
気を張っていたせいか、少し驚いたように眉を寄せる道後に、幸人は淡々と問いを放った。
ゆきと「《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》……君のこの能力は、眠っているときや、意識していないときにも効果が続くのか?」
思わぬ質問に、場の空気が再びピンと張る。
どうご「……さあな。そんな状況で使ったことねぇから、わかんねぇよ」
腕を組んだまま、不機嫌そうに眉間にしわを寄せた。
だが、それは不満ではなく──単純に「知らない」ことに対する苛立ちだった。
ゆきと「……なら、今夜、試してもらいたい」
その一言に、道後が一瞬だけ目を細める。
どうご「……どういうことだよ?」
ゆきと「少し、考えがあって…可能であれば協力してほしい…」
どうご「まぁ、別に構わねぇが…」
幸人はそれ以上は語らなかった。ただ、意味深に口元を引き結び、視線を他の皆へと移した。
ゆきと「……詳しいことは……あとで話す」
ゆきと(…確証はない…だが、この考えが正しければ…)
その場で、この提案の意味を追及する者はいなかった。
少しの沈黙のあと、幸人は今度はれいの方へ向き直った。
ゆきと「……神谷くん。君の能力で、“何か気づいたこと”は、あるか?」
れいは息を呑んだ。
──それは、初日に幸人がついた「嘘」のような波紋のことを、れいだけが知っていたからだ。
それ以来、心のどこかで距離を感じていた。
れい「……い、いや……わからない……」
それだけ言うのが精一杯だった。
れい(……幸人くん、ご、ごめん……)
れいは、視界に浮かぶ感情の色や波紋の特徴から“ある違和感”を掴みかけていた。
そして──
──コンコン。
戸を叩く音がした。
???「……おかあさんですよ。戸を開けておくれ──」
聞きなれた声なのに、皆の表情がこわばる。
もう何度、この呼びかけを聞いただろう。
果たして今度は本物なのか、それとも──
幸人がそっと戸の隙間から外を覗く。そこに立っていたのは──母山羊だった。
変わらぬ姿で、優しい顔で、戸の前に佇んでいる。
幸人は戸を開いた。
子ヤギ(桃色)「おかあさーん!」
子ヤギ(黄色)「おかえりなさーい!」
子ヤギたちが歓声をあげ、飛びつくように母の元へ駆け寄る。
子ヤギ(桃色)「ねぇ!おかあさん、さっきも狼がきたの!」
子ヤギ(黄色)「すっごくこわかったんだから!」
無邪気な子どもたちの声に、母山羊は「はいはい」と優しく撫でる。
──その光景は、変わらない。
莉子が、少し緊張した声で尋ねようとした。
りこ「あの、どうでしたか…」
言いかけた言葉を遮るように、幸人が無言で首を振る。
莉子ははっとして口を閉じ、小声で呟いた。
りこ「……ご、ごめんなさい」
ゆきと「……いや」
見てわかる通り、連れ帰られた子どもたちはいなかった。
言わずもがなそれが「答え」だった。
子ヤギのひとりが、ふと思い出したように声をあげた。
子ヤギ(水色)「あっ!あとね!あかちゃんがいたの!」
その言葉に、母山羊の表情が一変した。穏やかだった瞳に動揺が走り、口元がかすかに震える。
母山羊「っ!それは……ほんとうなのっ!?どこに……どこにいるの?」
子ヤギたちは一斉に、古時計の方を振り返る。
子ヤギたち「あのとけいのなかにいるよ!」
母山羊は目を見開いたまま、何も言わずに古時計へ駆け寄った。その足取りは早く、けれどどこか恐る恐るでもあった。
古時計の前に立つと、母山羊はその木の扉を見つめ、小さく呼吸を整える。両手をそっと伸ばし、震える指先で、木枠をトントンと軽く叩いた。
母山羊「……そこにいるの……?お母さんよ……」
応える声は、ない。
莉子たちは黙ってその光景を見守っていた。
母山羊は古時計に耳を当て、何かを待つように、息を潜める。けれど──中から返ってくるのは、ただの静けさだけだった。
母山羊「……お願い、一目、姿を見せて。そこに、いるんでしょう……?」
声がかすれる。必死に抑えているつもりの感情が、声の端々に滲み出しているようだった。
けれど、やはり時計の中からは何の返答もなかった。
しばらくその場を動けずにいた母山羊だったが、やがて力なく手を下ろした。
その背中に、一匹の子ヤギが小さな声で言う。
子ヤギ(黄色)「だいじょうぶだよ……中に入っていくのをみたもん」
もうひとりの子ヤギも、そっと続けた。
子ヤギ(桃色)「おなかがすいたら、きっとまたでてくるよ」
母山羊はゆっくりと振り返り、小さく目を伏せる。
けれど、その目元は赤く、声はいつもよりも少しだけ掠れていた。
母山羊「……そうね。ええ、そうよね。……ありがとう」
小屋の中には、やさしい沈黙が広がっていた。
母山羊は皆に視線を向け、深く頭を下げた。
母山羊「……子どもたちを見ていてくださって、本当にありがとうございます」
その声は、どこまでも優しく、静かだった。
母山羊は子ヤギたちの頭を順に撫でた後、背中の袋から果物と木の実を取り出し、テーブルの上に並べていった。
母山羊「…こちら…たくさん採れましたの。みなさんも、どうぞ」
その言葉通り、木の実は色とりどりで瑞々しく、果物も小ぶりながら熟して甘い香りを放っている。食べ物が並ぶと、子ヤギたちは「わーい!」と声をあげて飛びつき、れいたちも席についた。
自然と会話は控えめになり、静かで穏やかな晩餐が始まる。だが、どこか落ち着かない空気が漂っていた。
食事が一段落した頃、幸人が口を開いた。
ゆきと「……道後。さっきの話の続きだけど」
突然の呼びかけに、道後が顔を上げる。
どうご「……ああ。あれな。試してみるのはいいけど、俺は何をすればいいんだよ」
ゆきと「この小屋に《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》をかけていてもらいたいんだ…」
どうご「…なんの意味があるのかわかんねぇが、わかった。…だが寝ている時にできているかどうかはわかんねぇからな」
ゆきと「あぁ…それでかまわない」
やがて、木の実の皮を片付け終えた母山羊が、空になった器を手に立ち上がった。
母山羊「……今日は、ありがとうございました。子どもたちも……とても楽しそうでした」
そう微笑んで言ったその姿には、母の慈しみが溢れていた。
その夜は、誰もが早めに床についた。
幸人は小屋を少し歩き、何かを確認しているようだった。
ゆきと(……よし、これでいい、はずだ……)
子ヤギたちは、不安を拭いきれず、道後の周りにぎゅうぎゅうに身を寄せ合って眠りについていた。
莉子と音羽は、壁際の隅で藁をおき、警戒に当たり、れいたちは入口付近で藁の寝床を作り、れいは身を縮めるように座って目を閉じる。
幸人は夜が更けるまで考えていた。
この物語の「本来の形」とは何なのか。
そして──
そんな疑念が、夜の静寂に溶けていった。
──そして、朝が来た。
外から射し込む光が、静かに小屋の床を照らし始める。
まだ誰も起きていない、はずだった。
だがその時。
母山羊「──あああああっ!!!」
甲高い、叫び声。
絶望のにじむ、母の悲鳴。
それは、あまりにも唐突に小屋中に響き渡った。
莉子が反射的に目を開き、音羽もはっと息を呑む。
起き上がった道後が、母山羊の方を向き、
どうご「……っ!?おい、おいっ!!どうした!」
そう言いかけた道後が異変に気づいた。
どうご(…うそだろ…昨日までここに居ただろ…)
その場に崩れ落ちそうになっている母山羊の視線の先。
道後の周りに──いなかった。
子ヤギたちが寝ていた場所。
昨夜、確かに道後の傍で眠っていたはずの──三匹の子どもたちの姿が、影も形もなく消えていた。
まるで最初から、そこになどいなかったかのように。
言葉を失い、震える母山羊の背中に──誰も、かける言葉を持たなかった。