朝の光が差し込んだ小屋の中には──
子ヤギたちの姿がなかった。
ただの静寂だけがそこにあった。
母山羊は呆然とその光景を見つめたまま、何も言えず、何も動けずにいた。どこか遠くを見つめるような虚ろな瞳で、床を見つめたまま、ゆっくりと歩き出す。
足取りは重く、震えていた。
やがて辿り着いたのは、小屋の隅に佇む古時計。
その木枠に、母山羊は指先を添え、トントン……と小さく叩いた。
母山羊「……そこにいるんでしょう……?」
擦り切れそうな声だった。かすれ、弱々しく、それでも懸命に想いを届けようとするような──母の声。
母山羊「……もう、あなたしかいないの。……お願いだから……出てきてちょうだい……」
返事は、ない。
その背に、そっと莉子と音羽が近づき、黙って寄り添う。
何も言葉はなかった。ただ、その場に共にいることだけが、彼女たちにできるすべてだった。
道後は拳を握り締め、肩を震わせていた。悔しさと怒りが混ざり合い、やり場のない感情が胸を焼く。
どうご(クソッ!!また守れなかったのか…俺は!)
そんな中、幸人が小屋の中を静かに歩き始めた。床を見つめ、何かを探すように、慎重に、視線を這わせる。
──そして、それを見つけた。
ゆきと(……やはり、だ。あとは……)
その顔に、確信の色が浮かぶ。
彼はすぐに振り返り、道後の方へと歩み寄った。
ゆきと「……道後。こんな時にすまない。気持ちはわかるが、一つだけ教えてくれないか」
その言葉に、怒りを押さえきれなかった道後が、声を荒げる。
どうご「それどころじゃねぇだろうがっ!!」
だが、幸人の目は真剣だった。その瞳に、迷いはなかった。
ゆきと「俺たちは──何のためにこの物語に来たんだ?」
静かに、それでも鋭く刺すように、幸人は言葉を続ける。
ゆきと「子ヤギたちを“救うため”か?……違うだろ。この物語を完結するために、俺たちはここに来たんだ。……頼む。少し、冷静になってくれ」
その言葉に、道後はしばらく何も言わなかった。息を荒くしながら俯き、拳を握りしめ、やがて──
──両手で自分の頬を思い切り叩いた。
ぱんっ!!という乾いた音が、小屋の中に響く。
どうご「……すまねぇな」
深く息を吐いた道後が、目を上げる。
どうご「……それで、なんだ?」
幸人は、少し声を落とした。
ゆきと「……今、《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》は、どうなっている?」
問いかけると、道後は一瞬眉を寄せたが、すぐに目を細めた。
どうご「あ?あぁ……小屋全体にかけてたまま、まだ効いてるみたいだぜ。……消えちゃいねぇ」
それを聞いた幸人は、小さく頷き、言葉を選ぶように間を置いた。
ゆきと「……わかった。ありがとう。もう、守護輪廻は外してくれてかまわない」
唐突な一言に、道後が思わず叫ぶ。
どうご「おいっ!何が“わかった”んだよ!」
だが幸人はもう、その問いには答えなかった。視線を落とし、静かに考え込んでいる。
道後は苛立ち混じりに顔をしかめながらも、それ以上は何も言えなかった。
どうご「……なんだったんだよ……」
そう、低く呟き、《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》を戻した。
その頃には、母山羊はすっかり膝をつき、小さな体を折りたたむようにしてうずくまっていた。
莉子も音羽も、言葉をかけることができず、ただその傍に寄り添っていた。
れいと神威も、動けなかった。見ていることしか、できなかった。
沈黙の時間が流れた──
やがて、母山羊がゆっくりと顔を上げる。目元を拭いながら、小さく口を開いた。
母山羊「……すみません。少し……顔を洗ってきても、いいでしょうか」
弱々しい声に、莉子と音羽が同時に立ち上がる。
りこ「わ、私たちも一緒に──」
おとは「お傍に──」
だが、母山羊は首を振った。
母山羊「……いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。……あと、今は……少し、一人になりたいんです」
頭を下げ、そう言い残して、小屋の扉を開けて出ていった。
その背中はあまりに小さく、あまりに弱々しかった。
扉が閉まる音がしても、誰も何も言えなかった。
そんな重苦しい空気の中──
ひょこりと、古時計の下から赤ちゃんが姿を現した。
誰も気づいていなかったが、赤ちゃんはこっそりとそこにいたのだ。
赤ちゃんは、周囲を見回しながら、落ちていた木の実を口にくわえ、もぐもぐと食べ始める。
水の入った皿にもとことこ歩いて行き、ちょろちょろと音を立てて水を飲んだ。
その様子を見て、道後がやれやれと眉を下げる。
どうご「……呑気なもんだな……」
赤ちゃんは小屋の中を小さく歩き回り、時折、鳴き声のような声をあげながら、気ままに探索している。
その様子を眺めていた幸人が、皆の方に向き直った。
ゆきと「……みんな、聞いてくれ」
そう言った、ちょうどその時──
──トン、トン。
戸が叩かれた。
一同が、はっと息を呑む。
誰もが、視線を戸に向けた。
ぞくり、と背筋が冷えるような感覚。
今朝の混乱の中、母山羊が出ていったあと、誰もそこに意識できなかったのだ。
鍵があいている…。
そして最悪なことに──
戸の一番近くにいたのは、赤ちゃんだった。
赤ちゃんは、ピョンッと戸の方に歩いて行き、何の疑いもなく──その額で、扉を押し開けた。
外に立っていたのは──
あの、黒い毛並みの大きな狼だった。
初日に見た、あの狼。
赤い瞳をぎらりと光らせ、口元には鋭い牙を光らせ、獰猛な笑みを浮かべている。
それを見た瞬間道後が反応する。
どうご「──チッ……最悪のタイミングじゃねぇかッ! クソッ、守れ──!」
怒鳴りかけたその声を、幸人の一言が遮った。
ゆきと「道後、大丈夫。…そのままで」
短く、けれど鋭く──そして、どこか確信を含んだ声。
道後は一瞬、言葉を詰まらせた。狼から目を離さず、赤ちゃんに《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》を張ろうとしていた手が、止まる。
狼が、にやりと笑ったように見えた。
その口角が、ゆっくりと吊り上がった──
赤ちゃんを、見つめながら。
りこ「ダメッ!!赤ちゃん!!なにしてんのよ、バカ道後っ!」
おとは「なぜ止めたのですのっ!?このままじゃ赤ちゃんが──!」
叫ぶ声が響いた。莉子の声には混乱と怒り、音羽の声には恐怖が混じっていた。
だが、止められたのは道後だけではない。
神威もまた、すでに《一閃》の構えに入っていた。
けれど──幸人の伸ばした手が神威の視線に入る。
ゆきと「狼を“切って”はダメだ!!」
幸人の叫び。
神威は戸惑いながら、そのまま静止した。
その目は鋭く、すでに覚悟を決めようとしていたのに──神威は一閃を使うことを躊躇していた。
その迷い、それは至って普通。
何故なら神威は一閃を使う意味を理解していた。
更に、神威自身もまた生き物を殺めたことはないのだから…。その迷いと幸人の声が一閃を使う覚悟を鈍らせた。
斬るべきか、斬らざるべきか──
だがその葛藤の中で、神威の中ので何か”が、止まった。
──そして聞こえた、幸人の小さな声。
ゆきと「……これで、いいんだ」
微かに、そう聞こえた気がした。
赤ちゃんは、ゆっくりと狼の方へ歩き出す──
今か今かと待ち構える狼。
──その時。
???「きゃああああああああっ!!!」
外から、甲高い悲鳴が響いた。
誰もが一瞬、狼の背後へと視線を向けた。
そこにいたのは──
母山羊だった。
絶望を背負った顔を引き締め、悲鳴のままに叫んでいる。
母山羊「みなさんっ!!お願いです、この狼を……退治して下さい!!」
母山羊「私の子どもたちの……仇を、討って……!!」
その叫びに、道後と神威が再び構え直す。
莉子と音羽も表情が変わる。
けれど──
その時。
まったく予想しない一言が、静かに、小屋の中に響いた。