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第17話 絶望の展望

 朝の光が差し込んだ小屋の中には──


 子ヤギたちの姿がなかった。


 ただの静寂だけがそこにあった。


 母山羊は呆然とその光景を見つめたまま、何も言えず、何も動けずにいた。どこか遠くを見つめるような虚ろな瞳で、床を見つめたまま、ゆっくりと歩き出す。


 足取りは重く、震えていた。


 やがて辿り着いたのは、小屋の隅に佇む古時計。


 その木枠に、母山羊は指先を添え、トントン……と小さく叩いた。


母山羊「……そこにいるんでしょう……?」


 擦り切れそうな声だった。かすれ、弱々しく、それでも懸命に想いを届けようとするような──母の声。


母山羊「……もう、あなたしかいないの。……お願いだから……出てきてちょうだい……」


 返事は、ない。


 その背に、そっと莉子と音羽が近づき、黙って寄り添う。


 何も言葉はなかった。ただ、その場に共にいることだけが、彼女たちにできるすべてだった。


 道後は拳を握り締め、肩を震わせていた。悔しさと怒りが混ざり合い、やり場のない感情が胸を焼く。


どうご(クソッ!!また守れなかったのか…俺は!)


 そんな中、幸人が小屋の中を静かに歩き始めた。床を見つめ、何かを探すように、慎重に、視線を這わせる。


 ──そして、それを見つけた。


ゆきと(……やはり、だ。あとは……)


 その顔に、確信の色が浮かぶ。


 彼はすぐに振り返り、道後の方へと歩み寄った。


ゆきと「……道後。こんな時にすまない。気持ちはわかるが、一つだけ教えてくれないか」


 その言葉に、怒りを押さえきれなかった道後が、声を荒げる。


どうご「それどころじゃねぇだろうがっ!!」


 だが、幸人の目は真剣だった。その瞳に、迷いはなかった。


ゆきと「俺たちは──何のためにこの物語に来たんだ?」


 静かに、それでも鋭く刺すように、幸人は言葉を続ける。


ゆきと「子ヤギたちを“救うため”か?……違うだろ。この物語を完結するために、俺たちはここに来たんだ。……頼む。少し、冷静になってくれ」


 その言葉に、道後はしばらく何も言わなかった。息を荒くしながら俯き、拳を握りしめ、やがて──


 ──両手で自分の頬を思い切り叩いた。


 ぱんっ!!という乾いた音が、小屋の中に響く。


どうご「……すまねぇな」


 深く息を吐いた道後が、目を上げる。


どうご「……それで、なんだ?」


 幸人は、少し声を落とした。


ゆきと「……今、《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》は、どうなっている?」


 問いかけると、道後は一瞬眉を寄せたが、すぐに目を細めた。


どうご「あ?あぁ……小屋全体にかけてたまま、まだ効いてるみたいだぜ。……消えちゃいねぇ」


 それを聞いた幸人は、小さく頷き、言葉を選ぶように間を置いた。


ゆきと「……わかった。ありがとう。もう、守護輪廻は外してくれてかまわない」


 唐突な一言に、道後が思わず叫ぶ。


どうご「おいっ!何が“わかった”んだよ!」


 だが幸人はもう、その問いには答えなかった。視線を落とし、静かに考え込んでいる。


 道後は苛立ち混じりに顔をしかめながらも、それ以上は何も言えなかった。


どうご「……なんだったんだよ……」


 そう、低く呟き、《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》を戻した。


 その頃には、母山羊はすっかり膝をつき、小さな体を折りたたむようにしてうずくまっていた。


 莉子も音羽も、言葉をかけることができず、ただその傍に寄り添っていた。


 れいと神威も、動けなかった。見ていることしか、できなかった。


 沈黙の時間が流れた──


 やがて、母山羊がゆっくりと顔を上げる。目元を拭いながら、小さく口を開いた。


母山羊「……すみません。少し……顔を洗ってきても、いいでしょうか」


 弱々しい声に、莉子と音羽が同時に立ち上がる。


りこ「わ、私たちも一緒に──」

おとは「お傍に──」


 だが、母山羊は首を振った。


母山羊「……いえ、大丈夫です。お気遣いありがとうございます。……あと、今は……少し、一人になりたいんです」


 頭を下げ、そう言い残して、小屋の扉を開けて出ていった。


 その背中はあまりに小さく、あまりに弱々しかった。


 扉が閉まる音がしても、誰も何も言えなかった。


 そんな重苦しい空気の中──


 ひょこりと、古時計の下から赤ちゃんが姿を現した。


 誰も気づいていなかったが、赤ちゃんはこっそりとそこにいたのだ。


 赤ちゃんは、周囲を見回しながら、落ちていた木の実を口にくわえ、もぐもぐと食べ始める。


 水の入った皿にもとことこ歩いて行き、ちょろちょろと音を立てて水を飲んだ。


 その様子を見て、道後がやれやれと眉を下げる。


どうご「……呑気なもんだな……」


 赤ちゃんは小屋の中を小さく歩き回り、時折、鳴き声のような声をあげながら、気ままに探索している。


 その様子を眺めていた幸人が、皆の方に向き直った。


ゆきと「……みんな、聞いてくれ」


 そう言った、ちょうどその時──


 ──トン、トン。


 戸が叩かれた。


 一同が、はっと息を呑む。


 誰もが、視線を戸に向けた。


 ぞくり、と背筋が冷えるような感覚。


 今朝の混乱の中、母山羊が出ていったあと、誰もそこに意識できなかったのだ。


 鍵があいている…。


 そして最悪なことに──


 戸の一番近くにいたのは、赤ちゃんだった。


 赤ちゃんは、ピョンッと戸の方に歩いて行き、何の疑いもなく──その額で、扉を押し開けた。


 外に立っていたのは──


 あの、黒い毛並みの大きな狼だった。


 初日に見た、あの狼。


 赤い瞳をぎらりと光らせ、口元には鋭い牙を光らせ、獰猛な笑みを浮かべている。


 それを見た瞬間道後が反応する。


どうご「──チッ……最悪のタイミングじゃねぇかッ! クソッ、守れ──!」


 怒鳴りかけたその声を、幸人の一言が遮った。


ゆきと「道後、大丈夫。…そのままで」


 短く、けれど鋭く──そして、どこか確信を含んだ声。


 道後は一瞬、言葉を詰まらせた。狼から目を離さず、赤ちゃんに《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》を張ろうとしていた手が、止まる。


 狼が、にやりと笑ったように見えた。


 その口角が、ゆっくりと吊り上がった──


 赤ちゃんを、見つめながら。


りこ「ダメッ!!赤ちゃん!!なにしてんのよ、バカ道後っ!」

おとは「なぜ止めたのですのっ!?このままじゃ赤ちゃんが──!」


 叫ぶ声が響いた。莉子の声には混乱と怒り、音羽の声には恐怖が混じっていた。


 だが、止められたのは道後だけではない。


 神威もまた、すでに《一閃》の構えに入っていた。


 けれど──幸人の伸ばした手が神威の視線に入る。


ゆきと「狼を“切って”はダメだ!!」


 幸人の叫び。


 神威は戸惑いながら、そのまま静止した。


 その目は鋭く、すでに覚悟を決めようとしていたのに──神威は一閃を使うことを躊躇していた。

 その迷い、それは至って普通。

 何故なら神威は一閃を使う意味を理解していた。

 更に、神威自身もまた生き物を殺めたことはないのだから…。その迷いと幸人の声が一閃を使う覚悟を鈍らせた。


 斬るべきか、斬らざるべきか──


 だがその葛藤の中で、神威の中ので何か”が、止まった。


 ──そして聞こえた、幸人の小さな声。


ゆきと「……これで、いいんだ」


 微かに、そう聞こえた気がした。


 赤ちゃんは、ゆっくりと狼の方へ歩き出す──

 今か今かと待ち構える狼。


 ──その時。


???「きゃああああああああっ!!!」


 外から、甲高い悲鳴が響いた。


 誰もが一瞬、狼の背後へと視線を向けた。


 そこにいたのは──


 母山羊だった。


 絶望を背負った顔を引き締め、悲鳴のままに叫んでいる。


母山羊「みなさんっ!!お願いです、この狼を……退治して下さい!!」


母山羊「私の子どもたちの……仇を、討って……!!」


 その叫びに、道後と神威が再び構え直す。


 莉子と音羽も表情が変わる。


 けれど──


 その時。


 まったく予想しない一言が、静かに、小屋の中に響いた。

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