空気がはぜたような声がした。
れい「……み、みんなっ!ちょ、ちょっと待って!」
その瞬間、全員の動きが止まる。
誰もが驚いた。今までずっと地味で影が薄く、ほとんど自分からは発言しなかったれいが、いきなり声を張り上げて叫んだからだ。
れいの喉は震えていた。それでも、言葉は押し出される。
れい「だ、大丈夫だよ……あの狼からは…て、敵意を感じられないから…むしろ…」
沈黙。
意味が理解できず、全員の視線が一斉にれいへと向いた。
するとれいが言葉の続きを言わずとも別の方向から答えは出た。
狼の方を向いていた赤ちゃんが──
赤ちゃん「…ママっ!」
小さな体で叫び、トコトコと狼へ駆け寄った。
狼の瞳孔が揺れた。
掠れた声で──それでも、どこまでも優しい声音で、狼は叫ぶ。
狼「……おいで!」
その声は震えていた。狼は四肢を折り、赤ちゃんの目線まで身を落とすと、ぎゅっと抱きしめ、額を赤ちゃんの額へそっと重ねた。
その目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちる。
赤ちゃん「ママー!あのねっ!あのねっ!…みんな、みんなね、いなくなっちゃったの…。すっごくこわかったけど……が、がんばったよ!」
赤ちゃんの声もぐしゃぐしゃに泣き崩れていた。
狼「うん…。うん…!赤ちゃんっ……!私の、大切な赤ちゃん……!生きていてくれて、ありがとう……」
狼はおろおろと泣きながら、力強く赤ちゃんを抱き寄せる。
狼「…がんばったんだね……偉かったね……ほんとうに偉かったね……!」
狼の嗚咽が、小屋の空気を震わせた。
“狼と子ヤギ”という異様な構図のはずなのに、その抱擁は、誰が見ても親子のようだった。
莉子も、音羽も、そして道後までもが、思わず涙を拭った。
りこ「……っ、う、うぅ……」
おとは「……そんな……」
どうご「……ちくしょう……」
赤ちゃんと狼が泣きながら寄り添っている、その光景は、儚くも美しかった。
しかし──
ゆきと「……みんな、感動するのは、まだ早いよ」
幸人が静かに、しかし確かな強さを帯びた声で言った。
ゆきと「“狼がお母さん”ってことは──狼の後ろの“やつ”が、本当の“敵”なんだから。……まだ終わっていないよ」
現実に引き戻されるように、全員の表情が再び強張った。緊張が小屋を駆け抜ける。
母山羊が狼の背後に立っていた。わずかに肩を震わせ、しかし口を開いた声はやけに冷静だった。
母山羊「ちょ、ちょっと待ってくださいよ。私が敵だなんて……や、やめてくださいよ。いくら何でも酷すぎるわ…。どこからどう見ても、子ヤギたちのお母さんじゃないですか。」
狼「そこの“赤ちゃん”が狼をママって言ってるだけで、そんなの、何の証拠にもならないわ……」
その言い方に、幸人の口元がわずかに吊り上がった。鼻で笑ったように見えた。
ゆきと「証拠なら──いくつかあるさ。断片的で、最初は“違和感”くらいにしかわからなかった。だが、小屋で過ごすうちに、その違和感の点と点が繋がったんだ」
全員の視線が、幸人の口へ吸い込まれていく。
ゆきと「まず一つ目の違和感は──“必ず夜、皆が寝静まった後で消える”子ヤギたちだ。初日に三匹、二日目に三匹……」
幸人が言い終わる前に母山羊は焦ったかのように答える。
母山羊「…いいえ、何もおかしくはないわ。夜、皆が寝ている時に、狼がどこかから侵入して子どもたちをさらって行ったのよ。それしか考えられないじゃない!」
幸人は、淡々と首を振った。
ゆきと「いや。初日の三匹なら、それも“可能性”としてはありえた。だが──二日目の夜は、狼が侵入することなんて不可能なんだ」
母山羊「な、なんでそんなことが言えるのよ……」
ゆきと「道後。二日目の夜に君が何をしたか、皆に教えてあげてくれないか」
どうご「あ? あぁ……こいつ(幸人)に頼まれて、小屋全体に俺の能力をかけたんだよ。《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》をな」
母山羊「なんですか。そのガーディアン・リレーって…何でそれで出入りしてないって言い切れるの…」
ゆきと「それは、彼の能力で二日目の夜は、朝まで小屋の周りに結界を張ってもらったんだよ。」
母山羊「それだけでは納得できないわ。寝ている時にその結界が解けているかもしれないじゃない…」
どうご「いや、俺のこの能力は、俺以外に使う時は俺の意思でつけねえといけねえんだ。寝る前に小屋の周りにつけて、俺が起きた時はまだ小屋についたままだったよ」
りこ「っ……!?」
莉子の顔が驚愕に固まる。
ゆきと「言わずとも気づいた人もいるだろう。道後が一晩、小屋に《守護輪廻(ガーディアン・リレー)》をかけていたってことは、“外からも中からも干渉することができない”ってことだ。だから、二日目の夜は“狼が小屋に侵入する”なんて有り得ないんだ」
短い沈黙。空気が一段と冷たくなる。
母山羊は、唇を噛み、しかし言葉を紡ぐ。
母山羊「……で、でも、そうだったとしても、“小屋の中でどうやって子ヤギたちが消えるのよ”。それが証明できないようでは、この憶測は的外れもいいところよ」
幸人は小さく息を吐いた。
ゆきと「……これも、“確証”と言えるほどのものではないが──“見つけた”んだよ。二つ目の違和感を…」
おとは「……見つけたって、何を、ですの?」
ゆきと「初日の三匹の子ヤギが消えてから、二日目の朝にかけて──そこの小屋の隅に“三つ”、小さな靴のような形の小石を、ね」
誰もが、ぽかんと口を開ける。意味がわからなかった。
母山羊「小石がどうしたのよ。小石くらい、小屋なんだもの、どこにでもあるでしょう?」
ゆきと「あぁ…。しかし、二日目に子ヤギたちが消えた後、その小石があった場所を確認してみたんだ。……面白いことになっていたよ」
幸人は小石のある場所の近くで立っている音羽に合図を送る。
ゆきと「ちょっとそこの“小石”、見てくれないか」
おとは「も、もう……勿体ぶらないで、教えてくださってもいいじゃない……」
ぶつぶつ言いながらも、音羽は指示された隅へ向かい、小石が寄せられている箇所に屈み込む。
──次の瞬間、音羽が驚いている。
りこ「ど、どうしたのよ、音羽……?なにがあるの?」
おとは「……こ、小石が……“六つ”……ありますわ。しかもどれも靴みたいな形の小石が…」
ゆきと「そう。“偶然”にしては、あまりにも変だろう。しかも──“小屋の出入りはできない”のに、“子ヤギが消えた数だけ、小石が増えてる”んだよ」
ざわ、と誰かが息を呑む。
ゆきと「どうやったかはわからない。けど──“消えた子ヤギは、もしかしたら、この小石に変えられたりしてるんじゃないか”ってね」
母山羊「そ、それも……憶測じゃないの……!」
母山羊の声が少し上ずった。
幸人「だが、それを更に確信に近づける出来事があるんだよ。」
幸人「これは違和感というか、至って普通だからこそ変というか」
そう言うと母山羊が
母山羊「普通が変なんて、それこそ変じゃない…」
ゆきと「いや、考えれば考える程、不思議なんだ。何かにつけて母山羊が出て行ったタイミングで狼が都合よく来ることがね」
ゆきと「それで、あの小石みたいに子ヤギを動けない状態にする事ができるのなら、母山羊が小屋にいる時は動けないようにして、外にいる時はあの狼を動けるようにすればこのすれ違いのようなタイミングの良さは辻褄が合うんだ」
母山羊「な、なによ、その妄想は…ありえないじゃない…そんなのなんでもありの想像でしかないわ…」
ゆきと「じゃあ、三つ目の違和感だ。──“そこにいる赤ちゃん”が、色々と教えてくれたよ」
りこ「赤ちゃんが?…なにを……?」
ゆきと「ああ。初日の“母山羊”が小屋に帰ってきてから──そこの“赤ちゃん”だけは、“母山羊”に、今の今まで“姿を見せてない”んだ」
母山羊「そ、それが……なんだっていうのよ……」
ゆきと「消えた子ヤギたちが言っていたよ。“赤ちゃんは、お母さんが大好きで、ずっとくっついて甘えていた”ってね。そんな“赤ちゃん”が、“二日間も”母山羊が帰ってきたのに、“古時計に隠れて近づかない”ってことが──あると思うか?」
母山羊の口から、返す言葉が出ない。
幸人は間髪入れずに、四つ目の違和感を提示する。
ゆきと「……あと、“四つ目”の違和感も話そうか」
幸人は、真正面から母山羊を見る。
ゆきと「“母山羊”。お前──そこの赤ちゃんの“名前”を言ってみろよ」
その問いに、母山羊が軽くため息をした。
狼の胸に抱かれている赤ちゃんが、心配そうにこちらを見ている。
母山羊「あ、赤ちゃんは、赤ちゃん山羊なんだから……“赤ちゃん”でしょ!」
幸人は、笑った。
ゆきと「──ほらな。もう、これで言い逃れはできないよ」
ゆきと「ここの子ヤギたちは首輪の色でそれぞれ呼びあっていたんだよ。だから、そこの赤ちゃんは首輪が赤いから"赤ちゃん"なんだ」
ゆきと「本物の“母山羊”なら、そんなことはわかって当然。……なんたって“名付け親”なんだからな」
幸人は母山羊の顔をまっすぐに見る。
ゆきと「だけど、“初日の母山羊が出ていく前の話”は、わかるわけないよな。……その時は、まだ“入れ替わってなかった”んだろ?」
母山羊は、口を閉ざした。
狼が、赤ちゃんを抱きしめる手に力を込める。
道後が拳を鳴らし、神威はわずかに目を細めた。
ゆきと「……もういいだろ。いい加減、認めたらどうなんだ。“お前”が“狼”だろ」
狼が、下を向く。
狼が言葉を発しかけた、その時──
れい「…ゆ、幸人くん……あの母山羊は…多分、“狼”ではない、よ」
れいが、恐る恐る、それでもはっきりと言った。
幸人はれいの方を見て、なぜそんなことがわかるんだ。と言わんばかりの表情をしていた。
全員の視線が再びれいへ向く。
その直後──
???「はぁ……やれやれ、及第点ってところだな」
どこからともなく、声が響いた。