「お父様」
私は毅然とした声で言った。右足の奥で、呪いがじりじりと進行しているのがわかる。痛みが、私の決意を後押しするかのようだった。
「この婚約、受け入れます」
父の目が、驚きに見開かれた。
「ステラ、何を言っている! 君の人生は、君のものだ。こんな契約に縛られるべきじゃない。ましてや、レオニスくんに嫌われたまま婚約を……」
「お父様」
私は、静かに言葉を遮った。
「もしレオニスが、お父様の件で冷静さを失い、不穏な行動を起こしたら……どうなっていたと思われますか?」
父は目を伏せた。わかっているのだ。
レオニスは、フォルティア公爵家の次期当主。彼の一挙手一投足は、王政そのものに波紋を投げかける。
「私たち庶民にとっては、魔導通信の発明がどれだけ革新的で素晴らしいものに思えても、貴族社会にとっては『危険』だと見なされる。お父様の発明は、体制を脅かす『力』にもなりかねない。もしここで事を荒立てれば、魔導通信事業そのものが潰されるかも……」
私は、淡々と続けた。
「あの日、私は巻き込まれた。だから、政治的な判断で『事故』として処理され、誰も真相を口にしなかった――。呪いのことを世間に広めずにいたのはお父様たちの事業のためだった。それでも、私は恨んでなどいません」
本当は……レオニスに知られたくなかった、それだけだった。いつか死ぬ、醜い灰色足の呪いを抱えた、父にこんな無理をさせてしまうような女だと、知られたくなかった。
普段は抑え込んでいる感情が爆発してしまいそうだ。右足と同じくらい、胸が痛くて、切なかった。
「だからこそ、私は引き受けます。この婚約を。ただし……エルム男爵の娘としてではなく、悪役として」
父は困惑したように眉を寄せた。
「悪役……?」
「私は社交界で認識されている姿そのものとして、公爵家にふさわしくない女として振る舞います。そうですね、たとえば、常に屋敷に引きこもってメイドを虐めている、とか」
考えてみるが、普段のおこない以上の悪役らしい行動は思いつきそうにない。うまくいくといいのだけど。
「そうすれば、婚約が解消された時、誰も傷つかずに済む。レオニスの名も、お父様の名も、穢れずに済む」
私の胸に浮かんだのは、誇りでも、悲しみでもない。ただ――覚悟、それだけだ。
「私がこの婚約を受け入れることで、全てが丸く収まるのなら、それが最善です」
私は、自分の心を覆い隠すように、感情のない声で言い放った。今までかぶってきた『冷酷な悪役令嬢』の仮面が役立つなんて。
父が長く、ながく、息を吐く。私の顔をじっと見つめ「分かった」と、まるで絞り出すようにそう言った。その声には、敗北の色と、それでも私を守ろうとする親の愛情がにじんでいた。
「なら、この婚約はあくまで君の呪いを解くまでの間としよう。ステラが何か行動を起こす必要はない……」
父は立ち上がり、私の肩に手を置いた。その手は震えていた。
「君の呪いを必ず解呪する。そのためならば、どんな手段も惜しまない。そして……」
父の目は、私の右足に向けられた。震える声と共に、空元気だと分かる笑顔をはっきりと浮かべてくる。
「君が少しでも穏やかに過ごせるように、できる限りの手配をする……だからどうか、こんな父に、幻滅しないでくれ」
それはありえない。私ははっきりと頷く。
婚約締結日――この国では王の許しを得て婚姻を結ぶものとされる。この日だけは、どんな事情があってもレオニスと会うことは避けられないだろう。
だが、逆を言えばその日だけ乗り切れば、あとは彼と会わずに済むかもしれない。
これからの日々が、決して楽なものではないことも理解している。レオニスとの偽りの婚約。そして、刻一刻と進行する呪い。
どちらにも抵抗するため、私は仮面を被り直す。
この道を選んだのは、私自身だ。たとえ、この道の上で、どれほどの孤独と痛みに耐えなければならないとしても。