父と私の間で、偽りの婚約の意志が固まってから数日後。
公爵家からの使者が訪れ、婚約締結の日程が伝えられた。驚くほど早い日程で、なんと3日後だという。
公爵家が所有する私的な教会で、ごく限られた人員のみで行うとのこと。形式的な婚約であると同時に、王家への配慮と、おそらくは政敵の目を欺くための措置なのだろう。
そして、あっという間に、その日が来た。
私は、黒いドレスではなく、公爵家が用意した簡素な純白のドレスに身を包んでいた。質素ながらも上質な生地は、冷たい空気を纏う私の体に重くのしかかる。
お父様と我が家のメイドたち。特にイルーナが、心配そうに私の顔を見つめている。
「ステラ様……大丈夫でございますか」
イルーナの声に、私は微かに頷いた。大丈夫、私が選んだ道だ。
フォルティア公爵家の敷地内にある、小さな教会。ステンドグラスから差し込む光は、普段の煌びやかな社交界とはまるで違う、静かで、どこか物哀しい光だった。
祭壇の前には、司祭とお父様。そしてアルバノ・フォルティア公爵閣下が既に立っていた。
そして、レオニス。
彼は、儀礼用の軍服を完璧に着こなし、その金色の髪と蒼い瞳は、教会の厳かな雰囲気の中で、普段よりも一層冷たく、冴え冴えと輝いて見えた。彼の隣には、近衛騎士数名が控えているだけ。
彼が私に視線を向けたとき、私は思わず息を飲んだ。彼の瞳の奥に、以前のような侮蔑や苛立ちだけでなく、何か複雑な感情が揺れているように見えたのは、私の気のせいだろうか。
まるで、私を深く見つめようとしているかのような……。
(……呪いのことは、まだ明かされていない。そのはずよ、ね?)
彼が資金の不正を見つけ、内々に処理しようとしたのは確かなはず。だけど、彼は、どこまで知っているのだろう。
あの魔術テロの真実を。私の呪いが、彼を庇ったものだと。
いや、そんなはずはない。もし知っていれば、彼はもっと動揺するか、あるいは別の行動を見せる。彼は私を今まで通りにしか見ていない。そう、思わなければならなかった。この偽りの婚約を全うするために。
司祭の厳かな声が、静寂に包まれた教会に響き渡る。
「汝、レオニス・フォルティアは、ステラ・エルムを妻とし、生涯を共にすることを誓うか?」
レオニスの声は、迷いなく、しかし感情を感じさせない平坦な響きだった。
「誓います」
本当に構わないのだろうか。そうこうする間に、司祭の問いが私に向けられた。
「汝、ステラ・エルムは、レオニス・フォルティアを夫とし、生涯を共にすることを誓うか?」
私は、右足の奥に広がる鈍い痛みを押し殺し、顔に完璧な無表情を張り付けた。
「誓います」
感情の含まれない、冷たい響きを意識する。この後は、婚約していることを示す銀の指輪の交換だ。
レオニスの手が、私の指に触れる。冷たい金属の感触と共に、彼の指先が、一瞬だけ、私の肌をかすめた。
その僅かな触れ合いに、私の心臓が不規則なリズムを刻む。彼の瞳が、私の目をまっすぐに見つめている。その蒼い瞳の奥に、やはり、何か深い感情が宿っているように見えた。それは、憐憫か、あるいは……。
(いいえ、気のせいよ。気のせい……)
私は心の中で何度も繰り返す。
儀式は、滞りなく終わった。司祭の「ここに婚約が成立したことを宣言する」という言葉が響く。これで、私は正式にフォルティア公爵家の婚約者となった。
この契約は、私の父の罪を隠し、レオニスを守るための枷。
けれど私は、この偽りの契約が、やがて真の解放へと繋がることを、心のどこかで願っていた。