婚約締結を終えた私は、レオニスが暮らす公爵邸の別宅へと一時的に身を移すことになった。
世間には、フォルティア公爵家と男爵家の婚約発表。同時に『魔導通信社』の経理部で起きた横領事件が、この慶事に合わせ公爵家の温情により不問に付されたという建前が報じられた。
誰もが、男爵令嬢ステラが公爵家に嫁ぐことで、エルム家がさらに権力を手にするのだと噂する。
もちろん、その裏にある真実を知る者は、ごくわずかだ。
「……何というか。とても、さっぱりとしたところね」
公爵邸の別宅は、豪奢でありながらも、本邸のような堅苦しさはなく、私にとってはむしろ居心地が良いと感じられた。私の部屋は、陽当たりの良い南向きの部屋が用意され、荷解きも滞りなく進んだ。
父が手配してくれた呪いを抑えるための大量のアイテムも、早速部屋の隅に並べられた。高価な魔石を加工した腕輪、術式が刻まれた足輪、魔力を含んだ香を焚くための香炉。そのどれもが、父の私への愛情の結晶。
もちろん、父が起こした横領は罪だ。その結果得たアイテムで生きながらえている私は、確かに、悪役令嬢そのものなのかもしれない。
そして、私の専属となったメイドのイルーナを筆頭に、3名のメイドたちが常に私の傍らに控えてくれる。彼女たち、エルム家からついてきてくれたメイドが、私が背負う呪いと、悪役という仮面の真実を知っている、一番の理解者だ。
「仕方がないとはいえ、ずいぶんなお出迎えでしたね」
「そうね」
レオニスは、私との同居を心底嫌がっているようだった。別宅に到着した日、彼は私と顔を合わせるなり、氷のような冷徹な視線を投げかけてきた。
「ステラ、お前は噂通りの人間だ。俺がお前を愛することはない。今回の婚約は、お父様がエルム男爵家の件に寛大な処置を示すためのものだ。それ以上でも、それ以下でもない」
彼の言葉は、私の心を抉るような冷徹さを宿していた。もちろん、彼のこの態度も計算の内だ。
「ところで、隣国へ行く予定がある、だと?」
「ええ。婚約締結日が思ったより早くて助かったわ」
事情を聞いたレオニスは、さらに眉をひそめた。
「はっ。放蕩も極まったか。御父上の金を使い込んで、我が家が保護せねばならぬ状態に陥らせたにもかかわらず、国外に遊びに行くとはな。どこまで厚顔無恥なんだ、お前は」
「この旅行はすでに決まっていたものなの。ほかでもない、お父様が決めてくださったのよ」
彼の言葉は、まるで鋭い氷の刃のように、私の心を切り裂いた。しかし、私は感情を表に出さなかった。彼の誤解と、それからくる冷たい態度こそが、私にとって今を演じ続ける理由になるからだ。
「……勝手にしろ。俺は責任を取らないからな」
そう言い残して、レオニスは別宅を後にした。
窓から庭の様子を見ながら、私は胸の奥で、かつての記憶を反芻していた。
幼い頃、両家が隔たりなく過ごした庭はここだったようだ。
そういえば、レオニスが好きだったレモンパイ。私にはとてもすっぱくて、顔をしかめてしまうほどだったっけ。
彼は「甘くするおまじないだ」と言って、自分の分の甘いクリームを譲ってくれた。あんなにも優しかった彼が、今では私を冷徹に見下ろすようになってしまった。
(……でも)
もし、レオニスが呪いを受けていたらどうなっただろう。
公爵家にはレオニス以外の後継ぎがいない。今ほどの勢力も持てず、父の研究も頓挫していたかもしれない。
魔導通信は、従来の通信魔術を上回る精度を誇る、世界を変えた画期的な発明だ。もしあの呪いが彼にかかっていたら、この国の未来は、大きく変わっていたことだろう。
仕方がなかったこと。右足の痛みと違い、そうしなければ、胸の痛みを紛らわすことはできなかった。
レオニスは私が隣国へ行く予定があると明らかになった日から、屋敷に戻ることはほとんどなくなった。
別宅の主が不在であれば、私も彼の目を気にせず過ごせる。しかし、公爵邸のメイドたちは、エルム男爵家の娘である私が「横領の罪を問われず公爵家の嫡男と婚約した」という事実を、冷ややかな視線で突きつけてきた。
私はもちろん、彼女たちに冷たく見える態度をとり続けた。無駄な動きをしないよう、感情を表に出さないよう、常に気を張っていた。
だが、ここ数日、心労が祟ったのだろう。呪いの進行が普段より早まったことで、右足の激痛が私を襲うようになった。夜には、ズキズキと脈打つ痛みに眠れない夜もあった。
それでも、誰にも悟られてはならない。あと少し。あと十日ほど耐え抜けば、私は自由の身になる。
あくる日の午後、別宅の庭園から、にわかに騒がしい声が響き渡った。
「おい! どういうつもりだ!」
「何をしているんだ、この下手くそが!」
怒鳴り声と、何かが壊れるような鈍い音が聞こえる。
私は自身の部屋から様子を伺っていた。こんな時こそ、迂闊な行動は、かえって疑念を招く。しかし、騒ぎは一向に収まる気配がない。むしろ、混乱は広がるばかりだった。