山と積まれた書類に囲まれ、レオニスは眉間に深い皺を刻んでいる。彼が頭を悩ませる様子は、遠目から見ても明らかだった。彼の集中を乱さないよう、私はひっそり、そばに近づく。
彼は全く気付いていない様子で、うめくように呟いた。
「魔導具の品質問題に起因する一方的な取引停止など、ほとんど前例がないではないか! このままでは、横領どころじゃない。甚大な損失は免れないぞ……」
ちらりと視界に入ったのは、机に広げられた書類の山と、そこに描かれた隣国の紋章。そして、大きく赤い文字で書かれた「貿易協定:破綻寸前」という見出しだった。
(なるほど……横領の件が重なれば、流石の公爵家も動けない。……お父様、もしやこれも織り込み済みで?)
父は『技術のためなら悪魔になる』タイプだが、そこまで恐ろしいことを考えるだろうか。私は思いつきを振り払う。
書類から見て取るに、我が国が提供する魔導具の品質問題が表面化し、先方から一方的に取引停止を突きつけられたようだ。確かに、このままでは、甚大な経済的損失は免れない。
フォルティア公爵家は軍人の家系でありながら、長年隣国との外交や貿易を主要な役割として担ってきた。この問題は、レオニスにとって、まさに公爵家嫡男としての手腕が問われる瀬戸際なのだろう。
私は静かに、だが注意深く、彼の呟く声を盗み聞いた。
魔導通信事業は、多くの国との間で情報インフラを構築している。その過程で、各国の貿易事情や、外交方針、そして技術レベルの動向について、父から膨大な情報を仕入れていた。
それらと照らし合わせると、隣国が求める本当の目的は……。
「失礼ながら、レオニス様」
私は、抑揚のない声で口を開いた。驚愕に目を見開いたレオニスが、呆然と私を見つめてくる。彼の蒼い瞳が、風吹き荒れる水面のように揺れていた。
「どうしてここにいるんだ、ステラ」
「読みたかった本を探しに来たのです。庭の騒ぎがなければ、当の昔に見つけていたものを」
納得していないらしい。レオニスはわざわざこちらに向き直り、私をじっと見つめてくる。
「机のものを覗き見していたか?」
「そんなことはございません。ただ、貴方様の独り言が大きいのですもの。それで、見落としている点があるのでは、と感じてしまって……」
彼の眉間の皺が、さらに深くなった。何か鋭い言葉が飛んでくる前に、口を挟む。
「その『魔導具の品質問題』とやら、本当に品質だけの問題なのですか? 隣国はここ数年、独自の魔導技術の開発に力を入れていると聞きます。彼らは、自国の産業を保護し、技術の優位性を確立したいのでしょう。そのための口実として、『品質問題』を利用しているだけではありませんか?」
レオニスの顔色が変わった。彼は、目を見開いて私を見つめている。
公爵家の人間は、長年の慣習と、自国の技術に対する絶対的な信頼から、まさか隣国がそこまで考えているとは思いもしなかったのだろう。彼らが注目していたのは、表面的な品質問題と、その対応策ばかりだ。
顎先に手を当てていたレオニスが、ゆっくりと私の目を見た。
「つまり……我が国がいくら品質を改善しようとも、彼らは別の口実を見つけて、結局は取引を停止する。真の問題は、彼らが我が国の魔導具に依存せず、自立しようとしていることにある?」
「流石はレオニス様」
拍手を送ると、レオニスが嫌そうな顔をした。私は立て続けに言葉を浴びせる。
「であれば、解決策は、品質改善だけではありません。隣国が欲しているのは、我が国の最新技術への『アクセス権』、あるいは『共同開発』といった形での提携ではないでしょうか。そうですね、我が国が誇る『魔導通信』の技術について研修生を受け入れる、と言うのもよいかもしれません」
私は、父から学んだ交渉術と、世界の市場動向の知識を、レオニスを試すかのように淡々と語った。
呪われた足のせいで、外出も碌にできず、部屋に閉じ込められていた私。
父も、母も、呪いを解くこと以上に、私の世界を広げようと苦心してくれた。
たとえ閉じた部屋の中であっても『魔導通信機』があれば、外にいる人と会話ができる。その技術を活用し、父の知り合いの研究者や世界で活躍する商人との対話の機会を設けてくれたのは、他でもない母だった。
レオニスは、私の話を聞くうちに、徐々に顔色を変えていく。彼の瞳は、驚き、そして……訝しむような目つきに変わっていった。
「そんなことを、どこで……」
彼は掠れた声で問うた。
「父の事業で得た情報ですわ。世界の市場は、貴族の茶会よりも、遥かに動きが激しいものですから。なにより『魔導通信機』の発展はすさまじいスピードですのよ? 貴方様方が、自国の栄光に酔いしれ、外の世界に無関心でいたからこそ、見落としていたのでしょう?」
私は、あくまで『悪役令嬢』の仮面を崩さないよう、皮肉めいた笑みを浮かべる。レオニスは、その後何も言わなかった。
しかし、翌日から、別宅に公爵家の外交担当者たちが頻繁に出入りするようになった。彼らの表情は当初、困り果てたものだった。だがさらに次の日には何か光明を見出したかのように活気を帯びていき、最終的に髭を生やしながらも目は輝いている始末。
そして、数日後、レオニスが私に告げた。
「……ステラの言った通りだった。隣国は、我が国の技術提携を望んでいた。王立学院に問い合わせたところ、隣国からの留学生の受け入れを予定していたそうだ。危うく、取り返しのつかない事態になるところだった」
彼の声には、微かな感謝の響きが混じっていた。
「ありがとう」
それは、これまで彼が見せたことのない、私に対するとても素直な言葉だった。しかし、私は胸に渦巻いた嬉しさを、無感動な表情の奥にしまい込んだ。
これでいい。彼が私を理解する必要はない。ただ、国が、父の事業が守られれば。そして、私が、この足の呪いから解放されれば。