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第10話 呪いは謳う

 隣国との貿易協定を巡る問題が好転し始めてから、レオニスは以前にも増して多忙を極めているらしい。屋敷で見かけることは少なくなった。


 そんなある日。お父様からの手紙が届いた。イルーナが大切そうに運んできたそれを開くと、そこには二つの情報が書かれていた。


 一つは、隣国での治癒師との接触の目途が立ったこと。旅程の具体的な計画も提示されている。完璧な解呪でなくとも、かなり呪いの進行を遅らせられると伝えてくれたそうだ。


 ようやく、この足の呪いから解放される日が近づいている。安堵の息が漏れると同時に、ふと思ってしまう。レオニスとの婚約も、もうすぐ終わりになる。


 そして、もう一つは、フォルティア公爵家、具体的にはアルバノ公爵が、レオニスに魔術テロの真実と、私の呪いのことを話す「目途が立った」ということだった。


(まさか……今になって)


 私は手紙を握りしめた。これまでの全てが、レオニスに知られる。私のこれまでの態度に隠した理由も、彼を庇って呪いを受けたことも。


 その全てが、彼にどんな変化を起こすのか……考えても分からない。


 レオニスは朝晩の短い時間に、屋敷に立ち寄ることがある。


「ステラ、隣国からの学生の意見投書が……」

「ええ。新聞で拝見いたしました」


 そんな短い会話をしながら、時には食事をとる。


 彼が私を見る視線には、以前のような露骨な軽蔑の代わりに、困惑と、ほんのわずかな探るような色が混じるようになっていた。


「きっと、お嬢様に感謝なさっているのですよ」


 朝のマッサージをしながら、イレーヌが言った。


 納得がいかない。だって彼ばかりでなく、別宅のメイドや庭師たちの態度まで変わりだしている。


 レオニスが屋敷に戻らない間も、私は別宅のメイドたちに、自宅と同じような冷たく見える態度を取り続けた。それ以外、特に何もしていない。


「お嬢様は、深く付き合えば付き合うほど、印象が変わるお人ですもの」

「その通り」


 エルム家から来たメイドたちが、イレーヌと楽しそうに喋る。そんなことがあってはならない。だって、私の被る仮面に、意味がないなんてこと、あってはならないのに。


 この日の午後。私は気分転換にと、別宅の庭園を散策していた。右手で扇を広げ、太陽の光を遮る。足の痛みは相変わらずだが、治癒師の元へ行けるという希望が、私を立たせていた。


 庭園の奥、かつてレオニスと隠れて遊んだ小さなガゼボがあった。父も母も笑顔でいっぱいだったあの頃を思い出し、そっと近づく。


 足を踏み入れて、息が止まるかと思った。


 レオニスがいた。珍しく軍服ではなく、簡素な普段着姿で、腕を組み、遠くの空を見上げている。その横顔には、執務で疲弊した様子が色濃く浮かんでいた。


 私はあえて彼に背を向け、庭園の薔薇を眺めるふりをした。


「……珍しいわね。次期公爵が、こんな場所で涼んでいるなんて」


 私の声に、レオニスはゆっくりと振り向いた。彼の瞳は、やはり探るような色を帯びている。


「……ステラか。お前こそ、こんな時間に庭を散策しているとは。いつものように、部屋に引きこもっているのが似合うと思ったが」


 彼の言葉は、相変わらず冷たかった。しかし、以前のような明確な悪意は感じられない。


「……この別宅の庭園は、本邸の庭に比べれば小規模で、手入れも行き届いていない。悪趣味な色の薔薇ばかりで、気分が滅入るわ」


 私は、わざとらしく嫌味を言った。レオニスは眉をひそめたが、すぐに視線を庭の隅にある、蕾をつけた小さな薔薇の木に向けた。


「……昔は、ここにもっとたくさんの薔薇があった。マリアン伯母様が、手ずから育てていたのだと聞いた」


 彼の声が、微かに感情を帯びた。マリアン伯母様――私の母の名前だ。レオニスが、母の名前を口にするとは。


「ええ、そうね。子供の頃は、よくここで遊んだもの。覚えているわ。あの時は、もっと彩り豊かな花が咲き乱れていた……」


 私は思わず、素直な言葉を漏らしていた。幼い頃の記憶が、鮮やかに蘇る。すっぱくて顔をしかめたレモンパイに、甘いクリームをくれたレオニス。あの温かい手が、今、すぐそこに……。


 レオニスは、じっと私を見つめている。その蒼い瞳の奥に、かつての優しい幼馴染の面影が、一瞬だけ揺らめいたように見えた。彼は、ゆっくりと、私の方へ一歩近づいた。


「……ステラ。お前は、変わったな」


 その言葉は、批判でも、軽蔑でもなく、何かを確かめるような響きだった。


 私は、はっと我に返り、すぐに表情を元の無関心なものに戻す。


「変わった? いいえ、わたくしは、エルム男爵家のために成長した。それだけですわ」


 あざけるような上目遣いをしながら、私は扇で口元を隠した。心の奥では、この冷たい言葉が、レオニスの僅かな優しさを遠ざけてしまうことが、ひどく悲しかった。


 レオニスは、何も言わず、ただ私を見つめていた。その探るような眼差しに、私の心臓は嫌な音を立てる。彼は、何かを勘付いているのだろうか。それとも、ただの思い込み?


「……今夜は戻らない」

「ええ、存じております」


 短い交流の後、彼と私はそれぞれ別々の方向へ歩き出した。


 別宅の自室に戻った私は、足の痛みがいつもより増していることに気づいた。緊張と、彼との交流が、心労を増幅させたのかもしれない。


 治癒師の元へ向かう日まで、あと僅か。


(レオニスに次に会う時には、足が少しでも動くといいのだけど……)


 もし私がレオニスの立場だったら、きっと耐え切れない。今更のように、私は思う。


 彼にすべてを隠すことが本当によい選択だったのか。公爵家の決定に、初めて、違和感を覚えた瞬間だった。


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