豪華絢爛な部屋に気圧された美弥が、混乱した頭で前も見ずがむしゃらに廊下を走って行く。
ドンッ!
角を曲がろうとしたところで曲がってきた人にぶつかり、顔に衝撃を受けてよろめく。
「きゃあっ!」
腕を掴まれて相手の胸元に引き寄せられ、気づいたら水色の髪色が印象的な中世的な美形が目の前にいた。
「気いつけんと危ないで」
「ひゃ、ひゃい! すいません!」
美弥は慌てて相手から離れ、頭を下げた。
(最近こんなのばっかり。恥ずかしい~)
赤面して顔を上げられない美弥の前に、相手はしゃがみ込み、下から顔を覗いてきた。
「あんさん、ひょっとして主の婚約者やないか?」
「ひぁっ!」
顔を覗かれた恥ずかしさと距離の近さに驚き、美弥は一歩後ずさった。
「そない驚かんでもええやん」
相手は苦笑して立ち上がると、ひとつに結んでいる背中までの長い髪が揺れる。晴麿よりも背が高くすらっとしているが、袖のない浅黄色の着物から伸びる腕は筋肉質で、引き締まった体型をしている。
「ご、ごめんなさい」
目を伏せる美弥をじっと見つめると、一歩近づき、美弥の顎をくいっと持ち上げた。
「美人さんやん。主にはもったいないなあ」
「えっ、その、あの」
美弥が目を白黒させて戸惑っていると、後ろからドタドタと走って来る足音と、美弥を呼ぶ3人の声が聞こえてきた。
「あっ、お嬢!」
「そいつから離れて!」
「お嬢に何してるのよ!」
美弥が振り返ると、3人が駆け寄ってきて、美弥と目の前の相手との間に割って入り、美弥を守るように取り囲んだ。
「ミチ、お嬢に触るんじゃねえ」
「お嬢、こんなのに近づいたらダメだよ」
「そうよ、お嬢。女たらしの淫乱式神なんだから」
「ひどい言われようやな。傷つくわあ」
「本当のことだろ」
ミチと呼ばれた式神の背後に晴磨が現われ、ミチは肩をすくめて唇を尖らせた。
「しょうがないやん。女の子が寄って来るんやもん。来るもの拒まずがぼくの信条やねん」
「はあ、おまえってやつは。美弥嬢、驚かせたな。だが、ここから先は本邸に繋がっているからミチが止めてくれて良かった。部屋で休まなかったのか?」
「えっと、それが……」
「へや、きにいらなかった。はるま、きらわれた」
いつの間にか美弥の背後にいたクラが、美弥と晴磨を交互に指差した。
「へっ? いや、気に入らなかったってわけじゃなくて、晴磨様のことも嫌いってわけじゃなくて」
首をブンブン左右に振り、クラの誤解を解こうとする。
「お前の助言を聞いたのが間違いだったか」
晴磨はミチを睨み、ミチは顎に手を当てて首を傾げた。
「ん~? 女の子から聞いた憧れる部屋を参考にしたんやけど、趣味に合わへんかったか?」
「いえ、そういうわけではないんです。私には分不相応の豪華すぎる部屋で、気圧されてしまって。それに、まだ婚約の身で、晴磨様の隣室など使えません。使用人と同じ部屋でいいですし、なんなら物置でも構いません」
一瞬場が静まり返り、いたたまれない思いで俯く美弥の耳に、すすり泣く声が聞こえて顔を上げると、涙目の3人と、同情の眼差しを向けているクラに、両手と両側の袖をぎゅっと掴まれた。
「悪いが、その要望には応えられない」
「そう、ですか……」
「主、そんなぶっきらぼうな言い方したらあきまへん。女の子にはもっと優しくせんと。これから一緒に暮らすんやろ。お互いの気持ちをちゃんと話して、仲良くせな」
「きゃくま、いく。おちゃ、もってく」
「あたいも手伝うよ」
「あたしも」
「お嬢、案内するぜ」
「あ、はい」
晴麿の方を見ると、はあと溜め息をついている。ミチに小突かれ、やれやれと肩をすくめて後について来た。
晴麿はクラ達の運んできたお茶を一口飲み、向かいに座っている美弥に目を向けた。
「昨日は突然、婚約者に指名してすまない。美弥嬢の気持ちも考えるべきなのだが、俺には美弥嬢がどうしても必要なんだ」
春麿の真剣な眼差しに美弥は顔を真っ赤にして顔の前で手を振りながら、あたふた問いかけた。
「いや、えっと、先日初めてお会いしたばかりで、その、必要な存在、というのは、どういう…‥?」
晴麿は、はっと顔を赤らめて首をぶんぶん横に振った。付喪神たちとミチは、赤い顔の2人を交互に見て、ニヤニヤした笑みを浮かべた。
「ち、違う! 変な意味ではなく、美弥嬢の霊力が、俺には必要だということだ」
「霊力、ですか?」
「何故、日本の東と西を守っている両家が婚姻関係を結ばないといけないのか知っているか?」
「いえ、知らないです」
「阿倍野家が受け継いできた陰陽師の力と、神部家が受け継いできた邪を浄化する霊力は、代々衰えてきている。俺は当主に比べたら子供同然の力しかない。桃華嬢は付喪神程度の妖怪を浄化する力があるとはいえ、式神がみえるほどの力はない。おそらく一昨日の蜘蛛の妖怪は浄化することはできないだろう。両家の当主は、互いの後継者が婚姻関係を結んで子を成せば、両家の力が合わさってより強い力を受け継がせることができると考えたんだ。だが、美弥嬢は、桃華嬢より遥かに強い霊力を持っている。力の弱い俺には婚姻関係を白紙にする権利はない。だから、せめて霊力の強い美弥嬢を婚約者にしたいと望んだんだ」
「本当に私にそんな強い霊力があるのでしょうか?」
「昨日は一時的に封印を解いてみたが、俺の力ではほんの数分、それも一部の力しか解呪することができなかったんだ。それなのに、美弥嬢にはクラがみえた。
式神は、自ら人前に現れない限り、他人が目にするのは容易ではない。式神はそこらへんの妖怪とは比べ物にならない妖力を持っているから、よほど強い霊力がないと見えないんだ」
「そう、だったんですね。でも、桃華さんの霊力は上級だから、私よりも強いのかと」
「いや、美弥嬢の足元にも及ばない」
美弥の脳裏に、役立たずだと罵ってきた父、佳江、桃華の蔑む顔が浮かび上がる。霊力が全くないのだから、役立たずだと言われて当然だと自分を卑下して生きてきた。自分に力がないからだと甘んじて受け入れてきたのに、本当は力が封印されていただけだった?
「お嬢、どうした?」
「顔色が悪いよ」
「大丈夫?」
ボタン、チョウ、コハクが心配そうに眉を下げる。美弥は胸元に手を当て、唇を噛み締める。
「なんだか、モヤモヤしてしまって」
「急に強い霊力が封印されてる言われても、実感湧かへんよね」
うんうん頷くミチに、ボタン、チョウ、コハクも納得したように頷きあった。
「あの、どうして私の霊力は封印されていたのでしょうか?」
「勾玉は母君からもらったと言っていたな。封じ込められている力が、人だけでなく妖怪の力も増幅させることができるなら、それを狙う妖怪は後を断たないだろう。母君は、妖怪から美弥嬢を守るために封印したと考えるのが妥当だな。
本来、阿倍野家に受け継がれてきた霊力は浄化の力だから妖怪は近寄らないはずなのだが、美弥嬢の霊力は少し違うものなのかもしれない。だからか、強力な封印が施されているのだろうな」
「お母様がそんなことを…‥。では、あの蜘蛛の妖怪が欲しがっていたのは、勾玉に封印されている霊力だったのですね。でも、私は妖怪を見たのも、勾玉が狙われたのも初めてだったんですけど」
「それは…‥」
晴麿が言い淀んでいると、クラが晴麿の方を向いてぼそっと呟いた。
「はるまの、せい」
「え?」
美弥が首を傾げると、付喪神たちも首を傾けて晴麿を見た。
「主、美弥ちゃんに言わんといけへんことあるやん。ぼくが代わりに言うたろか?」
ミチが苦笑を浮かべて晴麿の肩をポンと叩く。晴麿はミチの手を振り払い、ゴホンと咳払いをした。
「実は、半年前から神部家にミチを送り込んで、婚約者として選ばれていた桃華嬢の霊力がどれほどのものか、霊力を使った浄化の依頼をどのようにこなしているのかなどを調べさせていた」
「へ? そうだったんですか?」
「ぼくは人の目には見えへんからね。式神は隠密行動に向いてるんよ」
「ミチが、美弥嬢の勾玉から何か力を感じると報告してきた。美弥嬢に接触して勾玉について聞くために、昨日は偶然を装って町で会ったんだ」
「偶然じゃなかったんですか? でも、どうして書生さんのような格好を?」
「妹の婚約者だと分かり易い格好でいけば、話を聞く前に警戒されると思ってな。まさか子どもに勾玉を盗まれるとは思っていなかったが、おかげで力の強い妖怪が現れた。美弥嬢には妖怪が見えていないようだったから、一時的に妖怪が見えるようになる術を密かにかけたのだ。怖い思いをさせてしまってすまない」
目を伏せる晴麿に、美弥は首を横に振った。
「いえ、そんな。晴麿様がいて下さって良かったです。何もできないのに男の子を助けようとして、足を引っ張ってしまって、謝るのは私の方です」
「いや、助けられたのは俺の方だ。妖怪を調伏する時、美弥嬢に触れていた所から温かくみなぎってくる力を感じた。その美弥嬢の力を借りて、札なしで祓えることができた。札なしで祓えたのは初めてだったんだ。美弥嬢の力が思っていたより強いことが分かったから、婚約者として来てもらうことにしたんだ」
美弥は、蜘蛛の妖怪を晴麿が退治した時、肩を抱かれていたことを思いだし、今さらながら気恥ずかしくなり、赤面した。
「はるま、ちからのつかいかた、ヘタ」
「札を使って調伏すんのも相当修行しはったんよ。まさか札なしでできる日が来るとは夢にも思わんかったなあ。感動で涙ちょちょぎれるわ」
クラとミチに茶化され、晴麿は2人を睨み付け、ふんと鼻をならした。
「勾玉に封じられた霊力は、俺の力も増幅させてくれるが、妖怪の力も増幅させてしまう諸刃の剣だ。今まで勾玉が狙われなかったのは、美弥嬢が肌見離さず持っていたからだろう。妖怪に狙われていたとしても、勾玉を持っていたことで守られていたのかもしれない。そもそも勾玉は、邪気を祓い、持ち主を災難から守るとされているからな」
「私、何も知りませんでした。お母様は全部分かっててこれをくれたんですね」
美弥は勾玉を両手で包み込む。普段は冷たい感触の勾玉から、じんわり温もりが感じられる気がした。
「若、他にもお嬢に言うことあるだろ?」
「ああ、そういえば大事なこと言ってないじゃないのさ」
「大事なことって…‥あっ! 好きって言ってない!」
「なっ!」
「すっ…? えぇっ?!」
コハクに指を突きつけられた晴麿は顔を赤くし、美弥も同じく赤い顔で目を見開いて晴麿を見つめた。
「クッ、クククッ、アッハッハハハ! コハクちゃん、おもろいわ。主がそんなこと言えるわけあらへんやん」
お腹を抱えてミチが笑い転げる。コハクは顎に人差し指を当てて首を傾げた。
「あら? 違った?」
「ちげーよ。色恋沙汰なんざ何の興味もない若だぞ。そんなこと言うわけないだろ」
「コハク、あんたもう少し考えて発言しなさいな」
「でも、お嬢が若の婚約者ってことは、2人は結婚するってことでしょ。結婚って、好きな人同士がするんでしょ? じゃあ、好きって言わなきゃじゃない?」
「そんなの、最近あんたがハマってる読み物の中だけの話だよ。お嬢と若みたいな華族は、家同士の繋がりで結婚する、政略結婚ってやつなんだよ。好きとか嫌いとか関係ないのさ」
「えー? お嬢、若、そうなの?」
「えっと…‥」
美弥が困った顔で晴麿を見ると、目が合った途端、視線を逸らされ、茶碗に残っているお茶をぐいっと飲み干した。
「政略結婚といえば確かにそうだ。両家の力を補い合うための婚姻だからな。我が家の当主である祖父からは、いくら強い霊力があるとはいえ、いつ封印が解けるかも、どうやって解くのかも分からない美弥嬢と婚約するより、多少なりとも霊力があると分かっている桃華嬢と婚約しろと言われた」
「だ、大丈夫なのですか?!」
「だいじょばない。とうしゅ、おこってた」
「あのじいさんおっかねえよな」
「怒るとこわいんだよねえ」
「普段は優しいけどね」
「主は当主に頭上がらへんけど、昨日の一件で美弥ちゃんの力が強いことが分かったいうて、
美弥ちゃんを婚約者にする言い張ってな。婚約を許してもらうために、バチバチやり合って頑張ってたんやで。条件付きでなんとか許してもらえんたや」
「条件ですか?」
「3ヶ月で封印を解くことだ。それまでは婚約者としてこの離れに住むことを許された。本来は結納してから一緒に住むものだが、近くにいてくれた方が封印を解く方法を探り易いからな。
それに、一時的な解呪にでさえ1日寝込むほどの力をとられた。俺の力だけでは封印は解けそうにない。美弥嬢にも協力してもらうため、今日から来てもらったんだ。
あの部屋は急ごしらえでミチに任せたから気にくわないかもしれないが、好きな家具でも揃えて自由に使ってくれ」
「気に入らないどころか、豪華すぎて、申し訳なくて使えないと言いますか…‥」
肩をすぼめてうつむく美弥に、ミチが身を乗り出して美弥に微笑みかけた。
「あの部屋はな、美弥ちゃんに使うて欲しくてぼくが家具を揃えたんや。これまで不当な扱いを受けてきた美弥ちゃんに、本来の令嬢の暮らしをしてもらいたい、そう思うて準備したんよ。使うてくれへんかな?」
ミチのキラキラ輝く微笑みに、美弥は胸がトクンと跳ねた。じっと見つめてくるミチと目が合わせていられず、目を閉じてコクコク頷いた。
「つ、使います! 使わせて頂きます!」
「ほんま? 嬉しいなあ」
更に身を乗り出して美弥の両手を包み込むミチ。
「お嬢から離れろ!」
「離れなさいよ!」
「離れてよ!」
「ミチ、離れろ」
付喪神たちと晴麿が同時に、美弥とミチを引き離し、4人でミチを睨み付けた。
「皆してそんな睨まんでもええやん」
「ミチ、ちょうしのってる」
「クラまでなんやねん」
ミチは口を尖らせ、そっぽを向いた。
「とにかく、封印が解けるまでは婚約者で、解けたら祝言を挙げて表面上の夫婦になる」
「表面上ですか?」
「俺には、美弥嬢の霊力を得てやるべきことがある。この婚姻は俺の勝手な都合だ。力を利用するために婚約者として選んだことには悪いと思っている。だから、全てが終われば夫婦関係は解消して美弥嬢を解放しよう。生活には困らないよう支援するから心配しなくていい」
淡々と話す晴磨を、ミチ、クラ、付喪神たちは唖然とした顔で見ている。美弥は晴磨の言葉を理解しようとするが上手く処理しきれず、目をパチパチさせた。
「主、それほんまかいな」
「いみ、わからない」
「若、お嬢と添い遂げるんじゃねえのかよ」
「離縁するつもりで夫婦になるっていうのかい?」
「え~、お嬢かわいそう」
口々に文句を言われ、晴磨は眉をしかめて目を白黒させている美弥を見た。
「そもそも政略結婚なんだ。本当に夫婦になったところで俺は美弥嬢を養うことはできるが、美弥嬢を幸せにできる保障はない。女として幸せになりたいなら他の男を選んだ方がいいだろう」
「そう、なのでしょうか」
「俺はそう思っている」
付喪神たちは眉を八の字にして顔を見合わせ、ミチは小さく溜息をつき、クラは晴磨をじっと見つめた。
「まあ、どうしたいかは美弥ちゃんが決めればええんちゃうの? 婚姻は主の都合なんやから、婚姻関係を続けるかどうかは美弥ちゃん次第でもええやん」
「それはそうだが。俺みたいなやつと添い遂げても良いことはないぞ」
「自分で言うかね、普通」
「ほんとだよ。素直なのか、バカなのか分かんないお人だねえ」
「若、バカなの?」
付喪神たちは晴磨に睨まれると、ささっと美弥の後ろに隠れた。
「とにかく、美弥嬢をこの先ずっと俺の傍に縛り続けるつもりはない。最終的には美弥嬢が判断してくれ」
「は、はい」
美弥は頷いたものの、頭の中は疑問符だらけだった。
(晴磨様が離縁しろというならするのに。どうして私に決めさせてくれるの? 力を利用したいっていうのも正直に話してくれたし、やるべきことは何か分からないけど、それが終わったら用はないから別れろって言ってもいいのに、幸せにできる保障がないから他の男のとこにろ行けって、私のこと考えてくれてるみたいに言うし、やっぱり良い人なのか何なのかよく分からないよ~)
「今のところは、仮の婚姻ってことやね」
「そういうことにしておこう。美弥嬢、ここにいる間は自由に過ごしてもらって構わない。ただ、本邸には行かないようにしてくれ。当主とは関わらない方がいい」
苦虫を嚙み潰したような顔をする晴磨に、美弥は背筋を伸ばして頷いた。
「分かりました」
「それと、外出も自由だが、必ずクラかミチを連れて行ってくれ。一昨日のようなことが起こるとも限らないからな」
「おいら達も一緒に行くぞ」
「あたいたちはいつでもお嬢と一緒なんだからね」
「お嬢と一緒にお出かけ楽しみ~」
美弥の後ろから顔を出してきた付喪神たちと、クラとミチに美弥は笑顔を向けた。
「皆さんと一緒なら心強いです」
「ボタン、チョウ、コハク、常に美弥嬢と一緒にいるつもりなら、美弥嬢の身の回りのことは任せたぞ」
「おうよ」
「任せて下さいな」
「もちろん!」
「皆さん、晴磨様、ふつつつか者ですが、宜しくお願い致します」
美弥は全員に目を向けて畳に額をつけてお辞儀をした。