翌日の夕刻、王都南区にある商人宿「風見亭」のホールは、旅人と商人で賑わっていた。宙は慣れない環境に緊張しながら、木製の椅子に腰を下ろす。隣に座った美里は軽く手を振り、奥のカウンターにいる男を示した。
「あれが慶。昨日、身分証の件で協力してくれた商人よ」
宙はうなずき、慶のもとへ歩いた。
慶は金髪を後ろで束ね、帳簿に素早くペンを走らせている。彼は宙に気づくと、軽い笑みを浮かべた。
「お、転移者。昨日は驚いたろう?」
「そりゃあもう……」宙は肩を落とす。「でも、あの身分証って、本当に大丈夫なんだよな?」
慶はにやりと笑った。「大丈夫だ。正規ルートよりはるかに早いし、面倒な審査もない。まあ、少し高くついたのは勘弁な」
カウンターに置かれた地図を見せながら、慶は続けた。「で、本題だ。お前ら、何を探してる?」
美里が答えた。「〈失われた十二史書〉の手掛かりよ」
慶は眉を上げる。「へえ、危険な橋を渡る気だな……いいだろう、手を貸す。ただし――」
「ただし?」宙が身を乗り出した。
「退屈な書類仕事は抜きだ。興味がないからな」
宙は唖然としたが、美里がくすっと笑った。「それでこそ慶だわ」
交渉は軽やかに進み、必要な道具と情報の取引が成立した。慶は器用に条件をまとめ、相手に不満を抱かせない。宙はその手腕に感心しながらも、小さな不満を胸にしまい込んだ。
「……やっぱり高いよな」
慶は笑って肩を叩いた。「命あっての物種だ、忘れるな」
取引を終え、宙は宿の部屋に戻った。窓の外には夕日が沈み、街の灯りが一つ、また一つとともっていく。
「俺、これから本当にやっていけるのか……」
心の奥に残る小さな不安を押し込み、宙は眠りについた。
翌朝、宙は美里とともに「風見亭」の食堂で軽い朝食をとっていた。パンとスープの素朴な味に少し安心しながらも、昨夜の取引の内容が頭から離れない。
「なあ美里、慶って信用していいのか?」
美里は笑い、スープを口に含んだあと答えた。「信用というより、使い方を知ることね。あの人は興味がないことは徹底的に手を抜く。でも、その代わり興味のあることには全力で動くわ」
「……つまり、俺たちが依頼した“史書の探索”は、慶にとって面白い案件ってことか」
「そういうこと」
そこへ、慶が軽やかな足取りで現れた。肩に小さな革袋を提げ、笑顔を浮かべている。
「おはよう、転移者君。さっそくだが、依頼された物資と情報、用意してきたぞ」
彼は机に数枚の羊皮紙と小型の羅針盤を置いた。
「こいつは特殊な磁針を使ってる。古代文書に使われていたインクに反応するよう調整したやつだ。便利だろ?」
宙は思わず感嘆の声を漏らした。「すげぇ……」
慶は得意げに鼻を鳴らした。「興味あることには全力って言ったろ? それが俺のやり方だ」
だが、支払い額は昨日以上だった。宙は思わず財布を見つめ、「高いな……」と呟く。
慶は肩をすくめ、「安全と便利には代価がある」とだけ言った。
美里は小さく笑い、「慶なりの誠意よ。彼は手を抜くけど裏切りはしない」とフォローした。
その日の夕刻、宙たちは次の目的地――古文書のある図書塔へ向かう準備を整えた。宙は昨日の不安をまだ抱えながらも、心のどこかで期待が膨らんでいた。
「俺、ちょっとずつだけど、この世界に順応してるのかもな……」