遥か昔、イーゼルガルド大陸が一つとなる遥か以前。
人々は大陸の覇権を巡る争いを繰り返し、混沌に支配されていた。
悲しみや怒り、憎悪、それらの強い負の感情はやがて形を成し、魔物となって人々へと牙を剥いた。
争いは魔物との戦争へと変化し、そしてまた、より大きな負の感情が生み出されていった。
しかし、ある時、ある時代。
混沌渦巻くイーゼルガルドを眩い光が照らし出す。
人々を救い導くため地上へと降り立ったのは、魔を祓う《光焔の力》を司る女神ソララ。
その眩い光の導きは大陸に蔓延る魔を焼き祓い、イーゼルガルドへ新たな秩序を齎した。
そして人々は、女神ソララの下に団結し、大陸はイーゼルガルド
しかし女神の治める時代は永くは続かなかった。
女神ソララは、時の教皇に選ばれた者と恋に落ち姿を消した。
再び混乱に陥る大陸、教皇庁は女神のもたらした秩序を維持するため、その祝福と導きである《光焔の力》を受け継ぐ聖女を選び出し、女神に代わる大陸統一の象徴として、女神なきあと、新たな時代を歩み始めた。
「以上が、イーゼルガルド大大陸領の歴史です」
イーゼルガルド大大陸領、教皇庁直轄領セレストリア、聖都アウレルミン。
街の中心に建つ教皇庁庁舎に付帯する聖イルミナリス女学園の教室で、メトセトは頬杖をつきながら開け放した窓の向こうに視線を投げて授業を聞き流していた。
首筋が見えるくらいの長さで切りそろえた金色のショートヘアが、窓から吹き込む柔らかな風に揺れる。
彼女の内面があらわれる優しげな翡翠の瞳は、どこかを、なにかを見つめるふうでもなく、ただぼんやりと壮麗な聖都の街並みを眺めていた。
女神と教皇が恋に落ちる逸話には小さい頃こそ熱心に耳を傾けたが、何十回と故郷で両親から教わった大陸の歴史など、今となっては興味もそそられない昔話だ。
「その後、大陸は再び魔の脅威に晒されたと言います。文献では、当時の聖女は自らを光に変え、《光焔の力》でイーゼルガルドを救ったと伝えられています。この出来事により、聖女は《女神の代行者》と呼ばれるようになりました」
教皇庁直轄校として運営されるこのイルミナリス女学園では、教員も教皇庁職員との兼任で、つまりは侍祭が授業をとり行っている。
「魔を滅すため、聖女は日々祈りを捧げておられます。皆さんも、くれぐれも女神への祈りを怠ることのなきよう。敬虔な日々の行い、営みこそが魔を阻み、秩序と平和をもたらすのです。この由緒あるイルミナリスで研鑽を積む学徒としての自覚を持ち常日頃から___」
故にこの通り、その三分の一は訓戒めいた話だ。
やがて、正午を告げる鐘が鳴ると、侍祭は長い説教を終えて教室を後にした。
「メトセトちゃん、お昼いこ!」
食堂へと席を立つ生徒で騒がしくなる教室、そう言って駆け寄ってきたのは、栗色の髪の女の子、リッカだ。
メトセトとは違い、獣人族である彼女には犬のような耳と尻尾があって、授業中では耳も尻尾もすっかり下を向いてぴくりともしないが、今は元気を取り戻している。
「うん、行こっか」
リッカは入学当初からのルームメイトで、親友だ。
ふたりは教室を出た。
教皇庁庁舎の一部であるこの建物が学校として使われるようになったのは、セレストリアの永い歴史の中で見れば比較的最近のことで、そのため、建物の外観以上に内装もまた、およそ学校には似つかわしくないほど大げさな造りをしている。
磨き上げられた大理石の床に立ち並ぶ双柱と、ピラスターが張り出す白い壁面、ヴォールトの天蓋にはソララと聖女のフレスコが描かれている。
そして、その内装をことさら華美に見せているのは、随所に施された渦巻く金の装飾だ。
やたらと大きなアーチ開口部が連続するおかげで、複雑な空間には光が満ちている反面、影を際立たせるようにも見えて、その様相はさながら一つの劇場だ。
「……はぁ」
隣で昼食に心を躍らせるリッカにも聞こえないような小さなため息を漏らす、感嘆している訳ではない、この圧倒的な内装への妙な息苦しさからだ。
田舎で生まれ育ったメトセトには、派手なこの場所というのはいつまで経っても親しみを覚えられるものではなかった。
しかし、そんなメトセトとは裏腹に聖イルミナリス女学園はその絢爛な校舎の通り、多くの少女が憧れを抱く学校だ。
格式高い名門校としても勿論だが、特に人気を高めているのはその制服デザインだ。
黒を基調としたシックな色合いの制服は上品さがありつつも、コルセットタイプのフレアスカートやパニエ、チェック柄の大きなリボンタイ、ブラウス、袖がフリルになったブレザーなど、少女的可愛らしさを詰め込んだデザインで、この制服を着たいがために大陸中から入学を希望する女の子が集まる。
では、メトセトもそうした華々しい学園生活を夢見てこのイルミナリスの門を叩いたのかと言うと、そうではなかった。
「うわわ、すごい人だかり」
校舎から食堂へ繋がる渡り廊下へ出て、リッカが言った。
ここは運動場に面していて、生徒たちの間から、青々とした芝生の上で剣技実習に励むソーダー学科生の授業の様子が見えた。
足を止める生徒達は皆、一様にその授業の様子にくぎ付けになって、時折、色めいた歓声を上げている。
彼女たちが見守るのは、黒髪の女生徒と灰色の髪の女性騎士による一騎打ちだ。
訓練であっても稽古着には簡易な甲冑を装着するようで、遠目にも汗だくになっているのがわかる。
とりわけ、いま剣技実習を担当しているあの灰色の髪の女性騎士は、ソーダー学科長兼セレストリアを守護する聖騎士の長、その授業は半端な気持ちでは身が持たないほどだと、他学科へ跨いで有名だった。
疲れ果てて座り込んだり仰向けになっている生徒もいる中で、その黒髪の女生徒だけが唯一、必死になって訓練に食らいついていた。
木剣どうしのぶつかり合う音が運動場に反響する、剣術については素人のメトセトやリッカでも、現役騎士長を相手に息を吞むような剣戟を繰り広げる彼女の技能が
それもそのはずだった。
「さすが特待生だね!」
リッカの言った通り、あの黒髪の女生徒、アルメリアは、特待生としてこの学園のソーダーへ入学を許された少女だ。
この学園で最も注目を集める生徒と言っても決して過言ではなく、聖騎士長ハインリヒ直々の推薦によって入学を許されたということのほか、アルメリアの生い立ち、そして、その期待を裏切らない彼女の並外れた才によるものだった。
「……そうだね」
そして、メトセトにはそんなアルメリアが羨ましかった。
皆からちやほやされたいという意味ではなくて、彼女は自分自身に対して疑問を抱いていない。
騎士を目指す自分のことを理解し、余念がない。
一方でメトセト自身は、大袈裟に言えばそれを探すためにこの学園へ入学したのだ。
ここでなら、見つけられると思っていた。
「……」
運動場の向こう、聖都の中央にあるこの教皇庁庁舎のさらにその中心に位置する一際高い構造物へ視線を移す。
無数の飛梁によって接続された大小様々な尖塔を、周囲に従えるようにして聳えるあの塔は、《白銀の塔》と呼ばれ、セレストリアにおいて、いや、大陸において最も重要かつ特別視される建物だ。
白銀の名の通り、真っ白な石材でできた外壁は日差しを反射して輝いており、青空の中に異質な存在感を放っている。
あの塔が特別であるのは、イーゼルガルドをその輝きで導いた女神ソララが降り立った場所であると伝えられているからだ。
そう、女神の降り立ったというこの地でなら、自分は答えを見つけられると思っていた。
「メトセトちゃん?」
リッカが不思議そうにこちらを見上げていた、獣人族の女の子はどうしても小柄になるため、目線が低くなる。
「ううん。はやく行こ」
「うん!」
リッカと連れ立ってその場を後にする、去り際、なんとなくもう一度だけ視線を投げた運動場、稽古を終えたらしい汗を拭うアルメリアと、一瞬だけ、視線が交わった気がした。