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第2話

真鍮製の蛇口のハンドルを締める。

シャワーを止め、バスタオルを手に取って風呂場から出た。


腰まで届く黒い髪を丁寧に乾かしながら、アルメリアは冷めたコーヒーを口に運んだ。

カップを持つ彼女の左腕は、肘から上あたりまで金属でできていた。


しなやかで引き締まった少女の裸身とその左腕に嵌めた無骨な義手という対比は歪なコントラストを生み出しているが、アルメリア自身はもう十年近くこうした義手を肉体の成長に合わせ取り替えながら過ごしており、すでに体の一部だった。


ソーダー学科寮には稽古道場が併設されており、今日も朝早くから剣術の訓練に打ち込んでいた。


稽古の汗を流してさっぱりした体にブラウスを羽織る、ボタンを留め、コルセットスカート、パニエを着用し、リボンタイで襟元を彩る。

ブレザーに袖を通して、聖イルミナリス女学園指定のレザーバッグを背負い、バイクの鍵を壁掛けのラックから取って部屋を出た。


およそ学生アパートには似つかわしくない壮麗な建物だが、聖都アウレルミンにはこのような建物ばかりだ。

それでも、教皇庁庁舎やその一部である聖イルミナリス女学園の校舎と比べれば、まだ落ち着きのあるほうだろう。


駐輪場へ向かい、愛車である魔動二輪車TrailHawkへ鍵を差し込む。

路面に手が届きそうな低いシートに跨がって、腰を浮かし力強くキックペダルを踏み込んだ。

車体フレームに抱えられる大きなV字型の魔動機関が駆動し、燃焼に伴う排煙の独特な香りとともに重たい石を転がすような低く唸るエンジン音を吐き出す。


アルメリアは鞄からゴーグルを取り出し、そのトパーズのような褐色の瞳を覆った。

上体を屈めながら、左右に突き出るセパレートハンドルへ手を伸ばす、軽くアクセル回してエンジンを吹かし、バイクを発進させた。


魔動二輪車の駆動音が、石造りの街へと吸い込まれていく。

女神や歴代の聖女を模った彫刻が至る所から見下ろす石畳の道路を走る。

聖都の街並みは美しいが、一方で、重厚な建築物が身を寄せ合い影を落とす様子は、どこか圧迫感があった。


大通りに出ると、その先には聖都の中心である《白銀の塔》が見える、周囲の尖塔が飛梁によって中心の一際高い塔と繋がるあの姿は、まるで、何かに縋り付いているようにも見えた。


アルメリアが目指すのはその塔のふもと、教皇庁に付帯する聖イルミナリス女学園だ。


教皇庁は、その肥大化したシステムを体現するように、それが有する敷地も膨大だ。

庁舎前広場を通り抜け道路案内に従ってバイクを走らせる、アルメリアはTrailHawkと共に校門を潜った。


バイクを駐輪場へ止め、サイドスタンドを下ろす。

ゴーグルを外したアルメリアへ、ひとりの少女が声をかけた。


「よお」


振り返ると、狼のような耳と大きな尻尾を持つふわふわとしたダークグレーの長い髪の女の子が、肩に訓練用のライフルを担いで立っていた。


「おはよう、アイナス」

「TrailHawkのエンジン音が聞こえたから来てみたんだ」

「流石の耳の良さだな」


アルメリアは頭の上を指差した。

獣人族にはそれぞれ動物を思わせる身体的特徴があり、耳や角、尻尾などそれは多岐に渡るが、共通しているのは皆、人間と比べて高い身体能力を持つことだ。


「射撃訓練か?」


バイクを降りながら、アイナスの担いでいる訓練用ライフルを見て尋ねる。

彼女は、バレッタという銃士を育てる学科に通っていて、アルメリアとはまた違った意味で学園では有名な生徒だ。


例えば彼女の風貌、豊満な胸の谷間を見せつけるようにブラウスを開け放しており、スカート丈も学校の定める許容範囲よりもずっと短い。

ブレスレッドやネックレスなどのアクセサリーも無論校則違反で、言葉遣いも粗野なアイナスは学園の掲げる品行方正という教育方針に中指を立てるような娘だ。


一方で、彼女もまた人気者であるのは、裏表のないその性格と、学業、実技共に優秀であるからだ。


「ああ。スコア聞くか?」

「聞かなくてもわかるさ」


エンジンを停めてバイクのハンドルロックをかける、アイナスと連れ立って校舎に入った。

絵画や彫像、複雑な金の装飾で目もあやな学び舎の廊下を並んで歩く。


「礼拝もそれくらい真面目だったらな」

「私みたいなのが何を祈れって?」

「行儀の良い淑女になれますように、とか?」

「冗談のつもりか?笑えねえっての」

「ハハハ」


イーゼルガルドにはもう女神がいなくなって遥かな時が流れたが、教皇庁は今でもその威光を賛美するよう女神への礼拝を義務付けている。


にも関わらず、アイナスは定刻礼拝への参加率が著しく低い。

あの場でアイナスを見たのは、アルメリアの知る限り二、三回だ。


「女神はいない。祈ったって意味がないのは、お前がいちばんわかってるだろ」


アイナスがアルメリアの左腕を見やる。


「近頃になって魔物の情報が急に増えてる。女神の力が失われつつあるって話だ」

「だからこそ騎士が必要なんだ、皆を守る存在が」


確かにこの腕は、魔を祓う女神の加護が大陸から失われつつあるが故に生まれた悲劇、それを象徴するものでもある。

しかしだからこそ、この腕はアルメリアが騎士を志す信念の証でもあるのだ。


それはそれとして、とアルメリアはアイナスに詰め寄る。


「なんだ?」

「そもそも、祈りの場というのは深い内省を促す場であってだな、」

「お、おい……」


廊下で壁に追いやられ、間近に迫るアルメリアの顔にアイナスが露骨にどぎまぎし始める。


「女神がいないだの、祈る意味がないだの、それはお前の屁理屈であって規範意識というのは___」

「朝っぱらから頭の痛い説教はやめてくれって!」


飄々としたアイナスだが、こうやって真正面から詰め寄るやり方が彼女を懲らしめるのに一番手っ取り早い。

ふたりのやり取りを遠巻きに見ていた生徒が姦しい歓声を上げているが、アルメリアに気にする様子はなかった。


そもそもとして、アルメリアにアイナスを本気で更生させようというつもりはないのだ、親しい友人として、ただ揶揄って遊んでいるだけだ。

アイナスの反応を充分に楽しんだアルメリア、しかしふと、何かの声が聞こえた気がして顔を上げた。


「……ど、どうしたんだ?」


壁に追い詰められ、少し顔を赤くしたアイナスがアルメリアの様子に怪訝な表情を浮かべる。


「いや……何か、声が……」


廊下のアーチ窓、アルメリアの視線の遥か先にあるのは、《白銀の塔》だ。


「……」


この隙を見逃すまいと、アイナスは呆然とするアルメリアと壁の間からするりと抜け出す。


「おい、大丈夫か?」

「ああ……いや、おそらく気のせいだ」

「気のせいって、お前……前にも言ってただろ」


この学園に入学してから、今のように何かの囁きが聞こえたように感じたことは何度かあった。


ただ、それが具体的に何と言ったのかも、誰の声なのかもわからない。

共通しているのは、声のした方には必ずあの《白銀の塔》が見えているということ。


「……」

「ほんとに大丈夫か?」

「ああ。それより朝の礼拝に遅れる」

「じゃあ、あたしはこれで……」

「この流れで逃すと思うか?」

「わかったから犬みたいに首ねっこを掴むな!」

「ハハハ」


アルメリアはもう一度だけ《白銀の塔》を見やった。

いつもなら気のせいや偶然ですますのだが、今日ばかりはどうにも、胸騒ぎがしてならなかった。





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