聖イルミナリス女学園は、その日も夜の礼拝の時刻を迎えた。
教皇庁庁舎敷地内にある大聖堂での礼拝を終えたメトセトは、寮へと戻る生徒たちの中でリッカの肩を揺らした。
「ちょっとリッカ、礼拝中に寝る癖なおしなさい」
「ん〜……だって〜」
メトセトに引き摺られるように歩きながら、リッカはごしごしと寝ぼけまなこを擦る。
同級生のはずだが、彼女の小柄な背丈と幼い顔立ちも相まって、どうにも子どもっぽく見えることもしばしばだ。
溜め息を吐くメトセト、おぶって部屋まで連れて行こうかと考えていたところで、ふと、何かの囁きが聞こえて顔を上げた。
「なに……?」
「どーしたのー?」
あくびを噛み殺すリッカ、その肩を揺する。
「ちょっと。ほんとに起きて、リッカ」
「ん〜……?」
「なにか、なんだろ……こっち?ついて来て」
まだ目を擦っているリッカの手を引いて、メトセトは校舎へ入る。
昼間こそ豪奢な校内も、静まり返った夜にはその様相も違って見える。
歪められた複雑な装飾は何かの慟哭のように、アーチ窓から差し込む月明りに蠢いていた。
大理石の床を歩く二人分の足音だけが響き、冷たい石壁に吸い込まれていく。
自分がどこに向かっているのかもわからないが、直感に誘われるまま宵闇を湛える複雑な校内を進んだ。
階段を登って、上級生の教室が並ぶ階層へ。
さらに奥を目指して三つほど角を曲がったあたりで、今までぼんやりついて来ていたリッカの、犬のような頭の耳と尻尾がぴんと立ち上がった。
「メトセトちゃん……なにかいる」
「え……?」
「なにかの……におい?」
リッカの視線の先、とっくに灯りの消えたはずの校内に、オイルランプの光が漏れるドアがあった。
ドアに近づく、中からは人の気配がした。
メトセトはそっとドアを押して中へ入った。
「……」
中には書架が所狭しと並んでいて、オイルランプの灯りはその奥から見えている、気配も、その方向から感じる。
胸騒ぎがする。
耳鳴りはうるさく感じるほど強くなっていた。
書架の間を縫うように奥を目指す、そこにいたのは、小人族の生徒だった。
小人族は大人になっても見た目が子どものままという不思議な種族だ。
はだけた格好で床に座り込む彼女は、ブラウスから覗く細い肩を抱いて震えている。
部屋の奥を凝視するその顔は、恐怖で歪んでいた。
「あの、だいじょう___」
「待って、血の匂い……!」
「え……」
女生徒の様子をうかがおうとして、リッカの言葉で遮られる。
彼女の視線を追うと、その先には、書架の影から身を乗り出した魔物がいた。
狼を思わせる四足の体躯、だがその姿はずっと醜悪だ。
そしてその足元には、血溜まりの上にむごたらしい姿で横たわる男性侍祭の姿があった。
聖都の中心であるこの場所に魔物が現れたことや侍祭の一人がそれに殺されたことを理解するよりもはやく、その魔物は獰猛な牙を剥き出しにして、メトセトへと飛びかかった。
「メトセトちゃん!」
リッカが叫ぶ、身を守るように反射的に翳したメトセトの手のひらから突然、眩い白銀の光が溢れ出し、飛びかかってきた魔物を瞬く間に焔に包んで灰燼に帰した。
「え……っ?」
呆然とするリッカ、脳裏をよぎった最悪の光景が再現されなかった代わりに、目の前で起きたことは完全にあらゆる想像を超えていた。
「えっと……」
メトセト自身は、無論、自分が何をして何が起きたのかを理解していた。
リッカだけでなく小人族の女生徒まで唖然としていて、説明すべきか迷う。
しかし、どこかから聞こえてきた悲鳴が思考を断った。
リッカと顔を見合わせる、慌てて書庫を飛び出し、目の前の窓を開け放って身を乗り出す。
見下ろすと、寮へと戻る生徒たちが悲鳴を上げ逃げ惑う姿が見えた。
「なにが……」
「メトセトちゃん、あそこ!」
リッカが指差す、さっき見たのと同じような魔物が死角から飛び出してきて、生徒に襲いかかった。
あちこちから悲鳴が上がる、現れたのは一体や二体ではないらしい。
こんな聖都の中心に、どうやって魔物の群れが入り込んだというのか。
それを考える暇もなく、頭の中でまたあの耳鳴りが響いた。
「___ッ!今度はなに……?」
視線を上げる、その先には夜闇にその巨大な白い像を浮かび上がらせる《白銀の塔》が見えていた。
夜の礼拝を終えたイルミナリス女学園は、突如現れた魔物たちによって瞬く間に惨状と化した。
アルメリアは剣を手に、魔物と戦い生徒を避難させていた。
「いったい、どこから……?」
飛びかかってきた魔物に、身を引きながら剣を振るう。
斬り付けられた魔物は地面に転がってのたうつと、その体は真っ黒な塵となって霧散した。
何かがずっと胸に引っかかっている、どうやって聖都の中心であるこの場所に魔物が現れたのか、これだけの数が街の外から来たにしてはあまりにも不自然だ。
「アルメリア!」
思案するアルメリアのもとへ、大砲のような巨大な猟銃を担いだアイナスが駆け寄って来た。
日頃持っているのを見かける訓練用ライフルではなく、入学にあたって実家から持ち出して来たという彼女の愛銃だ。
「無事か……って、見りゃわかるな」
アルメリアの様子を見てアイナスが言った。
「こいつら、どこから来やがったんだ?」
「分からない。だがあまりに不自然だ、突然現れたようにしか思えない」
「まさか、禁忌を犯した奴がいるってのか」
最も考えたくない可能性だ。
つまりそれは、かつて女神ソララのもたらしたした魔を祓う加護に背き、魔物を使役し召喚魔法を用いたという、禁忌に手を染めた者がいることを意味する。
「___ッ!」
突然、耳鳴りのような、何かの囁きが頭の中に響いた。
「なんだ……?」
声の導くほうへ視線を向ける、すると、その方向から女生徒の悲鳴が聞こえてきた。
「アルメリア、今のは……」
「走れ!」
弾かれたように駆け出すアルメリア、慌ててアイナスも銃を担ぎ直して後を追いかける。
校舎の角を曲がると、そこには、生徒を壁際へと追い詰める熊のような大型の魔物がいた。
その魔物と対峙する生徒はアルメリアも知っているソーダーの学科生で、血に染まった脇腹を抑えながらも、毅然として剣を下ろすことなく、後ろに庇う数人の生徒を懸命に守っている。
「アイナス!」
アルメリアの合図とほとんど同時にアイナスが猟銃を撃った、砲声と共に発射された弾頭は、生徒へにじり寄る魔物の側面を捉え体勢を崩す。
飛び込んでくるアルメリアに気付いた魔物がすぐさまその巨躯を立ち上がらせた、前脚をかかげ、鋭い爪を広げた掌を振り下ろす。
アルメリアは左腕を突き出してそれを防いだ、鋭い爪に制服の袖が切り裂れ、鈍色の義手が月の光を反射した。
魔物の腕を義手で振り払い、剣を水平に構えて踏み込む。
そのまま鋭く突き出し、魔物の大きな体を刺し貫いた。
響き渡る怪物の絶叫、アルメリアが剣を引き抜くと、魔物は傷口から真っ黒な液体を噴き出させながら数歩後ずさって、仰向けに倒れた。
「大丈夫か」
魔物が動き出す気配がないことを確認して、アルメリアは怪我をした生徒へ駆け寄った。
「うん、大丈夫。ちょっと……掠っただけ」
ソーダーの生徒は脂汗を浮かべる青白い顔で、無理やり引き攣った笑みを浮かべた。
「うそよ!だって、あんなに血を出して……!」
彼女の後ろにいた獣人族の生徒が声を上げた、その子の言う通り、傷は明らかに深い。
おそらくさっきの魔物にやられた瞬間を見ていたのだろう、その獣人族の女子だけでなく助けられた他の生徒も、皆一様に不安と恐怖の色を浮かべていた。
「落ち着け。魔物の毒は侮れないが、早く治療院へ連れていけば助かる」
「クソ、かなわないね。アルメリア」
「力だけが騎士ではないだろう?君がいなければみんなあの魔物に殺されていた。君が守ったんだ」
アルメリアが肩を貸して、その生徒はどうにか立ち上がる。
「治療院へは私たちで連れて行くわ、避難もしなきゃだし」
「ああ、そうしてくれると助かる。アイナス……」
彼女たちが構外へ出るまでの護衛を任せようとアイナスへ声をかけたところで、またあの耳鳴りが聞こえた。
「___ッ!……なんだ?」
「おい、大丈夫かよ」
「いや……」
言いかけてやめたアルメリアを、アイナスが怪訝な顔で覗き込む。
耳鳴りが呼ぶ方へ視線を向けると、そこにはやはり、《白銀の塔》が見えていた。
「……」
あの場所から何か不穏な気配を感じる。
もっとも、《白銀の塔》はその頂上に聖女の聖室があるだけで、中は建物を支える構造体とスロープだけの造りだ。
聖室は聖女と教皇以外の立ち入りを厳格に制限した禁足地だ、まさかこの騒動を起こした何者かが聖女を狙ってあそこに向かっているのだろうか。
アルメリアは《白銀の塔》を見つめたまま剣をしまった。
「おい、どうしちまったんだよ」
「アイナス、彼女たちを外へ連れ出してくれ」
「かまわねえけど、アルメリアはどうすんだ?」
「行くところがある」
そう言い残して、アルメリアはその場から全速力で駆け出した。
「ちょ……っ、おい!」
確証があるわけではないが、聖室に急がなければならない気がした。
何かに導かれるように、アルメリアは《白銀の塔》を目指し、走った。