入ってきたのは中年の男性だった。
歳のころは50代半ばか。頭頂部の薄くなった茶色の髪をきれいに後ろへなでつけ、鼻の下にひげを立て。品良く服装も整えている。
見るからに高級そうな仕立ての服。貫禄のある風体から、町で位の高い役職についているのだろうと推察できる。
たとえば、この町の長とか。
椅子の背もたれに手をかけ、肩越しに振り返ったタガーと視線を合わせる。
しかしタガーを無視するように、男は正面に座ったシャンリルに声をかけた。
「ずいぶんと長く話し込んでいるようだが、どうかね? シャンリルくん。この少年は、あの魅魎の使いなのかね?」
「町長。
いえ。この少年は、旅の途中で立ち寄っただけのようです」
シャンリルの返答にタガーは驚いたと言うように眉を上げてシャンリルを見る。
「この町が魅魎に襲われていると知らず、町の様子に驚いて、だれか人がいないか見て回っていたのでしょう」
「そうか……」
タガーが『流れ』の魔剣士であると知りながら、あきらかにうそをついているシャンリルに、いつものタガーだったら気を損ねて交渉相手を町の最高責任者である男へと変えただろう。
だがシャンリルの返答に町長ががっかりしているようなのを見て、気を変えた。
黙って2人のやりとりを見守る。
シャンリルは、彼の肌が黒いのは彼の生国が南方の国だからと説明し、そして彼には今の町の状況の説明をして、勘違いから襲撃をしてしまったことを謝罪したと告げた。
「闇の気配がしたというのは?」
「わたしの早合点だったようです。町に漂っていた、あの魅魎の残り香だったのでしょう」
「なるほど。では――」
「彼はすぐにもここを発ちたいとのことです」
「そうか。それも当然だな。
町の長として、わたしからも謝罪をしよう。町の者が乱暴なことをしてすまなかった。だが、この町の状況を聞いたのなら、それもしかたないと納得してくれたと思う。
今の町の状況を思えば出て行きたいというきみの気持ちも分かるが、今この町の周辺は魅魎の監視下にあって、出て行くのは危険だ。事態が好転するまで、ここに残ってはどうだろうか」
「いえ、町長」すぐさまシャンリルが異を唱えた。「彼はすぐにもここを出たいとのことでした。わたしも同じことを言って引き止めたのですが、彼の決意は変わらず……」
そこでシャンリルが初めてタガーのほうを向いた。
タガーは少し考え。
「ああ。すぐここを出る」
シャンリルのほうに乗ることにした。
どうもこの男はあやしい。タガーが魅魎でなかったことに失望を隠さず、彼がただの旅人と分かると、今度は引き止めようとしている。
「しかし――」
「見張られてんなら、入ったのも見られてるだろ。けど、何もしてこなかった。
四六時中見張ってるわけじゃないんなら、出て行くこともできるんじゃねえの。第一、俺はこの町の者じゃないからな」
入るのは認めても出るのは赦さない、というのは十分あり得る。
穴だらけの言い分だったが、肩を竦めて見せたタガーに、男は「ううむ……」と唸って、彼の考えを変えさせる言葉を探しているようだった。
「それで? 荷物は返してくれるんだろ?」
シャンリルに視線を戻すと、すかさずシャンリルが言った。
「もちろんです。さあ、こちらへどうぞ。ご案内します」
「いやっ! ちょっと待っ――」
「町長。彼はこの町が危険と知って、去ることを望んでいます。わたしたちにはそれを止める権利はありません」
ぴしゃりと言葉の先を封じて。
ドアを開いて廊下に出ることを促したシャンリルは、しばらく無言で前を歩き、町長が追ってこないとはっきり分かってから口を開いた。
「すみません、まさか町長が来るとは思わず。説明が足りていませんでした。何のことか分からなかったでしょう」
「あー、まあな。ただ、あっちのほうがおまえよりうさんくさかったから、おまえに乗っただけだ」
「ありがとうございます。助かりました」
「いや、助かったのは俺のほうじゃねえの? あの様子だと、ただの旅人の俺を利用しようと考えてたんだろ?」
魔剣士じゃなく。
「……それなんですが――」
言いづらそうにシャンリルが何事か説明しようとしたときだ。
丁字路になった曲がり角からタガーたちのいる廊下へと入ってくる少女が現れた。
「あ、結界師さま。と、おにいちゃん」
シャンリルにぶつかりそうになった、ぎりぎりのところで足を止める。
その声から、つま先立ちしてのぞき窓から牢の中をのぞいていたあの少女だと分かった。
「ティカナ。廊下を走ってはいけませんよ」
たしなめられて、少女はまずいところを見られてしまったと首を竦める。
そして身をずらして、シャンリルの後ろに立つタガーを見上げた。
「魅魎のおにいちゃん、牢から出してもらえたのね。
……おにいちゃん?」
身じろぎひとつせず、少女を見つめたまま無言で立っているタガーになんらかを感じて、ティカナは首を傾げる。
初めてまともに見た少女の姿に、タガーは息を詰めていた。
真珠飾りのついたピンを刺した、くるくるの、金茶色をした巻き毛は細く、ふわふわとして。白磁を思わせる、透明感のある白い肌。走っていたため、ほんのりと上気した頬。
そしてこのとき、彼を呼ぶ声さえも、タガーの心を激しく揺さぶった。
「魅魎のおにいちゃんってば」
「………………あ、ああ……」
「どうかしたの?」
「……い、や……」
うまく声が出せないでいるタガーを不思議がって、ティカナはさらに近づこうとしたが、シャンリルに止められた。
「ティカナ。彼は魅魎じゃないと言ったでしょう? その呼び方は失礼ですよ」
「結界師さま、このおにいちゃん、なんだか変よ。うまくしゃべれないみたい。
薬師さまのところへ連れて行ったほうがいいんじゃないかしら? なんなら、わたしが連れて行っても――」
「いいからあなたは姉さんたちのところへ戻りなさい。また抜け出してきたんでしょう。ほら、髪飾りの真珠がまだ半分ほどしかついていませんよ」
言われて、ティカナは思わず髪に手をあてる。
シャンリルは目を閉じていて見えないはずだから、きっと、髪の飾り同士が擦れ合う小さな音でそのことに気付いたのだろう。
ティカナは恥ずかしそうにほほを赤く染め、「だって」と口先をとがらせて自己弁護しようとした。
「だって、つまんないんだもの。鏡の前にじっと座って、姉さんたちにされるがままになってるのって、すごく退屈。それより、2人はどうしたのかなって気になって。
ねえねえ。おにいちゃん、魅魎じゃないんだったら、おにいちゃんは何? どうしてここへ来たの?」
「彼は旅の人です。ここへは目的地へ行く途中に立ち寄っただけで、すぐ出て行かれます」
「ふーん、そうなんだ。じゃあ、あたしもお見送り――」
「ティカナ、やっぱりここにいた!」
少女を追ってきたらしい、女性が少女の来た廊下から現れた。
髪に真珠飾りを散らしてとても美しく着飾ったその女性はティカナより5つ6つ年上のようで、ティカナによく似ている。そして憤激しているのだと表すように、腰に両手を当てていた。
ティカナはぎょっと首を竦めて、「シャアルお姉ちゃん」と彼女を呼んでおそるおそる振り返る。
「あなたはきっとまた牢に行ったに違いないって、キサ姉さんの言ったとおりね!
さあ戻るわよ。そんなみっともない姿でうろうろしないの!」
「でもシャアルお姉ちゃん。あたし、気になって――」
「でも、じゃないっ。いいから来るのよ!
シャンリルさま、失礼しました」
シャアルと呼ばれた女性はティカナの後ろ襟をつかむと、シャンリルにぺこりと頭を下げて――後ろのタガーにはめずらしいものを見るような、不思議そうな視線を向けて――まだ何か言いたそうなティカナを強引に引きずって去って行った。
その姿を見送って、ゆるゆると、タガーはティカナが現れる前の彼へと戻る。
「……あの子は?」
先までとは全く違う、毒気の抜けた声の調子に気付いてシャンリルも小首を傾げたが、
「わたしの妻の末の妹です」
と率直に返す。
「ふうん。……いくつ?」
「? 11ですが……」
問いの意図がつかめないと眉を寄せるシャンリルの前、タガーはティカナの消えた廊下へ視線を向けたまま、
「どうりで……」
とつぶやいて一人納得している。
一体何のことか訊こうとロを開いたシャンリルよりも早く、タガーがまた意地の悪い目をして皮肉を投げかけた。
「にしても、思っていたより余裕あるんだな。女たちが着飾って遊んでるなんてさ」
女子どもは「武力」にも「防御力」にもならない、もっとも非力で、そしてそれだけに守らなければならないとされる存在だ。彼らは自己防衛能力すら低い。ほとんど望めないほどに。そのくせ想像力は豊かで痛みに敏感なのだ。
このような生と死の瀬戸際へと追いこまれた場合、男たちは侵略者と闘わねば、護らねばといきり立つが、護られる側となる彼らは最悪のときのことばかり考えて、おびえているのが通常。
そんな彼らがああして余裕を持つからには、それなりの策なり安心できるとっておきなりがあるに違いない。
そう予想をたて、見抜いたぞ、と笑うタガーだが、しかし次のシャンリルの飾る気力もないといった力ない返しに、彼の顔は笑いを刻んだまま凍結した。
「あれは……あれが、遊びであるはずありません。あれは、あの娘たちの死装束です……」