「どう? きれいでしょ?」
シャンリルと連れ立って部屋へ入ってきたタガーに気付いて、ティカナははしゃいで駆け寄った。
タガーの前でくるりと回ると、ドレスに付いた雫型のガラス玉がきらきらと光を弾く。
「ああ。きれいだ」
のどを伸び切らせて見上げているティヵナに、膝を曲げ、かがんで同じ高さで目をのぞきながらタガーが返す。
髪にいくつもさした真珠の玉飾りが金色の髪を引き立てていた。
表に細かな刺繍をされた上着とその上から肩にかける薄絹。幾重にも重ねられた袖口やスカートの裾からのぞく裏地にまで、びっしりと保護呪が模様として飾り刺繍されていた。
人としての気配を散らして、魅魎の目をそらして護ってくれるといわれる保護呪。
おそらくこの少女を送り出す、母親や姉たちの手によるものだろう。ところどころ針目が歪んでいるのは心の乱れの表れだ。その数の分だけ彼女たちは胸の張り裂ける思いをしたに違いないと、タガーは壁の方にひかえている女たちをティカナの肩越しに盗み見た。
一番端にいる、白金色の髪をおろした美女に向けてシャンリルが声をかけている。おそらくあれがシャンリルの妻だろう。
愛しい者を失う恐怖に青ざめ、まるで死人のような顔をしている。満足に言葉を返すこともできず涙ぐむ、その心を気遣ってシャンリルが肩に手を回した途端、わずかに彼女たちを包む緊張がほぐれたのが分かった。
「……ねっ?」
「…………あ?」
突然服を引っぱられ、訊かれて、急ぎティカナの方へと気を戻す。
「やーねっ。聞いてなかったの?」
ぷん、と片方の頬を膨らませ、とても愛らしい仕草で彼女はタガーを責めた。
「まるでお嫁さんみたいでしょ、って言ったの!」
「あ、ああ。
うん、そうだね」
これから自分の身に何が起きようとしているのか、何ひとつ知らされてはいないのか、無邪気に目の前でくるくる回って見せるティカナの姿に、膝上へ乗せていた手でこぶしを作る。
これほど上質の服を着せてもらったのは初めてなのだろう。その嬉しさにじっとしていられないのか、上気した頬でぴょんぴょん跳ねるティカナからは、おしろいの、うっすらと白桃のような甘い匂いがしていた。
そっと、薄化粧をほどこされたその頬に触れてみる。
まるで白磁器を連想させるきめ細かな肌からは、子供体温のほかほかとした温かみと、そしてしっとりとしたなめらかさが伝わってきた。
じっと丸い大きな瞳が自分を映している。
一度たりと汚されたことのない、清浄さをたたえた透明度の高い緑の瞳。
とくん、と不自然な、強い動悸がまたもやタガーの中で起きた。
「おにいちゃん?」
まるで人形のようだと思っていただけに、声を発した驚きでぱっと手を放す。
いつの間にか、タガーの手はティカナの両頬をはさみこんでいたのだ。
「……タガーっていうんだ」
先の不審な行動をごまかすようにそう言い、背を正そうとしたタガーの手をとってティカナはぎゅっと握りしめた。
「ほんとに、大丈夫? さっき、おにいちゃん、すっごく泣きそうな顔してたわよ?」
「……大丈夫」
俺が泣くだって? などと強気な態度も今度ばかりは見せようとせず、手でおおったロ元でそう答える。
どうも落ち着かない。こういうのは苦手だと、そのままシャンリルの元へ行こうとしたのだが、それを邪魔するように不意に何かが腰の辺りへしがみついてきた。
その、まるで予想だにしていなかった妨げについ、ずずず、と数歩引きずってしまう。
一体何事かと身を涙って見ると、ティカナがそこに懸命に張りついていた。
「あの…………ごめんなさいっ。
ほんとは、謝りたかったの、あたし。ずっと。
魅魎だなんて言っちゃって。ごめんなさいっ」
とくん。
とくん、とくん、とくん。
さらに鼓動が早まって、体を熱くする。
「いいんだ。べつに気にしてないから」
触れた箇所から熱とともに伝って、この妙なあせりを悟られそうな気がしてするりと腕の中から身を抜く。
不安そうに自分を見上げる、ティカナの頭にぽんと手を乗せて。タガーはにっこりとほほ笑んだ。
「安心して、ここで待ってな。もうじきおにいちゃんが本当の魅魎を退治して、みんなを助けてやるから」
そのあと、タガーは何か短い言葉をロにしたが、それがはたして何であるのか、そのとき部屋にいただれも、聞き取ることはできなかった。
真下で唇を読んだ、ティカナだけが不思議そうな目でまばたきをする。
「おいシャンリル! あるか?」
くるり、あらためて踵を返すとそう叫んでずかずか奥の衣装部屋に踏み入っていく。
その後ろ姿をじっと見ていたティカナの肩に、母親らしき女性の手がおりた。
「良かったわね、ティカナ。これでみんな、助かるわ」
「もう、いいんですって」
「ティカナ、良かった……!」
小さな妹を抱きしめてそっと目尻の涙をぬぐう彼女やその周りに集まった姉たちを見上げる。
「ねえ、母さま、姉さま。『テア』って何のこと?」
全然分からない、と小首を傾げて訊くが、その問いに対して満足に答えられる者はいなかった。
●西はずれ
銀の月光が降っていた。
生死の区別なく地上のありあらゆるものに降り注ぐ、月齢六の月の光は昨夜よりマシとはいえ、やはり微弱である。
見渡す限り、目に映るものは石と土くれだけという、ひどく痩せた土地だが、痩せた土地は痩せた土地なりに根付く植物もあるようで、ギリギリの栄養でここまで育ちましたと自己主張でもしているような、人の指よりも細い幹をした木々が、ぽつりぽつり生えた草の間からひょろりと伸びて、葉のない枝を広げていた。
よくよく見ると、大半は立ち枯れてしまった白木のようである。
クラーナ大陸のほとんど全域に渡るこの光景。それらがどこから来るとも知れない冷たい夜風にひゅうひゅうと音をたててしなる様子は、とても生者の属する世界であるとは思えない。
ただ果てることのない静寂と尽きることのない虚しさばかりがうなり木のような音をたてて周囲一帯の空間を統べている。
あるのは、沈黙。何をしかけたとしても決して
そうしてこの、もの言わぬ生きものは己の傍らで繰り返される、人と魔の命の奪いあいをその沈黙の中で、じっと見続けるのだろう。
己の生の間中、なんら変わることなく繰り広げられ、朽ちた己を床としてあとから芽吹く若木が同じように朽木となってもおそらく終焉は来ないだろう、その不様で醜い人のあがきを。
そしてこのとき。
シシャルカータ国辺境にあるサマルァという町の西はずれ、崖下一帯に生えた立ち木たちは、その果てのない闘いの中のひとつを今、目の当りにしようとしていた。
今にも途切れて闇に消えてしまいそうな、頼りない月明かりにぼんやり浮かびあがった白い細道を、頭から布をかぶった1人の女が歩いていた。
荒地より吹き流されてくる砂を避けるため、
それでは、女である、というのもはたして正しい表現であるかどうか分からなかった。
影すら容易に周囲の立ち木や岩が生んだ闇にまぎれ、散らされる、そんな脆い月光の下だ。加えてその者はすっぽりと全身を布の下におおい隠しており、はっきり見えるのはわずかに露出した前髪の先と足元のみである。
ただ、そのまとった布がかなりの上質で、花嫁衣装などによく用いられる模様を刺繍されていることと、裾の乱れを気にするようにあてられた手の仕草、身長で、女ではないかという憶測がたつだけだ。
その性はどうであれ、夜道をただ1人歩くその者は、崖のちょうど真下辺りで天の月を見上げて足を止めると、道からそれて、手ごろな立ち木の下にかがみこんだ。
オォオオォ、と獣の威嚇するような声をまねて、風が木々の間を渡る。弱まることはあっても、決して途切れることはない風。
「まだだ……」
布で隠した口元でつぶやく。
布のせいでぼやけてはいるが、高めのハスキーボイスだ。
その声によって、ようやくその者が女ではなく若者――それもまだ少年の部類に属することが分かる。
「まだ。はやるなって……」
ぼそぼそと独り言をつぶやく少年の手が、同じ布の下の、
風にあおられた布から垣間見えた闇色をした肌、右目をおおった布。言うまでもなく、その者はタガーである。
「ほら……気付かれるだろ?」
言葉をつなぎ、そうロにする間も油断なく周りに目を配る。その姿に、いつ、どのようにして現れるかも知れない敵への畏怖は微塵もない。
周囲を取り巻く闇を恐れ、萎縮してしまいそうな自分を勇気づけて気をまぎらわせるための独白でもない。
タガーは、ただあてた手の下にある「それ」をなだめるためだけに言葉をロにしていた。
首から下がった首飾りが首の動きに反応して揺れ、ふと視界に入る。
丸い翠石の飾り玉をところどころにあしらい、それらよりは少し大きめの、竜石と呼ばれる石のかけらを真ん中に通しただけの質素な首飾りだ。
タガーにあわせるためにと急ぎとりかえた紐は長くて、そして結び目も歪んでいる。
指先で弄ぶわずかな間、つま先立ち、手を伸び切らせてそれを自分にかけてくれた者のことをタガーは思い出していた。